LA SCIENZA    DEI    MAGI   魔術師の科学


対話編






Giuliano Kremmerz vs. uno scienziato   ジュリアーノ・クレンメルツ 対 科学者



ご自由にお持ちかえりください。














































アトラス:太陽系 ----- 太陽系内の人類、その構成分子の動きや力とは?

(* YouTube 参考動画より)----------

静止していると思われ続けてきた太陽系、しかし科学により、新たな事実が発見されつつある。
この事実は、常識として持っていた私たちの概念を、完全に変えてしまうものになるかもしれない…。
そして、私たち人類は、この事実が、偶然に無秩序に生み出されたものなのか、深く考えてみなければならない…。

これは、現実に起きている出来事である。
”太陽系の惑星は地球を含め皆、太陽の周りを回っている”…という昔の地動説は、正しいのだが、同時に、間違いでもある…。

私たちの太陽系は、時速約7万キロメートルで宇宙を駆け抜けているのだ。
これがまさに、太陽系の天の川銀河の中心に対する公転である。
太陽はまるで彗星のように惑星たちを引き連れて、共にその軌道を移動している。
惑星たちが、”らせん”状に渦を描きながら、移動しているのがお分かりだろうか?

この事実が、どんな重要な意味を持つのか…?
ただの”回転運動” と 、”らせん運動”は、全くの別物なのである。
すべて命は、”らせん” なのかもしれない…。
命は、”らせん状の渦”で、ただの回転ではなく、”らせん” で動く太陽系も、命の一部なのかもしれない…?

宇宙空間を、このようにらせん状にスピンし回転移動し生きる私たち生命…。

その一生の間、ほんの少しでも、この事実に目を向けてみる必要があるかもしれない…。
(*訳注* この動画の日本語訳はこちら & 姉妹編


コメント

太陽は、静止しているわけではなく、地球を引き連れスピン回転しながらこの宇宙空間を超高速で移動している…。

また私たち生命体、その身体は、同じ土から生まれ、同じ組成同じDNAから成り立っている。
「私というもの」は、宇宙そのものを内に宿し、万物と共に生き感じ日常を送っている…。
また、同じ原子・分子・電子の運動や機能に依存し、この真空中を、銀河中心に対し毎秒240Kmの猛スピードで回転移動し、さらにその私たちの銀河も他の銀河団との関係の中に在り、さらにこの宇宙に対し別の宇宙が存在するのかどうか?…

この宇宙のあらゆるものも全ては、命そのもので光そのものなのかもしれない…。
そう主張する人もいる…、その計算によれば、原子核内の陽子同士の入れ替わりの回転速度から導き出されたもので、光速の98%に達するらしい
また別の人は、原子から光が放出される時、いきなり光速の光が空間に放たれるのは不自然であると主張する、これは、重力や時間空間に対する人類の観念がまだ完全ではないからだろう…。

したがって、光の持つ性質としての電磁気作用のみで考えても、私たち地球上の全生命体は、DNAの同じ周波数帯域の電磁波、同程度のスケールの物質同士やそれを構成する原子や分子電子同士で共振し影響しあい情報を交換している、と推測される。
それら無数とも言いえる様々な機能や物質感覚によって、私たちは支えられ相互に作用しあって存在していることに…。

また、物体Aをこの地球上で静止慣性状態から移動させようと、例えば人がFをAという物質に加えると、その瞬間反作用力、つまりそこに留まろうとする力(-F)がAから移動させようとした側、つまり物体A以外の人を含む全宇宙の側Āへと働くが、接触面では相互に相殺し合い何も起こらない…?。
その後のAは回転や熱などを伴うと考えられている等速直線運動なる運動…、Ā(人体を含むA以外の宇宙時空間側)においては、素粒子群を含む時空場の運動や熱等の力が波及して行くことになる。
しかしAの等速直線運動は、地球場や太陽系の銀河中心に対する回転場の中に在るので、等速直線運動と言えるのかどうか?
これらAとĀのニ連係のふたつの動的バランスの接触境界面には、この作用反作用の対としての場やAやĀが生成され、この二連系それぞれの側の運動エネルギーが接触面を通して交換されている事を意味し、あらゆる物質はこの動的なバランス状態の時空場の中にこそあると言える。
簡単に言ってしまえば、二連係の境界面自体が宇宙空間の中をどういう経路か相かは分からないが振動しながら移動また回転していると思われる…。
それゆえ、様々な物質の作用が時空場的に複雑に重ね合わさって私という物体に作用していると推測される…。

ここで、地球自転のコリオリ力、素粒子や原子分子のスピン、また上で少し触れた陽子同士の入れ替わりの近似光速回転力、つまり物質の中心へと向かうミクロな素粒子・量子スケールの多重らせん的な強大な圧縮力、その反力側の銀河中心の超巨大ブラックホールへと向かう強大な圧縮力などについて考えてみよう…。
ここではこれらを単純化し、ミクロコズモAとマクロコズモĀのニ重連成系とし考えるとすると、作用反作用の接触面あるいは境界相動的バランスが形成される…、この接触面は、動的な不可視の時空:S()なる領域/「動的バランスの時空間」となる…。
この様に考えると、この動的な不可視の時空が様々に多重的に編み込まれた世界の狭間に私たちが体験しているこの地球世界が存在しているのかもしれない…、と言うことができる。
なぜなら、この地球も太陽も銀河も常に動き続け、私たちはその動的な不可視のミクロマクロなバランス空間内に宇宙のらせん的多重作用で織り込まれている様に思えるからです…。
このように考えると、先に少し触れた等速直線運動は、決して私たちが考え直観している様なものではないと思われる…。
しかしこれが事実であるかどうかは別にしても、この動的バランスの時空間全域に、重力や素粒子の作用が及んでいると、現在の物理学は推測しているわけである…。

 
 カラビヤウ多様体

言い換えれば私たちにとってのこれら物質界は、この不可視不可触ミクロマクロの接触境界相を介した回転の対トルクの相互二連の連成系の強大な力として、対生成され、この不可視不可触の仮定要素S()も加わった3相(A、Ā、S())が人の内に形成され多重的に編み込まれ、この世界と相互に響き合っているということになるのだろうか?…。
この仮定的接触後の動的バランスの時空間要素S()なるものが、もし存在するとするならばそれは、いったいどの様なものなのか?
シンプルに考えればこれは、この二連成系が多重的に重なった時空間そのものであり、AとĀが接触後にも動的に伸縮する時空間で、あるいはそれぞれの物質が、この時空間と不可分の何かから成るもので、Aの一部もそれ以外のĀを含む時空間もが、そこS()から派生して来るものということなのか?
あるいはまたまた、A、Āとも関係のない絶対時空間場の中に物質が存在するということなのか、それ以外なのか…。
昨今の科学的弁によれば量子真空をつかさどるもつれや宇宙ひもを含む時空間なのか、はたまたエーテル(の復活)なのか?…

いずれにしろこの肉体という内的生体組織の物質群もひとつの原子・電子も、”らせん”的形状運動をする時空大生命体という何ものかを成す支点としての要素つまり多重的領域S()を構成する一員であり、またこのS()も回転連成系の対トルクの一種として形成されているのだろうか?…

そこには、常に運動をともなうバランスとしてのこの素粒子群的感覚体の自分・そして地球の自転や公転また銀河のらせん運動が縦横無尽に編み込まれ、この途方もない圧力やエネルギーを感じることのない、水中を泳ぐ魚のような、時空の変動をいささかも感じない日常という不変の動的バランスがそこにはある…、光の速度で?スピンする内なる光の渦/スピンの渦たち、この私たちDNA体というものが…
この生命体の触感/タッチセンス/存在感こそが、この自己のその魂と呼ばれるものを形成する五感の源なのだろうか?…。
なぜなら、視覚は目に光が接すること、音は鼓膜に音が接すること、匂いは鼻に化学分子が接すること、味は舌に食べ物が接すること、そして意識は生体神経系に電子などが接し流れていること(感じ)だから…。

はたしてこれは、事実か妄想か、また推測と言えるものなのか?…
これは、人がダークな時空エネルギーと万物をも共に感じ生きているということなのだろうか?…

ジュリアーノは言う…。

” 人間性は一つである ”、と。

またこうも言う…。
…” 事実は、生命というものが壮大で畏敬の念を与えるほどのものであるということ…
人間は、生と死を繰り返している…
種をまき実(身)となる…
地上のものや芽吹いたものは全て、それ自身であり、墓場の骨は炭酸カルシウムと化し、死したものは再び新たな生となる…
私たちは、常にその同類であり、同じ家族なのです ”、と…。

さらに…。
…、” 共同体としての血・肉・骨をもち、この地球は巡り巡っている…
平和、苦痛とそれらを飲み込む何かは、私たち正義の、私たちあやまちの、そして太古の私たち命の実体験から産まれ出たものなのです ”、と…。

…” 慎ましく振る舞い人知れず徳を積むこと、その労力をつぎ込み、申し分なく整理完成された人類の科学的見地によって植え付けられてきたもの、これらは、人々に平和をもたらし痛みや死の恐怖と戦っていくことだろう ”…

…”その理性というもの、その根源的コミュニティー、生活を共にし互いに結びつき幸福とはいえない私たちの誰をも拒むことがないその手は、開かれすべてを与えている、報酬も栄誉も望むことはない”、…と。

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この様に考えてくると、人が営んでいる心や思考というもの、さらに魂と呼ばれているものも、宇宙の営みによって生み出された一つの側面にしか過ぎない、それは私たち人間に貸し与えられたもの、あらゆる生命体と共に営まれているもの、そのさらに奥深くにこそ本質的な何かがあるに違いない…。
それは、今現在の私たちには知る(よし)もない…、その様に私には思えてくる…。
私たちは、この意識によって万物から隔離されてしまったが、同時にそれは万物から決して分離していることではなく、常にあらゆるものと共にあること、この肉体は万物によって支えられていることも意味している…、隔離と一体化、この矛盾こそがこの命を創り出している…、このとてつもない喜び、ここに至って再び私たちはこう問うていることに気づく…、自分はいったい何者?、そしてどこへ向かっているのか?、と…
しかし、本当は答えなどなく、また私たちは答えを求めるべきではないのかもしれない…、なぜなら答えはある意味限界を定める限定であり、それは存在の本質ではないだろうから ―― 生きる喜びを味わう、ただそれだけで十分なのかもしれない…。
ジュリアーノの言を借りれば、人類の科学的見地(真実を理解すること)、あらゆる矛盾を越えた体現こそが大切で、それは永遠の謎なのかもしれない。

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対話 その5/9


--- 対話の要約 ---

暗示の真の意味 --- の仕組みはどのようになっているか --- 身体の潜在エネルギー --- 信仰・信頼は客観的な力ではない --- 信じることは高揚的軽信 --- いつどのように信仰は外的現象として現れるか --- 信頼/信仰が治療・進歩をもたらす --- どのように奇跡が祈る人の内面にもたらされるのか --- ジュリアーノ学派の医療はヘルメティックではあるが神秘ではない --- 奇跡を行なう人とは --- ジュリアーノ学派のミッション --- ヘルメス医療は探求の場にあり人間を統合する愛の力である --- ひ弱や病はアンバランスの現れ --- 病は常に違和感として感じられる --- 麻薬は感覚の喪失をどう生じさせるのか --- 治療的媒体のセンターとはどのようなものか --- ヘルメス的看護とその結果 --- ヘルメス療法は形式的ではない --- 医者は効果のある治療法を採用し生かす --- 細菌学と細菌 --- 細菌が病を引き起こすのか? --- 人は意志で生体の治癒力を獲得する --- 個人に必要な実行力 --- 自然界に奇跡はない --- それは自然界の法則を知ること --- 眠りとその神秘 --- 眠りと死 --- 死の眠り --- 愛が創造し死は溶解する --- 精神分析と夢の解釈 --- 普遍宇宙の力 --- 全ての存在は地球磁気の影響下に --- 宇宙の潮流 --- コズミック・マグネティズム --- 眠りは創造し続ける --- 太陽は全ての源 --- それは地球の魂 --- 免れない人間の運命

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科学者
この7日間が長かったです-課題についていつ議論するのかと…
私は、それを完成させるまで私たちの対話を続けたいのです、その主題を徹底的に究明するまで…。
ジュリアーノ
それは間違ったとらえ方です…
なぜなら人間にとって本当に大切な科学、このような課題というもの、それらは究明し尽くされることはないのです。
イタリアで私は当初、ヘルメス医療と呼ばれる本当に実践的なものを普及する活動をしていました…
それは今も暗中模索、そして実践家と哲学者が捜し求め続け凝縮させた能力に関すること…。
それは、私たちがした様に、決してこの様に広範に話されることはなかったし、そこには教えの根拠が、また純粋にイタリアの特色があり、その程度に応じて私たちは、神秘主義から、また、信じるという行為から遠ざかりつつあるのです。
それが指し示すものや言葉は、正当なまた非正当な何かとして語られたもので、その人たちは、教養あるまた無学な人たち、意味の変性したもの、これらは確固とした科学的言葉として理解され、またずっと準備されていたある答えとして説明される必要があり、全て表面的には奇跡である…
それらの現象は、実験で理解しコントロールできるものでも、また機械的に理解できる要素でもない…。
暗示/示唆はほのめかすヒントを与えることから来ている、そっと忍ばせること、引き入れること、つまりそれは、シャルコー(*訳注* フランスの神経科医 1825-1893)の実験によれば、様式としては感激し身を委ねること、それは多くのロマンティックな出来事の広がりであった…
またそれは、錬金術師たちに彩られた時代であり、皆がこのシャルコーの様に、催眠術師や暗示を与える人になったのだった…。
皆、公式科学が受け入れた催眠術と呼ばれるマグネティズムの勝利を声高に叫んでいた…。
それゆえ皆、催眠術師や暗示家の言うことを聞き、その魅惑に満ちた驚くべきロマンスのバカ騒ぎを生じさせようとしたのだった…
それで彼らは、恐れ、また勇気づけられもした…。
ひとりの女性の例でお話ししましょう、催眠術師にじっと見つめられ、そしてその甘い暗示に囚われその男の腕の中でうっとり過ごす;…
銀行の会計係で言えば、強い視線を投げかけられ、口を開けくぎ付け状態、ある要求を言われるのを待っている:…
あなた方が、多額の小切手を私に与えるということ…。
全ては作り話、その何かは、ちょっとマヌケなストーリー…。
映画のロマンス;うそ・物語、ほら話し!
催眠術での暗示は、シンプル、何かの観念を分かち合うこと、何かがほのめかされること、およそ病理学的には、筋書き上の懇意の花嫁…。
ある種特殊な個人間で可能な出来事、神経システムとそのイマジネーション、つまりその実験の座にあるもの…
しかしもう一方では、誰でも繰り返せる簡単な行為を信じること…。
それは納得するヒント/提言、ある種の観念、巧みに忍び込ませ、そうする様にすること…
それは魅惑であり、かすかな心の動き・言葉・観念などの何か、その瞬間瞬間すべてに、また当人に訪れるもの…
その領域の何か、それがこの世…。
シャルコーが理解したかったのは、夢の中や半覚醒半睡眠状態で何を感じることができるかであった…
そして彼にはその状態が、信じやすい微妙な軽信またそれに抵抗しないという現実、この様なものだったということ。
それでその暗示の言葉は、この様に科学的な観念を意味し、それ以外ではないと言えるのか…。
その言葉を拡大解釈し他分野に導入し、彼らが信じれると言うのか…、それは、真実ではない。
それについては、以前の私たちの対話で経験済み、片足だけで立って耐える為にすること、あなた方が言及したそれに代わるもののこと、鎖の様な意志の力、それがより長時間そうしようとさせる…
人は、暗示によってそれを乗り越えようとさせられる…。
誰の暗示によってか?…
友人の何かが、再度その試みをさせたのか?…
科学者
友人とその構成要素、その鎖/絆…。
ジュリアーノ
このケースでは、そこに置かれた友人関係と構成要素、その接触で暗示が表現された…
それが、主たる何かであり、忍耐しようとさせたということですか?
科学者
その通りです。
ジュリアーノ
では、あなた方は、何をその鎖/絆の中に行為として結びつけ、人の同類圏を形成し、それを手にしているのか…
その友人というものをどう考え何を与えていたのか、何が本当の新たな力で、そして外的/客観的な人というのは何を意味するのか?
この何かは存在していなかったのか、またそうであったとして、片足だけでもっと長い間支えるその架空の能力で他の人もそれを利用し耐えたのか?…
どこから彼はそのエネルギーを引き出したのか、そこに何が流れていたのか…
もしかするとそれは、実際の力では全くなく鎖を形成するものではないのか?
科学者
他人からではなくそれは、彼の内側からであり、受け入れられた暗示を通して…。
ジュリアーノ
ですから、その力はその時すでに彼の中に存在していた第二の試み、そして何かがここ彼の中に提供されていただけ、それはつまり自己暗示的思考となっていたもの、友だちの絆、自発的な何かコミュニケーション的なそれまでにはなかったある種のエネルギーを彼が持っていたということ。
科学者
それがより論理的であるように思われるので、私はそう信じます。
ジュリアーノ
友よ素晴らしい、あなた方はそのの仕組み(人間の機能はまさにそれそのもの)、その何たるかを理解していますか?
私の理解は、発生時に引き出されたある種の決意/規定:…
人はそれを力と呼ぶ、ある種の原因となる行為/アクションであり、状態にあるいは体の動きに変更を加え留まるもの…。
その力の概念というものは、各々の瞬間の経験を通じ我々に訪れる…。
私たちは体を空間的に移動も変形もできないし、何かして疲労感なく身体が壊れることもない…
その何かを私たちは、《力》と言っている
あなた方が理解している一般用法としての物質の科学的な定義にも、そうした言葉が不足している;…
ほとんどの学者たちもそうした構造の力だとは言わなかった!
であるから友よ、片足で7分間耐えた時、彼はもう力が残っていないという自覚だった…。
もし彼が、その疲労感を先延ばしできていたなら、その保存力で彼に8分9分という時間が与えられたのか…。
しかし不可能だった、彼の力は全て使い果たされていた…
15分の小休けい後、彼はその姿勢を再びとった、彼の体は最初と同じ能力の力学的力では最初と同じで不可能だった。
力学的にそれは、《身体の潜在エネルギー》と呼ばれ、その働きの最大力は、彼にそれが何も供給されない時、身体が産み出せるもの、つまり他に別の力や外的な力が加わらない時のもの…。
7分間の小時間が経過した時、彼のその潜在力は、構造的に他人からのものでなく排他的独自のもので、耐える力はもうなかった…。
科学者
それが、真実。
ジュリアーノ
もしあなた方が、私にその自己暗示あるいは他者からの暗示で忍耐することを許したら、あなた方は、この二重の錯覚を起こさせる行為を秘密の隠し場所から湧き出させたと言ったかもしれない…
隠され最初には機能しなかった場所から、ある種の新たな力が、二重にまた五重の潜在エネルギーになった、と…。
科学者
しかしその暗示は、何かの力である…。
ジュリアーノ
暗黙の合意的な力学的な類の力ではなく彼の力量、アクションに応じて絶対的な潜在エネルギーが増大するわけではありません。
私は言いました:…
その暗示の意味を誇張しているのでも捻じ曲げているのでもありません、と。
その何かは、かすかに個人の意志の状態を改変し、そして他人から植え付けられた考えを彼のものとして受け入れさせる;…
しかしながらもしそれが、彼が達成しなければならない行為であるなら、その受け入れられた考えとしての行為は定着する、それは体力を消耗させる…
暗示され達成された何か、それは潜在エネルギーと共に準備されたものであり、それを超えるものではない。
あなた方は、その催眠術の夢見状態で指示し、課題への対処能力を高めようと試みる;…
しかし彼に命令し二倍五倍量に引き上げるよう命令されても、その暗示は、彼に普通最大50グラムの力も与えない。
科学者
あなた方が言う様に言ってみます…
しかし私たちのこの実験の場合本当は、この友人の中に何を与えたのか…
それは、その実験に与えられ到来していた外見上の変化全てであり、そしてすぐに鎖/絆が形成され、彼を助けたのだと私には思えた…。
それは最初彼が持っていなかった信じるという行為が、その力を再度彼に与えた…
そう私には思えます。
ジュリアーノ
親愛なる友よ、もしもあなた方がヘルメス的純粋性に入ろうとするなら、それらの意味を説明してください…
隠喩(たとえ)あるいは普通の言い回しを超えてしまわないように、本来の意味から離れてしまわないように、説明してください。
それは、まさにシャルコーの時代のことであった…、この”信頼”という言葉は、具体化させようと一生懸命になるという意味になろうとしていた…。
この文字言葉また詩的表現の使い方として(*訳注* また宗教的言語として)まったく正反対の意味のひとつの話し言葉になる可能性としてそれは存在していた…、”信頼”、このFides(*訳注* ラテン語:フィデス/信仰 →英語の faith:自信や確信へと変化)は、興奮や熱狂の状態であり、人の高まった熱中の瞬間の信じやすい性格や軽信のことです。
これは、人の主観的な行為です、自己暗示的神秘主義的な文学的な…。
それは、宗教的に準備構築されて来たある種のインスピレーションとなる可能性であり、確信ともなりえる筋書きへと拡大され哲学的現実として納得される…、言い換えれば、確信とともに確認される事実へと続く。
男は神の正義のもと信仰を持つことができ、女は恋人の愛情の不変性に生きる…、男は市民政治的統括の理想を得んと策略し疾走する勝利の競走馬…、しかしまあその信仰が力であり、どれ程それを待ち望みそうしたいことか、そんな惨めな人生に耐え忍ぶこと、しばしばそれは単純化され天にまします神々のせいにされ、それで確かに死をもいとわない…。
その信頼/信じるという行為は、主観的決意の変容の力であり、私たちの内面にとっては、真意の自己暗示の言葉、すべての改変を促すものなんです。
その奇跡は自己暗示的、意志による想像的なもの;…
なぜならその意志は、ゴールと目標のイメージであり、その信頼信じるということは成長し、ただひとつの何か巨大な力となって現れる…
それによって魂が与えられ、望んだまた優れた価値ある目標へと歩んで行くことになるのです。
それらの攻略的展開、望むものを請い求めること、多くの勝利の進軍、破壊的恐怖を打ち砕くその時間、それらが、演じる者たち皆あるいは犠牲者たちの可能性、その信じる価値を手にする時、奇跡という見方見地からそれは、研究する価値があり、人類の多大な労力が積み上げた遥かかなたの目指すものへと(いざな)われる…
それは、実体としてひとつのつながり・絆を形成し、そして奇跡を呼び込む…
そのエネルギーは、そこに生じるのです。
その信頼/信じるということ、その価値の中により熱く激しく、現象は現れる、そしてそれが、”感覚的力”である…
それが、私たちを規定する変化、変革・バリエーションとなる…。
様々な物事の中に、客観化という結果としてそれは与えられる、つまりそれは、外的に形の変更修正、そして、目にすることのできる自然の存在状態として与えられるのです。
その信頼の働きは新しい力を提供するもののように見え、その外観は試されている課題の味方であるようにみえる…
それは、彼の内にはなかったその可能性の状態を信じることができない状態からの改変であっただけ…
推理としての自己暗示、安易な和合的つながりではあるが、友人たちの輪によって形成されたもの、大多数の意志、その課題への心地いい流れ、それが彼を力づけていたということ。
その暗示、自己暗示、信頼の働き、イデア/理想像そのもの、それらは機械力学的に理解できる力ではなく、エックス/未知の能力のエネルギー…
それらは、説明不可能な何かである…。
科学者
それでもなお、大多数の人はあなた方が述べたこの様なことは理解していない。
暗示・信じるということ・自己暗示、要するにそれらは、それぞれの現象を産み出す力/能力と信じられた…。
ジュリアーノ
あなた方は多くの感覚を得ています…
それは、治療や病の除去・新たな能力の獲得などに関する信仰、多くの言葉で満たされた何か…。
どこぞのスーパーサイエンティストは、その治療信仰についての書籍を出版した…
マグネティストやその霊感、彼らのそれは、何か巨大な信仰治療の実効の力とされた…
しかしそれらの出来事は、全くもって客観公平なものではないでしょう?
そんなものは、まともなものではない。
私は別の機会で述べましたが、祈りの後に神聖なイメージとして浮かび、奇跡はその祈った者に訪れる…。
聖母マリアや聖人の祈りの姿、その魂の中に、それは生き生きと活動的に訪れ治療される…
それは、意志となり実行完成されるのです。
ヘルメティズムは、ポジティブな要素全てとして奉仕し、病み苦しむ者へと達し癒すことができる…
しかしこの目指すところは、私があなた方にお答えしそれを提示すること…
そうしてそれらをあなた方が理解する…
その原理・私たちの治療法を確立し、その力が提供されるようにすることです。
それに関して人々は、あることを理解していません…
一般的なことではないのですが、よくよく考えるということ、それについて皆さんがどう理解されているかということ…
空中に描くイメージの様な、幻想的ロマンティックな雰囲気の様なものに配されている原理、いつも意図し請願しながらも検討なく拒絶されている様なこと、その説明…この治療法としてのシステム…。
システムって、と?
一方でこれはシステムではなく、文字や言語としては”感覚”であり、それは自然に結びついたグループに浸透している原理の一種、人々の様々な弱さや欠陥を癒す全ての中間媒介(の原理)、身体的精神的またモラル的な(感覚);…
その発動、伝統的記憶の底辺にある奇跡を行なう統合的力のことです。
科学者
神聖医療の?…
ジュリアーノ
単純にヘルメス医療、そして神聖ではなく神秘医療の”感覚/感じ”…。
あなた方に私が語り、何度も何度も繰り返し申し上げて来たもの:…
私たちは物質界にあって、それは物質的力やエネルギーであり神聖なもの、太陽的何かという事ではなく、それは”光”・この輝き/光彩である人のインテリジェンス…、それこそがヘルメスでありひとりひとりが奇跡を行なう人です…
科学者
またもしあなた方が、これらの素晴らしさをご存知なら、無類の奇跡を行なう力に達しているに違いない!
ジュリアーノ
私たちの医療分野に関心を持ち、その開拓者たらんとする全ての人たちは、その奇跡を行なう力に達しようと努めている。
それは、私たち医療の最高到達点…。
その理想形であり、神聖な奇跡を行なう役割その模範型、それは、伝説のイエス…。
イエスは魚とパンを何倍にも増やし、死者たちを復活させた;…
盲目の者にその視力を与え、また必要に応じその父なる教えによって自らを十字架に掛ける(*訳注*人の無知/罪を帳消しにする)、それは天の摂理の何かであり、人のまたその同胞たちの大きな誤り/罪と組み合わさったということ。
私たちの形式としての奇跡を行なう力は、完全を達成するものとして人に訪れるでしょう…
それは、人の力、つまり身体的また精神的な能力です。
私たちは、様々な経験をし放浪する精神なのです;…
私たちが持っているそのミッションは、人から人へと巡回する松明(たいまつ)、明り取りの窓、その火を持ち遍歴すること;…
私たちのそれは内なるまた周囲の探求を先導し、そこに痕跡を残す;…
私たちは、その広大無辺のまた無限のパノラマへと続く小さな明り取りの窓を開けようとしている…
それを同胞たちそれぞれの苦悩や欠乏、この悲哀に満ちた共同生命体、それらの彼方/彼岸(かなた)へと火を燈し続けようとしている…
そこに存在している何か、それこそが、”アモーレ・愛”なのです…。
もし私がやぶ医者なら、治療家・奇跡を行なう人・よみがえったイエス、多くの人たちが信じる存在であっても、それは他の人たちには理解されない…。
私が知っている何か、この研究の課題点は、はるか昔から私を常に占有していたこの何事かの課題…
それは、あなた方に私が語っていること…
つまりもしも私が、以前ほかの機会・私の人生の遍歴で自分自身を深く知りたいと何度も思ったとするなら、私はある程度満足をもって熟考することができたということだろう…
過去の世紀の偉大なる治療家たちという何者かの人物像として…、彼らは私が信じる者たちだったと想像できたかもしれない…
それは今あなた方が、その存在をあなた方自身として決着をつけようとしているということ…。
私はあなた方にもっと単純で教訓的であるようにお願したい、私が奇跡を行なう人かどうか…、私は実のところそうではない…、と言うのは私もある若い頃、ある聖人に尋ねたからでその聖者が全くのところ病人たちを回復させたのかどうかということなのだが、つまりそのことで彼は冒涜されるものではなかった…。
…私の知る友人/ご婦人、その夫が死にそうだった…、それで私に治療を頼み込んできました、彼女が言うには、近くの教区教会で夕方ろうそくに火をともし最近名の知られるようになった聖人エクスペディタスに願掛けをするので一緒に治療のお祈りをして欲しいとのこと、だが私は彼のことを知らなかった…、がっ、殉教者名簿で分かったことだが古代ローマの民兵でキリスト教に改宗した者だったらしい…。
彼はここ50年聖人暦に加わる様になった、なぜなら彼の存在が配慮され、そのことで他の聖人たちもその名と共に神の恵みを直ちにもっと強力にすると考えられたからです…。
その主任司祭は私をその在り処へと案内した:木製のその像は1メートル半ほどの身長、槍と盾を持った古代ローマ軍の民兵の姿をしていた。
その彫像家は、彼を端正と言うより甘いマスクの英雄としてつくっていた。
足元から私はじっくりと彼を観察した、優しい微笑みをたたえた大胆な造りであった…
私は尋ねた:…
おお兄弟・聖エクスペディタスよ、君は多くの人たちが敬愛する奇跡を行なう人なのか?と。
彼の笑みは際立つばかりで何も答えなかった…。
そのにこやかな姿から私はその考えがはっきりと分かった:…
私は自分を(けが)してはいない、我々聖者は可能な善行はおこなう、その病の患者たちはその残りの何かを成すに違いない…、と。
それで私は確信した…
聖者たちが何なのか、それはこういうこと…、厳しく精査されたが汚れなき人たち…。
私は聖人ではないし、彫像よりはるかに劣る、槍と盾の戦士以下;…
ひとりの研究家で、自分のわずかな学びで試しその効果のほどを評価しているにすぎない…。
それが実際の全て、要するに私は死者たちを蘇生させたことは全くないしそんなことは誰にも言ってない。
私は病み苦しんでいる人たちに慈しみを持ち接していることは自覚している、そうすると彼らの何かが私の中に触れて来るのです。
確かな瞬間には、言えるだろう:”私”は愛するためにいる!、と…。
ヘルメス医療は探求の場、そこには人間を統合する力がある…、人は強いヴィジョンを持って愛するってこと…
それはプシュケー注13参照とその愛する人の地獄や闇のどこか遠いうつろな虚城・大衆的混乱…
人々の能力の限界の外側にして彼らの愛の限界…
人は、それを越えようともがき苦しむ…。
科学者
では、確かな処方のヘルメス医療に戻りましょう。
私は、価値ある優れた理想を持ちたいのです…
その原理だけでなく、実践面や可能性を手にする確かな結果を得たいのです。
ジュリアーノ
あなた方は、理解しつつあります。
それは常にポジティブ創造的なメソッドの何かであり、それらの物事が確かなものとなるようあなた方は刺激されます…
もしかするとそれが、実践的なものかもしれないのです。
それはまた、あなた方に影響を与えている私たちの医療、結果として創造的、どこでもどのようにでも制御可能なもの、それこそがまさに実践性を与える…。
私はあなた方にそれらの創造的要素を提示し、実践され統合融合されるようにしたのです。
その話の内容とは、私たち生体組織の形成についてでした…
オーラや雰囲気・空気・息・霊気として放出されるものだろうか、また何が治療させるのか、その信じること・信頼/信仰についても暗示されました…
さらにその手法は正しいのか、ここでの話題の様に、直接的内的理解でなければならないのか…、でした。
とりわけ私が主張したのは、愛があるのか、その形成過程をイメージできるのかということ…
意志としての力/能力を提供するその覚悟でした。
これらの課題で不安を抱かずその場を乗り越えれるよう、ある手法に沿ってお話ししました;…
私はこれらの理想というものを示し、そしてそれらが一緒に機能し、ここでは言及していないアルカイオス(*訳注* 独の錬金術師パラケルサスが主張した万物を融解する液体)としての理解/ひとつになる単独概念として、形成されるよう説明しています…
そのつながりが、生き生きとした主観/主体として、命ある人のマテリア/材料を形成し、それらを刺激し創造し自動的に働きだすようにさせる…。
人はアンバランスになると、病に陥ると私は何度も言ってきました…。
それぞれの健康な生体組織は、平衡状態/バランスで成り立っていて、それらは感覚の能力、またそれを構成する要素でもある;…
これが生物学的主題事項で、時に化学分析で進歩し、この事実の確認がもたらされてきた…
私たちの体から排出されるタンや血液など全てが分析研究され、これら要素の化学的恒常性/正常性という点から、それ(バランス)が最も高位のものであり、言い換えれば下位的には非恒常性/変則性である、と。
それらは、この様に物質的要素として多くの患者たちで入れ替えられなければならないと分かった…
つまり更新と変則/異常の正常化、体液・毒・タンの生成などに対しては、私たちの体の中の能力で効果的に排除交換されなければならない…。
科学者
しかしそこであなた方が言っているのは、それらの感覚能力のアンバランスについての事、それが主な内容でした。
あなた方が言いたいのは、感覚や感じ印象?そこに生成される私たちの五感の感じ?要するに、なぜそれらが「能力」なのか?それがなぜ不調に先立って訪れるのか?…
それは、構成要素なのですか?
ジュリアーノ
アンバランスの事を言っているのではありません、こう言ったのです;…
一方ではそれには、健康/健全性の指標、濃淡というグラデーションの側面もある、と…。
まずそれらは感覚をコンコンと打ち震わす…
私たちの生体組織のそれぞれの病理学的状態の中、様々な感覚、言い換えれば五感の感覚としてそれらはやって来る。
人が読み取る何か、不調和的な気分印象/”違和感”、私たちはそれを感じるのです。
それは私たちに普通じゃないという”感じ/違和感”として現れる、弱くなったり強くなったりと…、要はそれが私たちの”感じ/印象”…。
理解すべきは、その何かが私のものでシンプルに”考え”であるということ。
その要素が私たち肉体を成すと、とたんに粗悪変質化したものが私たちの感覚にと影響を与える。
感覚的能力のバランスという点、感覚の正常性という観点から、私たちの生体組織を成す様々な器官が目立たず機能しているなら、それが正常/健康状態である。
こうした”感じ”はその病のアンテナであり、触手として四方八方に広がっていて不調和を探り、それを脳に通告している、それは脳・ほかならぬアニマの器官という部分だろうが、まさに私たちのセンシビリティーのセンターである。
そこにあるのは病・違和感として通告されたそれではなく、また単純に私たちの感覚が病むことでもない。
それは健康な状態であり、特定の目印/”感じ”に占有された状態である…。
それ(*訳注* 目印/サイン)が病と入れ代わっただけ、存在しているのはその特徴で化学的要素の変質…、それが、”感じ”で私たちはそのことにすぐには気づかない…。
それは、糖尿病、下痢の症状や蛋白尿症においても同じ…。
痛みというものは、注意喚起の知らせ、私たちの感覚であって本来の機能ではなく、何らかの生体組織の部分が体全体とで反響するものである。
脳への知らせの何かは、私たちのセンシビリティー/感受性のまさに中心、そして人のパーソナリティー/個性や人格、それら全ての何かが収められているその中心点…
それはヘルメティズムでは、私たちの物的肉体を探る為の様々な感覚のセンターという一つの機能である…。
したがって、私たちの私「自分という何か」が定着したもの、すなわちその思考者としてのパーソナリティー、それはまた私たち治癒改善のセンター、私たちが病気の時の…。
麻酔薬のアヘン・コカイン・モルフィネなどはその時々の痛みや苦しみの感覚を遮断し、それに耐えている器官や思考者としての私たち人格間との結びつきを取り去ってしまう ―― つまり麻酔薬の類は有害であり患者の意識を抑え込んでしまう。
もしこの抑圧が一時的なものでなくなれば、それは完全にその中心意識が抑え込まれ、思考者としての人格の感知機能の能力は分離したままになってしまうだろう…。
宗教的な苦行・修行をする人はこの人格にある能力を得たいのか?
それは全て最高の喜びのため、そして痛み苦しみというものは不思議なもの…、人はこの分離の瞬間に至り、そして感覚は麻痺する…。
ヘルメティズムのこれは、その人にとってのmag(マグ)の状態であり、つまり私たち肉体の魔術的状態…、強い意志で他の方法を探り、意識的に(つまり感覚を麻痺させる薬剤を用いずに)そんな有り難くない”感じや印象”の全てを除去する…。
(*訳注* mag : 対話編2末尾の付記2とmag 参照 & 第9対話への前夜話の関連部参照)
(*訳注* 生理学的には、神経伝達物質のドーパミンも関係していると思われる:ドーパミンは快楽物質と言われるが、痛みや不快感を和らげ集中力や学習能力を上げる作用もある事が分かって来ている…、ドーパミンは元々は生命維持のためのエネルギーと関係する本能の部分、例えば食欲などと関係があるとも、更に近年、他者との情的共感とも関係するとされている…)
この自認の意識に留まり続けることは、望んでそうしている事、痛み以前に私たちの人格を放棄することでも勿論ない。
時はシャルコーの時代へと移行しその期待は催眠術の物語を生み出し、身体的さらに外科手術麻酔での無感覚へと変化していった、それらが感覚意識の喪失です。
と言う訳で、信じられたのは患者たちがクロロホルム麻酔に従い手術し意識を失う、また催眠術へと変わって行った ―― 今は同様の新たなフランス新学派の心理分析が築かれ、これらは否定され不合理とされている…、それ以上にそれは催眠状態のある種の状態の可能性ということになっている…。
思慮深いそれらの賢人たちは、時代の変化と共に変わっている!
昨日のそして今日の催眠療法の過激論者たち!
科学者
余りに多くのことで混乱してます。
あなた方は多くのイデアをるつぼに投げ込もうとしている、そして一方私はそれが単純明快であればと思っている…。
ジュリアーノ
それはわかっています。
それには多くの考え方があります…
なぜならそれらは最もシンプルなある何かへと行きつくからです…
それらのイデアはこんがらがり混乱させ、描かれたイデア同士のつながりを見失わせるかに思わせる…。
私はもっと明らかにそして簡単に説明しようとしています:…
もしそれらの欠陥や病の状態が私たち存在(サトゥルヌス神的生体組織や中心となるメルクリウス神の優れた感知能力の身体)の実りなき状態であるなら、その私たち(思考者・優れた感知能力・繊細で心地よい隠れ家の様な私たちの印象全てが存在する)パーソナリティーは、生きているそして病んだ身体にバランスをもたらす要素を発現する治療センターである可能性もある。
言葉で表現できることは限られます:…
もしその身体的不調の訪れがそこに在り、私たちのパーソナリティーの感受性、身体センターによって生じるその印象があるなら、このセンターそのものはその手段としての媒体を持っていなければならない…
私の言っているその手段とは、精神的心理的な何か、疾患状態に影響し治療する何かのことです…。
科学者
それでどんな治療法ですか?
色んな考え?願い?意志や意欲ですか?
これらその治療薬キニーネ(*訳注* マラリア特効薬での例え)や砒酸塩(*訳注* 毒物のヒ素を含みペニシリン発見以前は梅毒等の治療薬だった)入りの小ビン、鉄の剣や(よろい)等の練り粉をあなた方は何と呼んでらっしゃるのか?
ジュリアーノ
ご指摘の小ビンやら練り粉よりもっとエネルギーに満ちたものです。
それが何かはあなた方はもう忘れてらっしゃいますが、私が言った意志のことで、それがイメージを形成しますが、見かけの特徴としては効力やその力の作用しない行為/機能//そぶりや態度のことです。
それは医療的なスパイス薬と言え、それ以上にある点でイメージ的な作用の出発点となり、つまりそれが病や弱点を持つ個人のまた毒物にも対する意志意欲となる…、それが動物細胞の分解性の化学構成要素に影響し、純粋なイメージのエネルギー権勢下での治療者となる…。
それは、ハーブや野菜類の効能であり、この様にシンプルに語られて来たもの…
それらは元々豊かな想像性/想像力で明らかにされ、言い伝えられてきたものだった…
形の類似・香りがもたらす作用・その感触や実践によりもたらされたもの、それらは、治療や改善に効果を与える…
その多くは、否定され現代の治療法では信用がない…。
それであなた方は、その様な奇抜空想的な治療法、またそれ以外のものにも言及している…
それらが、ヘルメス的医療を成している:…
あなた方は、窓に赤い紙を張り付け、部屋のランプを赤いガラスのものに変える…。
あなた方は治療している…。
その治療法は目で見ること、それで過ちを犯してしまう…
そこにバランスを再び与える必要がある。
それは、生物”化学”が知ろうとしていること、それはこの変化変容への到達です。
それがヘルメスの治療法:…
もしこの結果を得れば、その原理を得て治療法のひとつに至る…、実験してみる必要もないしそれが化学的ということでもない、また顕微鏡で見る必要もない、別の治療結果を得ようと確かな多くの処置法をするという事でもない。
私が理解したのは、人は学ぶことを通してどれ程に達したのかを知りたいということです:…
しかしそれは、ヘルメティックなものの中の何かであり、人はそれを悟らなければならない…
それは治る為にはどうあるべきかということ、それは対策としての手段、これが人を本物の人へと変える、つまりそれは手段としてコントロールする必要のないものであるということ。
もしその患者が良くなったのなら、それは病をどうこうしようとコントロールするものではなく、相手の苦しみを共に理解し勇気づけ安心させたからかもしれない…。
科学者
でも試し、あなた方としてはそうしたくない、そしてその様な処置で患者が治ったと言っている…、そればかりかそう信じるための証拠集めもしている、また他者には同様なケースでそれらしい指示をしてらっしゃる…。
ジュリアーノ
無益な二つの目的…。
評判を得ようとすること、しっかり世話をしないこと、なぜなら私たちは患者を探している乱暴でへっぽこな歯医者ではありません…。
私たちはその進むべき道の全てを指摘している、そして誰にもその通行料を要求してもいない。
私はヘルメティズムで、魔術また成就・実現・具現化について多くの事を説明しました…
それを成す者は中立的でなければならない…
つまり利害関係がないこと、ゆえに信用されること…
名声や金銭を求めることは、私心があり自分がその結果を求め生きてるってことを意味する。
名声や金銭を放棄すれば同様のケースで治療それ自体を提供することができるのか…
それは馬鹿げたふるまい…
なぜならそれは、ある人には優れた治療法であり、また二人目には良くもない、さらに三人目には有害であるから…。
それが、私が二分前にすでに言ったこと…。
必要なのは、それぞれの患者への無償供与・喜びを与えること、その様なある種の知恵や賢明さという贈り物であり、その辺の店で売られている様な”もの”じゃない…
要するにあなた方の手にずっと握られていたもので、あなた方自身という良識そのもの、私たちに頼る必要もないということ。
それが、私たちの治療法で形式的な処方箋ではありません…
手で指で触れることから始まり、貯水した水に浸すようにする…
つまりある複雑な様式の通常は無害な治療薬に…。
あなた方は、ぎりぎりの状況に対していて、普通そんな方法で準備し適用するどころではなかった…
それは見る/視診に頼らざるをえなかったという普通の状況、そのいつもの生き方の方向性を変える中の、確たる規範となるもの…
その脳にダメージを与えない心地よい統合的な方法こそである…。
その様な一連の技術の特殊な治療法、例えて言えば、それまでなかった自動車や履きもの、それが私たちのヘルメティックな処方です。
科学者
要するに定式的治療法もないし、前もっての処方箋の手当法もない…。
ですからそれらの方法は、国や大学から認知される通常の処方箋や医療とは真逆のものである…。
それら全ては、医療現場で何か月も看護し研究テストされ保証される医療や、また病にある人たちの世話をし実際的要求に添うものとはなりえないかもしれない…
疑わしく原理として何かそれらは、実際には違法で医療のプロとしては許されない…。
ジュリアーノ
どこへ突っ走る気ですか友よ、どうしてそんなこと思いつくんですか、そんな考えは持ってませんし、言ってもいません!
私たちは、この学びの初段階に在って、医学の何たるかを理解したわけではない…
大学においてはそれに備えようとしている段階であり、それは得策でないし危険でもある…。
それは、無知や傲慢という何かを卒業することであり、私たちがその実際的行動を決意するってことです。
まずもって肝心なことは、私たち古代からのイタリアの適確ではない部分、…なにかそのイタリアは、エノテリア(*訳注* 紀元前15世紀ごろの古代南イタリアのエノトゥリと呼ばれたインド・ヨーロッパ民族の居住地域の呼称)がどんな所で、どれ程の極上ワインの産地だったのかということ…
それは、直接的に良い意味で何千年という時間を越え守られて来た祖国というものではあるが、しかし誇張され幻想を抱かれたり、また何かを主張し熱狂するということでもない…。
私たちはその最前線にあり、そこに派生した神秘的な経験主義によるイデアは科学的原理となる…。
私たちはアメリカのクリスチャン サイエンス(*訳注* 19世紀中頃 Mary Baker Edy 夫人が米国で興したキリスト教の一派、信仰療法が特色)ではなく、患者の部屋に押しかけ治療医の処方箋薬を窓から投げ捨てる様なことはしない、ましてや指導者もいないそんな教会の信奉者でもなければ、時代遅れのベルギーのアントニオ神父(1846-1912) のアントニスト(*訳注* 治療法とキリスト教・分別や忍耐寛容などの教えによってヨーロッパに広がったムーブメント)でもない…
それらには何十何千とあり、その骨格が外科手術され、ひび割れがずっとなくなればと人々は望んでいる…。
私たちは先駆けであり、それは良く良く理解するということ…
現代の治療法という新たな原理・実践性、医学・癒やし役としての働き、改良しそれを生かしそれぞれの処方の持つ力を提供することで、それまでなかった治療者の治療手段、その能力を普通にあなた方に与えることです
またその医学の間に在って、それは科学であり人々に届いてはいなかったもの…
それが、この知識であり、そこには何もなかった…
患者に対応し看護していたのは医学者であり、何かがそのアニマ/魂と結びついていた…
精神的な力の流れ、あるいは慎ましく偏見や私心のない開拓者、私たちの医学を支える人たちが…。
あなた方はそこに何もないと思っている、それが私たちの実践的な何か…
その何かは、国によって受け入れられた医療が与える医学の保障という学位のその原理とは対立する可能性がある…。
あなた方は何を信じているのか…
次へ続こうと私たちの間で、この学んでいる医療理論はそれじゃなく多くは機能しないのではと思ってますか?
何事が起ったのか…、その気がかりな夢の数々・フロイトに始まったその心理学という研究にどんな価値が到来するのか…
それは心霊学の発展…、この私たちのヘルメティズムは神秘ではないし、これは重要な改良であり治療医学の文化、完全な治療者・医学となる価値があるもの…。
今はあなた方は、この変化を信じることができず、懐疑的であり続けるかもしれない…
しかしそれを全否定する権利はなく、その様な突出した新たな理論の説明は、明日の基礎実験による実際的な何かの前触れとなるのです。
科学者
この場この時の中であなた方は、どうしようとしているのか説明している…
そのあなた方のイデア/理想は、共有され正しく理解されているとは思うのですが、でもすぐにあなた方の様な治療法の研究、その全ての改革ステップに批判的になってしまうのです…
ちょっとずつじりじりとわきにそれていく…
それについてあなた方は語り、そして賛辞を織り成している…。
私の率直さが、あなた方を傷つけてはいないでしょうか?
ジュリアーノ
私にはどうぞそのままで…。
私たちはこの矛盾に満ちたイデアを越えもっと正確でピリッとした確たるイデアにたどり着く必要があります。
もしも私がそれを説明し称賛しているように思えるのなら、その実際的価値を示そうとしているのでなく、具体的その効果について触れているだけで、正確にはそうした力をテストし明確に示せるかもしれないと言っているのです ――
一方であなた方も私のこの課題に注目し関心を寄せてらっしゃる ――
あなた方は、それを軽蔑してらっしゃるかもしれませんが ――
要するに、あなた方が遠い将来に検証し、その様な挑戦的議論の精神が衰退していった時には再びそれに注目することになるでしょう。
科学者
それでは率直に恐れることなくまいります…
そこで思い出しますが、ちょっと前にあなた方が触れたこと、全ての患者たちがまず最初に訴えるそれら感覚、私たちの生体組織を突つくものとは一体何なのかということ…。
あなた方は例外はないと言いました、細菌に感染するとそうなる、と…。
チフス菌が人体に侵入します…
そしてその人の本来の特質がこの侵入を感じないと、その最初の潜伏期の変化状態は続くことになるでしょう。
ですからその感覚は現れることなく、最初にこの敵を特定するものではなく、それを感じない…。
ジュリアーノ
しかし私はそれは色んな感覚の色んな”能力”であると言いました、感覚であるとは言っていません:…
それは、感覚の活発な”能力”…感覚が示すもの/微妙な味わい風味、あるいはその味わいが”ない”こと。
それは(かも)し出された感覚の”何か”、一匹の蝶の羽の微妙な羽ばたき、そしてまたそこに現れる管楽器のビリビリした響き、生まれたばかりの新生児の泣き声…。
その感覚器官の能力は、人によってまちまち、そしてその”訴える声”は朝から晩まで変化している。
農夫のごつごつした硬い骨ばった手、また、鍛冶屋の手、それは裁縫や刺繍に慣れた女性の手のようには感じない…。
そこにいる誰かが気づく…
「どこか隅っこで火がくすぶってるぞ」、と…
そして叫ぶ、炎が上がるその前に、「火事だ」…、と。
科学者
要するにあなた方が信じていることは、細菌が摂取されるとすぐに人は何かの発達した感覚があり、それが彼の胃の中に入った微小な間借り人を感じることができる、ということですか?
それはちょっと心強いです!
ジュリアーノ
あなた方は、もう私の考え方、細菌学や微生物をどう考察するのかを理解しています、それは異端的・40年以上前からの見方です…
(*訳注* 細菌が発見されたのはロベルト・コッホによる1876年の炭疽菌が始まりとされている、ジュリアーノの生まれは1843年、従って細菌が発見されたのはジュリアーノ生誕後のこと、この当時はまだ細菌より小さなウイルスは発見されていない…電子顕微鏡ができてから)
これについては、語るその時ではありません…
細菌たちが影響を与え、あるいは病の原因となるのか、それは天のみぞ知ること。
一匹のウサギの体の中に侵入したものたち、彼らはそこに発生し住みついたその病…
しかしそれは、ウサギがその病そのものに侵されるということを言ったのではない…
一 患者の生体組織から細菌が除去されたなら感染しない可能性もあるということ…。
彼の中でその病根の特徴的現象が発生した時には、その細菌たちの姿はもうないかもしれiない…。
さて、それは侵入された、言いかえれば病気が発生したということでしょうか?
その始まりは、それぞれの病の特徴によるのであって、この場合細菌だけ毒とならない可能性もある…
つまりその感染には異なった始まり方があり、様々なケースがある。
それからまた私たちのどれだけの人たちが、病を発生させる細菌を食べてそれを知らぬ間に消化していることか?
それは受け入れないということ、その様な人たちは存在し、チフス菌の保菌者であり患者ではない…
それではいったいチフス菌の何が患者でない人たちに広がるのか?
現状では誰かは、その非常に進歩した感知能力を持ち、その細菌の中毒を感じる;…
つまりおおよそその信用のおけない伝染性の侵入者をもし感知したなら、彼はすぐ迎えの援軍を呼ぶことができないのでしょうか?…
科学者
誰がそれをするのか?医者か?お抱えの医者か?聖母マリア?奇跡を行なう聖者か?
ジュリアーノ
その皮肉もそこにはありです。
それはあなた方に示されていること、こうした物事が理解されるために私は大変な忍耐を強いられている、この事は現代科学の中心的準備段階としての研究で普通に感じることからはほど遠い…。
もし人が、ヘルメティックに健全で肉体的精神的にバランスの取れた能力を持っているなら、そのコルポ(*訳注* コルポ:世界実体の物的集合体としての肉体)をもっとずっと更新し続けるようするはずで、そこには”意志”(正確にはつまりその意志は柔軟性のあるものでそれについてはすでに述べた)としての行為/働きがあり、それが決定し通告するのは特殊な領域の権限(*訳注* 不入権・その意志に与えられている特殊な優遇された権限、組織体の免疫機能・相互の非侵害権)でありその人の生体組織のもの、つまりその細菌はそれに対抗するのではなく従うのです。
あなた方はこんな内なる寄生虫から人を解放する様な心理的なものが介在する行為や機能については、まったく聞いたことがないでしょう?:…
そんな腸内のうじ虫が赤ん坊の中にいて、神さまのご加護でか正しく宗教的な祈祷でか体外へと追い出された?それは魔術的な様式の確かに経験したその地での何かであり、彼らは回虫なのか線虫なのかを患者の腸から医学的な処置なしで退治した…
それは私が辺境の地ボリビア南部で見たこと、それはその地を巡回するやぶ医者のような彼らのお唱えでの想像力治療のおかげだと皆は言う?あなた方はそんな移民たちの雑踏の地や彼らを見たことは決してないでしょう…、八本の麦わらによって編まれた十字架が設置され、まじないがその雑踏の間近でかけられるところを?
私はサレルノ(*訳注* サレルノはナポリ近郊の地名)人で旅の手はずをした半分酔っ払いの司祭のこの種の興味にお付き合いし同行したのでした…。
ですからお唱えなのかお願いなのか、それは本当に排除した…、私たち自身の中でもそれは難しいことではないのかもしれない…。
何人かの人たちはヒートアップした劇場から外に出ている…、それは夜の冷気を恐れフードをかぶり息を押し殺しできるだけ病気にならない様に呼吸をしているようなもの、その間、まさにそんな意志の行為で耐えている: この冷気なら私を傷つけない…、病気にはしない、と。
科学者
あなた方はそのように関係のないことを無理やり結び付け、それで済ませてしまうが、私はそんなつもりではなかった。
時にそのトーンは信じられない主張を帯び、自然発生的にそれを要求してくる…
それには何か洗練されていないところもある…。
ジュリアーノ
あなた方は、それを避けることができないわけではない…。
もし私たちの理屈や主張が、人々の一般感覚からかけ離れたものでなかったのなら…、私たちの考えを正当化するのにとんでもない労力をつぎ込む必要もないだろうし、正しい意味の言葉を当てはめ、デフォルメされたものを一般的な用法の言葉に正す必要もないでしょう…。
科学者
私は、この話し合いでの半分は信じています…
そのあなた方が試みている治療法や記録…、それは、有益であり、その手掛かりと共に広がり、民衆の知識になりつつある…。
ジュリアーノ
そして私たちは、新たな歴史を築こうとしている!
それは、あなた方自身の中に小さな奇跡を産み出す、その様な条件に身を置く方法を理解し学び究めるための場を提供すること。
あなた方が、自身の行為として触れ感知できる結果を得た時に、そこに私が準備した策略やうそがいったい何だったのか、あなた方は、説明できないでしょう。
いったいそれが何で、確かなことなのか、治療や改善をもたらすものなのか?
愚か者たちを欺くための小さな(わな)なのか…。
友でありメンバーでもあったある有能な人は、かなりの年数その種のレッスンを受けた…
その探求に献身する間、その選ばれし人は情熱を持ってその教えを広めていた。
その人の家政婦が腫瘍を患い、何人もの著名な医師に来て見てもらったが、皆の意見は一致しての宣告だった。
できることは外科的手術、外科医の手による以外なす(すべ)はなかった…。
その女性はそれを断り、すぐにでも死にたいと告白した。
その私たちの友人は彼女を雇った人で、どうしたものかと思案した…
一致した宣告をした多くの医者たちから見放されたその家政婦が居る、彼女をその人の手で救えるのならと必要に駆られ支度を整え私たちの治療所に飛び込んできたのでした…
科学者
…それで彼女を救えるかどうかわからずに…
ジュリアーノ
ここで私たちが話すことは、ユニークな薬に関すること…
もしそれをこの話しで続ける気があれば…。
それは腫瘍の治療に関することで、私がもった印象のこと…その友人が物語ること、パセリを与えられた人のこと…
科学者
…スープの香味用に…
ジュリアーノ
…その癌の治療用にです。
パセリの汁で洗浄すること…。
その癌は最初は、悪臭を放っていたが無臭になり、それから小さくなり続け、最後には石化した小さなくるみの様な固まりになった。
科学者
それで、あなた方のその友人のこの奇跡は、私たちの大学の著名な教授陣やパリの医学アカデミー、またロンドンやベルリンへの仰天ニュースとして知られることがなかったのですか?
ジュリアーノ
その友人はその奇跡を全ての医者に話した、すると彼らがその患者や皆を訪ねて来て、この時も意見は一致したのですが…
彼女は診断を確実に間違われていた…
なぜなら、もしその腫瘍が治っていたとすると、治ったと宣言されたその事は、間違って癌と診断された状態だった…、と。
科学者
面白い展開ですね!
ジュリアーノ
何が起こったのか思い出す必要があります…
その何かが教えているのは、していること、試していること、実際になされたこと…
そのどれもが問い正されてはいないし、確実ではなく、どの様にも解釈できる…
それはサラセン人(*訳注* 古代アラブのイスラム教徒をローマ人たちはそう呼んだ)の科学的イスラム教…。
私が人間の内に秘められた能力の統合について話す時、信じていることははっきり言いますが、人体組織は完ぺきで可能性は自由自在、様式的にはどれもその機能は中途半端であり、言いかえればあなた方は後退したり回復したりしながらその真価を最大化する、のみならず一方では様々な価値の何かが疑いなく私たちの精神と肉体を進展させ解き放ち生き生きとした非凡なものへと成長させている。
あなた方の学びの目標としてこれを獲得するためには、忍耐が必要であり、もしも治療や奇跡を語りすぎれば、あなた方は全てを理解するという目的には達せず、天の恵みである科学的で最優秀な医者に成ることはない…。
それで、私は語りすぎないよう我慢している…
なぜなら私がそこに見ているものはごく一般的な(いや一般的すぎる)感覚であり、創造されたその時々の理想が慎重に据え置かれている…
つまりそれは、表立って認識されることはなく、信じ難い程の課題への拠り所となるものでもない…
人は、そこで鍛えられ駆り立てられ、様々な能力を進歩させることになるのです。
自然界に奇跡は存在しない…
全てはそのように見えて、実は私たちが知らない何かの自然法則の結果である。
もし知っていてもそれらの法則は人々が打ち立てたもの…
それが奇跡であり、それ以上のものではない…
そして人は自然の働きの領域へと踏み込んでいくのです…
その達成は二次的なものであり、人間が認識した事柄…。
これらの法則は、私たちが気づかなかった何か、私たちはそこに導かれその現象を学ぶ…
それは人間を回復する時であり、健全とは言えない存在から失ったバランスを取り戻すこと…
なぜなら現在その人間の科学は、自然の法則の基本を知るということを成すものではないからで、その何かを人は注意深く見ているということ。
全てそれらは、日暮れの時、私たちは疲れ眠りにつき夢を見る…
それは、私たちにとってのある行為を完成させるためであるのかも…
それは、人の価値や優れた能力すべてをチェックすること…
それは、皆にとって適正妥当であること…
私たちにとってそれは、夢であり休息であると言える…
つまり確かさに満ちた目覚めとなり気づかされるもの、それは、その時に及びその創造を成すもの。
その夢は一つの状態、私たちの生体組織の何かであり、知覚され確かな様式として内在化習慣化された様式であるかに見える、そして皆が知っているそれは、消耗し疲労したものを回復させる何か、目覚めさせその命をリフレッシュさせる…
それは、安らぎと休息を与えるインテリジェンス…
それは回復された筋肉、つまり新たな労働へと立ち向かうために準備されたもの。
本当にそれは、私たちの表現では眠り/夢と言われ、その本質は理解されてはいない…
多くの物事がその様な私たちが知らない事、万人に知られているかの様に見える何かであり、万人が実行できる可能性のことです。
なぜって8時間の眠りで私たちは気力を回復し、休息によって原因となった物質的消耗が治ったと感じるでしょう?
私たちの生体組織は、その意識が真っ暗闇になった時いったい何をしているのか?
そしてそれは、不在あるいは離れたような感じ、また日中の私たちの記憶から外部へと放り出された様な、肉体の外へと散り散りに送り出され、他の領地で違う家族の中、私たちには馴染みのない人たちに囲まれ脈絡もなく試されている様な感じですよね?
夢/眠りは、まさに奇跡ですよね?
私たちにはそうは思えないのです…
なぜなら皆、習慣として眠り、そしてこの状態の生ける意識がノーマルなものだからです。
それは、意識ではないもの…
なぜなら眠りながらそこで私たちは、気力を回復する…
毎晩人は神妙に身を横たえ、死なない様にと眠りながら自らを神にゆだねる;…
それはおろかな願い、なぜってそれは死ぬことであり眠っていること…
それは、ある種のお得な死、死によって得る利益であるから…。
その眠りは、昏睡状態に向かい、更にその先に死がある。
人はそこで精神的な朦朧(もうろう)状態になり、自分の意志ではない深い受動状態を感じる…
そして確かに死に落ち込む。
眠り何もしない停止状態…、それはひとつのミステリー。
死はその第二の謎…。
眠り/夢は気力を回復させ元状態にする…
疲れた体に栄養を再び与える。
―― それは死という何かであり、その見かけは夢の様…
人の生体組織が分解され崩れ落ち意識は失われ、溶解され無となること…
―― 言うなればそれは死の眠り、まさにぞっとすること…
なぜなら見かけは同様でありながら、それら二つの状態(*訳注* 回復することと無に帰すこと)は対極的だからです…。
同様な対極状態、それは愛であり、また死である。
かの詩人レオパルディ(1798-1837)は、その実体のひとつ、神聖さを捉えた、そしてもうひとつは矛盾の中に在る…。
私の秀でた友人は皮肉っぽく(*訳注* 友人:ジュリアーノがこの科学者のことを暗にこう表現し言っていると思われる)、そこにはより気高い奇跡が存在する:…
病んだ肉体は、再び健康になり、病で打ちひしがれた組織のどれもそこから救出される…
個人の肉体は、その墓場にわずかに触れてかすめ自らを再構成し、そしてその力を再び得る、つまり健康とはこの様に何年も生きること。
それが、私たち命の内側?外側?外側の肉の切れ端?の原因なのだろうか?私たちの外側から取るに足りない肉片へと及ぶものなのか?
その原因から湧き上がってきたものは、地(球)に由来しているのか?またしても答えは得られない;…
全てこの夢と死の前に取り残されている、…ああ!
尋ねども答えはない、死の夢のことについてはぞっとするという表現でちょっと触れたが…。
誰もが話すぞっとすること。
この様にまず牧師が次に医者の誰もが庶民に対する表現方法に必要な言葉に思い当たらない、つまり言い方としても異例的な感覚の何か、庶民感覚からすればこの浮世では思い当たらない意味矛盾のあるどの様にも解釈できるもの、そこにある理想的意味のことば、すなわちそれが持つ特性特質が今と言う時の中に流れている…。
それこそが私が言った夢、生体組織を再構築するものそして死であり、腐敗させる何かである…。
科学者
しかしそれが死であり、もしもあなた方が輪廻やピタゴラス学派の魂の再生を信じているなら、夢としてのその何かもどうにかしようと思っているはずです…。
擦り切れたその肺の気のうのことを再び持ち出し天秤にかけるわけにはいかないし、それは退去させられた下宿人でありひとりの人…、そして人はこの原因を着て生まれ出て来る…。
ジュリアーノ
あなた方が見ているのはサトゥルヌス的なものですか?…
科学者
それは私にとっては天で何の縛りもないものです!
ジュリアーノ
それは時間であり、サトゥルヌス、死の神、この三つは全て大鎌を持っている。
全て死刑を執行するもの!破壊者!
その死は身にまとった老いの衣服をはぎ取り、それを灰に変える;…
それは、全てを再構築する小さなキューピッド、それは弓と矢で武装された愛…
これは創造者であり、人を裸にする。
その死は回復させるのではなく、全てを溶かし込む…。
それが夢/眠り…、それは私たちが説明できることではなく、失われた力がミステリアスに供給され続ける。
パラケルサス(*訳注* 1500年代のスイス生まれの医者・錬金術師、父は放浪のドイツ人医師、母は教会が所有していた荘園の世話をしていた)は、それは眠りであり夢だと言って笑っていた。
そのひとりのドイツ人は、夢は忘却の一状態であり信じる必要はないと著書で語った…、さらにそれは休息の一状態にしか過ぎない、つまり私たちは眠りの中の精神として生きている、それで身体的に不活性である…。
これは古典的なイデアであり古くから賢人たちによって考えられていたこと…。
この夢というものは、具体的には誰も知らない…。
それは疲労であり健康を取り戻すこと、するとカロリーが満たされ満足し毎日の労働後再び準備万端の状態になる。
この様に多くの人たちは夢の中でその活力を得ることができる…、注意すべきは人類全てが同様な状態で眠っているのではないということ…。
私たちのヘルメティズムはその眠り/夢の違いが何なのかを確認しているが、そこには人それぞれで大きな開きがある…、例えばその眠りの違いには月的な身体(*訳注* 身体的変質)の進歩で様々な段階が存在している。
その眠りはそれぞれで奥深く、様々な障害を乗り越えて行くことで目覚めて行き、再びその英知を手にして行くことになる、つまりそれは命が刻むリズムである、誰もが夢を見ている、つまり忘れている、言い換えれば、誰もが本当にまれな貴重な夢を見ているのです。
これこそがサトゥルヌス:のろのろとその歩を進めている。
いったい夢とは何なのか?
またひとつのミステリーが、そしてまた新たな問いが…。
フロイトは、この私たちの夢/眠りの研究の可能性を公式科学がどう認識するかの試みの一方法を確立した、不安によって生じた幻想精神と捉えなおした、つまりヴォルテール(*訳注* ヴォルテール:フランスの啓蒙思想家・哲学者・文学者.理性を重んじニュートンやライプニッツたちからの影響もうけたようである)の様に試みとして書き綴ったその様な判断や哲学的探求…、それには良く消化されていない推測もある…。
ヴォルテールは決して幻想を抱くことがなく無欲、感情的にもならなかった!
そんな精神分析家たちは夢の記憶を読み取ろうとしたが、誰もその夢のサイン、予言や暗示兆しの様なものを読み取れなかったようである…。
数多くの夢見においてもその賭けに誰もその成果を得ることなく、惨めな夢や幻想を抱いているそんな人たちへの興味/珍事を知る手だてなど得られるはずもなかった…。
精神分析家たちは、それまで生前の記憶などという人の訴えを読み取る経験をしたことがなかった ―― つまりそれは子宮内部の命として(はら)まれたもの;輪廻/再び肉体化されること、それは人々にとってのイデアであり根源的だが熟考された意味のあるものではない ―― 人というものはキャベツの様に創造され続けて来た:それを食べひとりの人となる、つまりそれでまたもうひとつの命が胎動し始める…。
科学者
しかしそれでは、あなた方は私に確かな方法で、その夢が何なのか示していません!
いったいそれは何なんですか?
もしそれがヴォルテールが言ったかもしれないような未消化の何かなら、それは食された未消化の生成物で、そんな精神分析家たちが夢見ただけのそれに準じる好都合な未消化物。
しかしあなた方はそのことで何が言いたいのですか?
夢をあなた方がどう考えてるのか何らのヒントも示してないのでは?
ジュリアーノ
これこそ積極的な問いかけというもの!
問いかけるということは熟練を要することであり、それに論を加えての答えというもの…。
ピタゴラス派に対抗すること!
ピタゴラス派はその神意を問うていて、その答えを得ようとしていた…
そこに批判はない;…
わしらの御大(おんたい)はそうおっしゃった、それで終わり…。
あなた方は、先生はそうおっしゃったとは言っていないし、そこにはあなた方が論を加える権利があり、答えに対しいろいろ話し合いふるい分けされてる…
あなた方が触れていることは、究明し尽くされている事でもずれた思いつきでもないし、目の前に展開している実際の演舞であり、言うなれば皆の脳みそに展開し映るヘルメティックな景色でもなく実際のタンゴの演舞でもない…。
私があなた方に納得させることができる部分があるとすれば、それはあなた方自身が良識を持てる様に…
科学者
私は自分が望んでいるような答えを要求しているわけではないのです…
―― 何かを感じるために尋ねているのです…
他の人たちが語っていないまた知らない新たな何かの知見を…。
批評や意にそぐわないこの様なことを示されても、私は信じはしません。
私は理解し習得したい、それ以外ありませんし、そして習得したその宝で創造したいのです。
ジュリアーノ
私があなた方に言ったこと、それは私たちの生体組織は四つのコルポ(*訳注*地・水・火・風の相のことか)で構成されているということ。
思考活動の座は、その三番目、メルクリウス;…
それは光の座であり、その四番目が太陽です。
眠り夢を見るのはサトゥルヌス体の相、重々しく威厳に満ちたその座は身体的な分別の意識である:…
まどろみ眠るのはそれに付随する変化相のです。
これは移動体であり、変化を与え、部分的にサトゥルヌス的な低く重々しい印象を与える…
言い換えればそれは、高位のコルポ(地・水・火・風)に反映されメルクリウスと太陽に影響を与える。
人は消耗し疲れ眠るのか?
その月は眠るのか?いや、それは眠らない。
それは4、5時間の深い眠りの後の身体/コルポか?
それは月であり、眠るのは視覚だけ、そして夢を見始める。
つまり普通それらの夢は早朝に見られる…
日の出前あるいはその近くで…。
私があなた方に言っていることは、人は夢を見ているということ…
それで私はプシュケー(*訳注* 精神、心、魂、サイキ、など:愛と結合した人間精神)という新たな言葉をつくり出さなければならなかったのですが、それはわずかな人しか理解できないこと。
その夢はミステリアスな表れ…
理由はただひとつ、それは科学の目の及ぶものではなかったこと…
そこには創造がある…
つまりそれは力であり万物/宇宙、とりわけそれは地球の磁気力…。
これは身体を学ぶことであり、その中には人の力が表現されている…
それは人がつくり出すものに必要で、そこに充当される…
そして多くの創造へと提供されるその人間の才覚は、磁石の形式によっていて、必然的にその機能を補助している。
実際それが人というものであり、ある種のカテゴリーや階層の動物たち、植物、鉱物/ミネラルである…
それらは地球磁気の影響下にある。
その様なものは安定的なものでなく、強度また不変性に関係なく、方向性を持っている…
そしてそれは単純に理解すると、人が考える時の理性/分別というものであり人の行為であり、更に次には宇宙的な力によって修正されている…
それはしばしば対抗的な潜在力となって影響を与えている…
それには素早さと放射性がある。
科学はまだそれを研究していない…
それは興味深いものであり、人はそれに(なら)うことになる…
それは多重性であり宇宙的な力との連合である…
そしてそれらは干渉性でもある:…
磁気と電気の力のコンビネーションとしての大気圧を形成し、そこに熱の流れが発生している…
そこに影響を与えるのは、光の振動であり、そして…(びっくりしないでください、また笑わないでください)星界的広大なアストラルの流れをあなた方は創造しているのです…
それは大脳のたゆまぬ働きに依っていて、人間の巨大集団を形成している…
それが、民衆でありこの地球である…
それだけでなくその化学的な生成体で中毒になっていて、平和をつくり戦争をつくり、皆最後には未完成で未精製な人間の心身不調の神経症の(てい)となっている。
さて、私は最も敏感なこれらの影響、この世界の物理的身体的な反応について言っているのですが、それは優美優雅で親切ジェントルな動物のそれであり、二つの性別の中にあるものです;…
女性はその最たるもの、なぜならそれは愛情深い感覚の振動体でありそのアストラルなものとの不調に敏感であり、女性はその最も敏感な貯蔵庫を持っていて、月を満たしているからです。
私がお願いしているのは、良く良く理解し良識のひとつまみをそこに提供することです。
科学者
はい、もう解かりました。
ジュリアーノ
その人間の感受性は、動物学の哺乳類のそれで、より優雅で品のある味わいがある…
そしてもっと下等な階層の動物たちのものが…(少なくともその何かがこの様になくてはならないのだが)、つまりもしそれ(*訳注* 哺乳類の繊細な感受性)が、大気の動乱の前兆的影響を動物種たち、更には二足歩行の知性を持つ優れた種の何かとして受け継いだのなら、それはこの知性という何か以外なく、その巧みなる命の遥かなる変遷を経て抽出された能力である…
そして人はその遥かなるものをその源から直接感じている…
それはその内なる本質であり母なる自然界との響き合い…、内なる大宇宙、コズミカルなその命なのです。
一方この知的な内なる心また人間の感受性の意識は、もしそれが弱まり、その声が聴かれなければ、複雑な人のその魂の働きは常に満ち足りず何ももたらすことはないだろう…
私が言っているのはつまり、もし人が地の・水の・火の・風のもっと透明で明らかな声を聴き感じることがなければ、もしそのはっきりと発する一つ一つの声を聞かなければ、偉大なる改良役としての魅力的無意識的なその力を引き出すことはできない、それがコズミックマグネットなのです。
あなた方はうわべだけの浅薄な理解をしないようにしてください…
―― そのランプは強烈に燃えているのです…
ピタゴラス派の人たちは言っていた、もしその油が炎とならなければ、と…。
人のそのランプの火は、ヴィータ(命)・ヴァイタリティー・生命エネルギーのエッセンスと呼ばれているのです。
ヴィータは言葉としては、生きるということです…
―― その行為は、私たちの内なる全てが統合されたもので動きや振動、身体的物理的な動き、つまりそれを越えたハイパーヴァイブレーション、物質プラス英知の力なのです。
私はヘルメスのエメラルド版について言ったかもしれませんが、言ったことは全く同じそのこと…
それは上位的にも下位的にもです;…
言ったかもしれませんが、宇宙は一体である、と…
同様にこの地上の分子もこの惑星も…
あなた方はそれを笑うことはできない…
あなた方の自立性は、その力を発生させるものから来ているのです…
つまりそれが、母体としてのこの宇宙なのです。
それは、とてつもなく大きなこと限りがないこと、星界のヴィジョン・統合性、荘厳なるもの…
また(みじ)めさ・この大いなるものへの人間の奴隷性であり、私たちの傲慢とは相容れず不協和音を奏でる…
それはまた、そこ聖なる塔によじ登らんとするタイタン(巨人)を感じさせる、物事を創造するインテリジェンスを準備させ、それと交代することになる。
もしそれが疲れることであるなら、考えること・私たちが活動するということは、その油を消費し炎にと転換しているということ…
人類に割り当てられた内なるエネルギーを焼き尽くすことは不可能である…
その身体は弱々しく、ふらふらしていて、この地表に置き去りにされ、言い換えればその表面と平行にされ、弓なりに折りたたまれる…
垂直になるのはその中心軸に対して…
そして駆け巡り続けるのは命の磁気的なる泉、つまり人はそれを求め自身にそれを供給し続ける!
眠ることはそれをし続けること。
眠ることはそれを求め再生し続けること、それは炎であり再燃し続けること、人は油を摂取し続けているのです…
科学者
それは刷新するということ。
それが、地球の磁気であり自動的な供給摂取というもの…
バラバラに失われた人の力は巧妙に配慮され修復される、それが労働であり、また享受/恩恵である!
その眠りは、つまり一つの特殊な状態で、そこに必要であり、身体が差し出され磁気が供給され続けているに違いない…。
ジュリアーノ
Nihil sub sole novum(*訳注*ラテン語:何ものも太陽の下に新しきものはない/太陽は全ての源)!
いったいどれ程の人が文学や民間伝承また考えられていたことを知っているのか…
つまりそれは、’私’以前の夜の時代のこと、その物語は闇の中…
書かれることもなくこの地上の時代時代に表現されて来たもの…、海と空の、姿を消した数々の大陸の…
―― それは誰も知らない…、何世紀も前のことを’私’自身断定はしないし、言い換えれば人は、オルフェウスの口からそれを聞くことはないだろう…
それは、酒の神バッカスのダンス演舞!
しかしその命の炎はバッカスの騒動の風雨にさらされ弱まり、エウリュディケ(*訳注* オルフェウスが冥界から連れ戻そうとした妻)は神格化されプルートー(*訳注* 冥界の神)の招きで提供されたのだが、冥界の底深くへと没している…。
確かなことは、まあその様なことはなく、あなた方はそんな言葉を用いている…
一方でそれが地球の魂、宇宙のスピリトでもある…
それは宇宙の全ての力・小さな蛇が絡みもつれ合った何かであり、人を取り巻き絡みつき、貫き吸収され、人を奴隷にしている。
それは高慢という花を咲かせるのか?
それは理屈に合わない…
なぜならそれは自分に背くことで有益なことではなく、遠い昔話の天使たちの様、日の光の及ばぬ冥界タルタロスの老いぼれた神々の様…
それはあなた方が創造している様々な力の統合体となり、心の奥深くの神聖なる嵐・葛藤・動揺となる。
科学者
これはちょっと悲劇的で、人間の逃れられない運命である!
いずれにせよ私があなた方に尋ねたいことは、その磁気や電気、その光や音が人の身体の力と同じものとして波及し、命が展開したものとなるのかどうかということ…。
ジュリアーノ
時間がかなり進みました。最たるはサトゥルヌス、その何かがメルクリウスに耳打ちされ与えられる、彼が姿を現した…
科学者
異議なし!
ジュリアーノ
…彼が姿を現した…その言葉には花があり心地いい…
金曜日またお会いしましょう…、天の神ユピテルの時の中で…。


対話その5 完


付記 5

---クレンメルツの後継者たちによるヘルメス辞典より---


SONNO 眠りと夢
人が眠るのは生命・身体・精神エネルギーの浪費を修復する為である。
それは外的世界への無関心、何らかの賢慮であり眠り、エネルギーの枯渇の結果である…
枯渇は、精神と身体的なものが主で、その場合磁気の放射による消耗が常であり、それを修復する中心核が各人に与えられている。
その磁気的な固まり、この様な特殊なエネルギーが多量に存在し、宇宙磁気と共に循環している。
それぞれの蓄えられた磁気的な力が、様々な形や働きで消耗されると、私たちの身体はエネルギーが使い果たされ、そして外からの供給が必要になる。
それは人を統合するヴァイタリティー、中心となる固まり、あるいはその存在を成す磁気的細胞…
そこには反響があり、地球の中心磁気からの供給がある…
それは、人にとって全ての惑星と関係する地球磁気のセンター、つまり星々との・また全宇宙との反響である…。
その消耗はエネルギーの消耗であり、全ては私たちの生命磁気の濃縮された流れ…
外在化されると地球のそして宇宙のヴァイブレーションという見えない大河の潮流と次々と重なり上昇する、そこは生命宇宙のセンター…。
人は誰も病で危険になっても、眠りの中で再び健康になる…、痛みや苦痛がその眠りという何ものかの中で消えるのではなく、それは昏睡状態であり眠っているということ…、これは磁気的な中核をなすセンターであり、人体組織が奮闘し再びその失ったものを取り戻そうとそれらの構成要素や方法に奔走している時、分解であり準備です。
それが人というランプの油/オイルであり、命・ヴァイタリティーと呼ばれる何か、生命エネルギーのエッセンスである:…
私たちの行為行動が構成され、その全てがそこには在る…
動きとヴァイブレーション・身体的な動きとそれを越えたハイパーヴァイブレーション、物質とその知性である。
それは消耗され、思考する私たちの働き動きであり、炎/火を供給するこの油の消耗へと至る…
その体は衰弱しバランスを失う…
人は地球表面へと自らを投げ出し、命の磁気的源泉へと回帰し、その供給を請う…
眠りはそのようなもの。
眠ることは、自らを再構築すること・再生/回復、燃料を与え炎を燃やし続けること…。
その命の炎が弱まると心身の動揺も発生する。
眠り/夢の神秘は入眠後の状態の中に在るのではなく、力を消耗し復活する時の目覚めのそこにある。
神秘的、そこに私たちの説明はなく、失われた力が補給され続ける。
それは誰も説明していないし特定されていない。
謎に包まれたもので説明もない、そこに力が補給され続けている。
誰も知らない特殊なもの。
消耗と回復…、一日の労働を終え食事をするとそれが取り込まれ、いつもと同じ準備状態になる。
その眠りの違いは人それぞれで大きく異なる…
それは月的変容の身体の進歩の多様性に依る。
物質的意識の重い隠れ家、そのサトゥルヌスの身体が眠り、月のように変化する肉体がまどろむ…。
月的身体は不安定で移ろいやすく、基本的に重々しいサトゥルヌスの印象の一部で変化する…、言い換えればそれらは高位の身体を反映している:すなわちメルクリウスと太陽…。
人は疲れて眠る、つまりそれは疲労によっているのか?
その月が眠れば、夢を見ることはない。
それは肉体が深い眠りで4,5時間休むということか?
そこでの月は眼球だけが眠り、そして夢を見始める…。
夢はまさにその不思議さを漂わせ現れ来る…、なぜならそれは科学が関わり注視できないコズミックな力によって生み出されるもの、とりわけそれは地球のマグネティズムだからです。
魔術では、それに倣う者は純粋でつつましい生活が勧められる…、この二つは夢をもたらす事ではない。
眠りは絶対生理学的存在となる、この時間に必要なもの、それは休息である。



第9話までご紹介してまいります。

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