LA SCIENZA DEI MAGI   魔術師の科学

対話編  





Giuliano Kremmerz vs. uno scienziato   ジュリアーノ・クレンメルツ 対 科学者





ご自由にお持ちかえりください。













































訳者序文

これは、ヘルメス学的治療法の研究家ジュリアーノ クレンメルツ(1861~1930)とそれを信じないひとりの友人科学者の対話集(速記録)である。(*訳注* 科学者は後にジュリアーノの研究を引き継ぐことになる) 時は、第一次大戦後のイタリア。
(*訳注* ヘルメス:古代ギリシア神話、オリンポスの12神のうちのひとり. ゼウスとアトラスの娘マイアとの子. 神々の使者を務めるほか、富と幸運の神で、商業 発明 盗人 旅行者などの守護神. ローマ神話のメルクリウス/ マーキュリーにあたる伝令神. )

原題とは異なりこの対話集は、精神医療あるいは精神科学、また私たちの心と体、更にこの自然界を哲学することに等しく、この私たちの命のコスモロジーに実際的価値や意味を与え、各々(おのおの)が幸せな日々を送るための方法を探ろうとする試みであると言えるかもしれない。 なぜなら、読み進めるにつれ、人が持つ愚かさを認めながらも、人間や万物の奥深くに潜むその素晴らしさに気づかされて行くからです。

―― ジュリアーノの弟子サルバトーレ メルジェ(1899~1965)は、第二次世界大戦を含む時期、東京のイタリア大使館通訳として日本でその任についていた。 滞在中メルジェは、合気道の創始者植芝盛平との親交をはじめ、柔道や武道、神道の思想や民間伝承にも親しみ、戦後西欧に初めて合気道を持ち込んだ。

この対話集は、ジュリアーノからメルジェが引き継いだヘルメス学の膨大な資料のシリーズ化された書籍「La Scienza dei Magi 魔術師の科学」の一部(対話部分の翻訳)であり、ジュリアーノ曰く、後世の人々へのおしゃべりである。

またメルジェ自身は、この様な分野での研究とジュリアーノから引き継いだ探求とを融合させる試みへと発展させていった。

ジュリアーノそしてメルジェら後継者たちによって、今私たちは、アフリカに始まりエジプト 古代ギリシア ラテン諸国 ヨーロッパ、またアジア 極東の日本へと続く意識や歴史、またその知恵や科学、「いのち」の創造とその深遠、これら全てのインスピレーションにわずかながらも触れ感じることができる様になったのかもしれない。

ジュリアーノとその後彼の弟子となる科学者とのこの対話は、科学や宗教 哲学 心理学 現象学 生理学 語源学 歴史学 神学やコスモロジー 芸術等々多岐にわたり、いのちや意識、その無限の人知を超えた驚異の働き、この時代を超えた生命の感覚へと、私たちをいざなう。

これは、精神科学であると同時に存在のコスモロジー、私たち人間自身を通じて、普遍生命の探求から、自身がこの普通の日常をこそ経験し、その絆や縁の大切さを確認し、魂の在り方に気づかされる方向へと向かっていく。 つまり、治療という方法論を通じこの世界そのものの創造性に触れ、あらゆる分野の基礎となる実生活をこそ幸福に生き味わうことへと。

それでもしかしそこには命のあらゆる苦しみや喜びがある、人はその定かではない存在の創造を夢見ながらこの世界へと歩み出す。

この対話は、私たちが暮らすこの日常の只中、私たちが抱えるその不備や無知の闇に、言い換えれば、そこに潜む無限の可能性、この世界の素晴らしさへの気づきも同時に与えてくれている。 これはまた、自分自身、ひとりひとりが自らを省(かえり)みながらそこに幸せや喜びを見つけだし歩んで行くことでもある。 それらは寄り集まり、この大いなる存在の海へと流れ入り、巡り巡って各人のこの内なる世界の鼓動脈動となっているに違いない。
いのちやこの自然界への認識の新たな幕開けを告げるその呼び声なのかもしれない。 この感覚や意識、命とはいったい何なのか?

ジュリアーノは言う、「それは、あなた方ひとりひとりの内なる英知とその働きへと引き継がれているのです」、と…


 


対話 その1/9


--- 対話の要約 ---

ヘルメス学派 ―― 自分を知ること ―― ヘルメティズムの由来 ―― 実験科学の概念 ―― ジュリアーノ学派は物質主義 ―― 思考は物質 ―― アニマ・魂 ―― 精神は呼吸にある ―― 死は新たなる生 ―― ひとつであること・カバラ的統一性 ―― 人間の本質はひとつであり宇宙そのもの ―― 新プラトン主義の神秘概念 ―― 魔術とスピリティズム ―― スピリティズムによる精神 心 魂とその機能についての概念 ―― 人間と動物の魂 ―― 哲学の微妙性と人間の魂の問題点 ―― 古代ギリシアのオルフェウス教の始まりと大いなる謎 ―― 人はうぬぼれる ―― それは実現であり達成への可能性 ―― 宇宙普遍思考の知られざる中心 ―― 第二の肉体創造の可能性 ―― 生命の連続一体性 ―― 見えない存在たち/アイオーン:至上存在から発する永久不変の力というものはあるのか? ―― サトゥルヌス神の大鎌

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科学者
大衆国家が、多くの時間と莫大な労力をつぎ込み、私達の生活に必要な人間科学の様々な流派を育成しています。 しかし、ヘルメス学派についての話など聞いたことがありません。
ジュリアーノ
聞いたことがないですね、それは、この学派は斬新なものではなく、命の喜び日常の楽しみに直接的に必要なもので、利益を得ることに関わるものではないからです。 この学派はひとそろえの教えを持ち、あなた自身を知る方法のプログラムにより、つまりは宗教でも、神秘でもなく、しかし熱心に自己の内部を見つめ原始からの生命という点から、あなた自身を知る手助けをするというものです。 そしてれは複雑な精神と肉体の有機的成り立ちの研究を提供し、物的能力として明らかなもの全てと表面には現れない能力を含み、優れた観察者たちとともに研究し、欠けることなくそれらを統合できるようにしているものです。
科学者
それではなぜこのての研究会派はヘルメス学派と呼ばれているのですか? 私達の言葉ではそれは、ヘルマとは関係ありません。 ヘルマは、年代物の柱でメルクリウスの頭像で飾られた支柱であり、イタリアの全美術館で見ることができる別の用途のものです。 そしてこの言葉によってまさに謎めいて封印されてしまうのです。 これは、私には分からないもので、錬金術師が言い書物に残した知られてはならないもの、腐敗することのない賢者の石となると。 それはこの学派の研究家たちがある種の秘密をしっかりと守ってきたのであり、全ての人に伝えたのではない。 それで、明かされることのないヘルメスの難解な謎が潜行していったのだと…。(*訳注* ヘルマ(ギリシア語:ερμα, herma, 複数形:hermai, ヘルマイ):は、石もしくはテラコッタ、青銅(ブロンズ)でできた正方形あるいは長方形の柱. 柱の上にはヘルメスの胸像が乗っており、通常あご髭を生やし、さらに柱の部分には男性の生殖器がついている. 古代ギリシアの神ヘルメスの名は、このヘルマに由来するという説がある. )
ジュリアーノ
何たる考え! 私達は、イタリア人であるばかりでなく大いなるギリシア、ラテン、ローマ文化の一翼を担った古代イタリアに由来していることも理解しなくてはなりません それは私たちの古代神、古来文明全ての創造と活動を与えしもの、神々の光やそのメッセージであった、ヘルメス、 かのものは侵すことのできない神聖さとともに、またそれなくして、聖霊の息吹/インスピレーションに多少なりとも適応していたもの、それを私達ローマのこのメルクリウス(*訳注* メルクリウス:ローマ神話の神でギリシア神話のヘルメスに相当する)神話を通じ、あなた方は見て読み取っている、聖なるものの中にすこし、そしてまた古代ローマの奴隷の身分から解放された放蕩人たちの間に…これは、神人と化した至高の錬金術師、3重の聖徳に包まれたトリスメギストスと呼ばれたのであった。 ヘルメスはつまりギリシアとエジプト、これらラテンのメルクリウス、そして偉大なナイルのトート神なのです。 古代神話から現代の民話までが山のように積み重なったもの、仮縫いでどんな意味があるというのでもなく、子供たちにつむぎ聞かせる物語の膨大な神話百科事典の編み物になっています。 そこには自然の力とエネルギーの神聖さが描かれ、そのまわりに人格化された能力とその輝きたちが付与されてきた。 メルクリウスとヘルメスは、人間と神聖なるものとの間の使者、限りあるものと限りなきものとの本当のきずな、自然の神秘と人間理解、万物普遍存在の新たなる知力というメッセージの訪れが表現されています。 私たちのスクールではヘルメスやメルクリウスの名が呼称されることで、それを信じる人たちへと神々の座す天界からこの聖なる力がもたらされるでしょう。 ですから秘密も隠されていることも何もありません。それが秘密になっているのは人類や研究者、探究者たちが気づいていない部分だからです;これら力の大部分は心の奥深くに潜む神秘、なぜならこれがオリンポスの神聖でそこで秘密となり、私たちのメルクリウスは説明を求めエリュシオンの住人たちを訪れたのだが、それに対し何ひとつとして答えられてはいないからです。(*訳注* エリュシオン:ギリシア神話で 神々に愛された人たちが死後に幸福な生活を送る園が エリュシオン 幸福の島 とも言われる. オリンポスはギリシア神話の神々が住むとされた山. ) 偉大なる秘密、オリンポス山の崇高なる神聖さという何か(あなた方はそれを自然界の本質として理解している)、それらには何世紀何千年にも渡り手にしていたもの、無線電信がある;ヘルメス、聖なる盗人(ぬすびと)、それはかすみ取られ秘密は少しずつ把握され様々に断片化され、よりふさわしくそれを理解する準備のできたその人物にと明示された、それが、私たち同国のマルコーニ、またこれは、その人類にふさわしかったのかもしれない。 メルクリウスがもたらしたもの、それは発見であり、人々に必要な秘密がどの様にもたらされたのかである、火を起こしたり電気による暖房やガス照明など、今日のすべての素晴らしい発明などがある。 メルクリウスが教えるその方法とは、入口へと導くことだけである、なぜならそれに続く人だけが人体器官に秘められた神々のその素晴らしい力へと踏み入ることができるからです。 あなた方がそれを見たり感じたりするように、人間というものは完璧ではないということは理解しなくてはなりません。 日常において平凡に対価を支払うといった生活においては相応の能力や力量を人は持ちえます。というよりも、誰かがあなた方に奇跡とさえ思えるような精神的偉業ができると言って来た場合には、あなた方は、そんなことできるわけがないと笑ってしまうのです。
(*訳注* ギリェルモ マルコーニ : [生]1874/4/25 [没]1937/7/20 / イタリアのボローニャ生まれの物理学者 電気技師 発明家 大西洋を隔てた無線通信に成功 1909年 ノーベル物理学賞を受賞. 後にイタリア王立アカデミー総裁に選出された. ゼネラル エレクトリック社前身のマルコーニが設立した会社は今も存続している. )
科学者
そうですね。 道理に合わないことを教えられた場合には、私達はそれを信じることはできません。 人間という存在はかつて理性を持つちょっと違う動物と考えられていた。 つまり、話し、労働し、考え、議論し、交流のために道を切り開き、生活の中に船や車や道具をつくりだす、などです。 もしも前例のないことを何か成し遂げた場合は、もともとそのような能力を持った天才だと言います。 今日、人間はそのような存在なのだとの考え方が支配的で、生産の道具やこうした才能は豊かさを生み出す背景的要素で、それが生まれた祖国の利益として守らなければならないもののひとつとなっています。 もしもそれがある期間、楽しみとしてまた、情熱を持って、そしてまた、科学的にアスリート競技の跳躍や重量挙げ、ボクシング、レスリング、走法、球技、スポーツの楽しみにと、身体的鍛錬のためになるようにされていたなら、しかし誰もそんなことは言いませんが、読み解かれ、訓練され少しずつ様々な精神的鍛錬の要素を加えていくと思うのです。 ―― なぜなら、こうした期間はこれらのことや非日常的能力を明らかにしますが、誰しもが噴き出して笑ってしまうようなことだからです。
ジュリアーノ
あなた方は現実的に人間社会に存在するそうしたことに対し評価をせず、また熟慮を持って解釈することもしていない。 そんな間違い、また時代により獲得された恩恵などを表現するすべや方法をあなた方は、持てないでいるのです:このような歴史的な場に居合わせていること、このような命の潮流や様式は、それが過ぎ去った後で評価され明らかな姿を現す、またその評価というものは、時の人々の中立的判定というものなのです。 私達はある種の養育的土壌とも言える淡いはっきりしない知力や計り知れない潮流を生み出しているもの、つまり、書物をながきにわたりむさぼり読み、関節を硬直させ筋肉を酷使し、また現代宗教の瞑想的神秘的な恍惚的な何ものか、苦行僧の確たる何かから生まれ出ているものである。 今は代わりに、それは、身体の健全性その根拠を考える必要があるということに見出すことがあるもので、不幸にも多くが最先端の形而上学に置き去りにされているのです。 普通の人間の力を超えた能力というものの進歩がどの程度のものなのかを論ずるにはまだ時期尚早である。 なぜなら、大学における研究という点で、人間の精神や心の進歩の可能性に対する疑問にある種の結論を提示するという点においては不十分な所があるからで、それがどの位の段階 構成人数 混成状態にあるかということだからです。 こうした研究に科学者たちが50年以上の歳月をかけてきたということは事実で、日常を超える力を可能にするものに着目した現象学の研究があり、人間の精神や心のなぞを解明しようとしたものですが、それでもなお到達できない部分があることも事実なのです。 それゆえ、コントロールすることもできなければ、人類がどういうものであるかといった説明をすることもできないのであり、また、精神的訓練で何かができるということでも全くない。 人間という存在もそれは同じで、科学に限れば、それは純粋な実験手法であり、論題は何なのかとの吟味をすることはできない、論題、それが何なのかということは無意味なのです。 精神主義は理想や詩情であり、完全さを欲求するモデル化された神聖さに至ろうとする為の誘因、もしくは人間性の卑しさでもある。 科学は代わりに宣言するべきです―― 存在するものあるいは存在しないものをです。 思慮ある学者や知識人は表現することができないでいるのです:私は人間の内には普通ではない能力が存在する可能性はあると信じている、何か壁を越えて理解するという価値ある能力があると。 科学者は明言しなくてはなりません ―― それは実在しその様な能力が人間という存在の中に在り得る ―― あるいはこのような異常な能力は存在しない存在しえない、と。 聞いたところでは何の結論にも達しなかった、何ひとつ示しえていないというのです。 しかし、科学が吟味検討を加え確かな概念に達しない限り、また、真摯な研究を続けない限り、だれも納得に至ることはないのです。 私たちの研究学派は実験手法的見地から、純粋に物質主義者です、なぜなら、人間という存在、精神と肉体は組織化されたあるいは系統化されたものではないからです;私たちが研究している普通でない現象は有機的生体の産物であり、したがってそれを形成する何らかの物質です。 思考というものは、様々なフォームとして私達の中に採用されている何か、その有機的生体(物質)がどの程度に健全であるかで可能となるのです。
科学者
それでは、あなた方は思考は物質であると信じていらっしゃるのですか? 単なる有機体であり、持続統合的な様式でなく分解してしまうものであり、思考することは出来ないと? つまり、魂や心は、体とともに存在する何かで、その身体機能に限定され作用するだけだと?
ジュリアーノ
完全にはこうです。 こん棒で頭部を打撃すると思考は止まる。 突然の激しい振動が起こる、そうすると普通、思考はもうなくなります。 ある種の毒薬が服用されると、気を失い思考は、完全に失われてしまいます。
科学者
びっくり仰天です! あなた方のヘルメティズムは人間の魂や心をまったく否定してますが、今日まで粗削りなカテゴリーの同様な概念でも、まったく否定はしませんでした。 確かに哲学者にはそれに疑問を持つ人たちもいますが、あなた方は話し合わないわけではなく否定し無視した、常に信じられ真実と考えられていた人の魂の世界、この世の創造というものを打ち砕いている。
ジュリアーノ
私たち、そして私達の学派にとって、 の思考とは複雑に合成されたものであり、型として取り込まれたもの、抽象的なものです。オイディプス王(ギリシア神話)は、その謎を解くのです。 私たちそして当学派にとってそれは考え方であり、人間は複雑な概念がひとつになり統合されたもの、そして個性や型として取り込まれたものである。 人はそれが不可思議だと分かっている、全ては人間性として、外観的人間という型としてのこの動物学の中に沈殿している。 これは複雑なイデアで、人体が周囲から見えるからです、そこで、この素晴らしい考える動物を創造しひとつに統合し形成しているその全ての検証が必要となるのです。
 魂、精神というものを人は持っているのか? このような正しいと思われている言葉の仮定や限定というものは回避し続ける必要がある。 哲学、宗教、小宗教、秘密の分派組織、また異端の指導者、これらは魂や心の定義からほど遠い。 そのどれもが、はっきりしない漠然とした個人的な魂、心、知性について言及し、頻繁に何度も人格の抽象化された本質で誰もが知っていることであるかのごとくに触れている、しかし一方では、この言葉の意味や価値については何も与えていません。 ラテン語の魂のスピリタスは、もっともらしい何かであるが、その源の何か、ザーザーというその炎の響きは、生けるその炎の力の発露であろう。 ギリシア語のスピリタスのピリは火葬用の積みまきの炎。 イタリアでのピラは燃え盛る丸太や木の幹の山である。 もっとも荒々しいその炎、そこから湧き出る一陣の風とうなり、これがスピリタス 原理としてはつまり、そのスピリトの心や霊魂は、息によって燃焼カロリーによって制限されたのだった、放出される風の勢いや力によるのです。 スピラーレ息をすること、レスピラーレ呼吸すること、アスピラーレ発声すること。 その動きが、動物の命です。 そのスピリトとしての理念や印象は、命の全てを統合するものでなければならなかった、なぜなら、その呼吸がなければ、考えも、現実に気づくことも、被造物も存在し得なかったからです。 洗練された人たちの手にこの言葉が到来したことで、言葉が実際その本質的意味へと変容すると、人の内面の意識や心はまったくその様になり、多くが人体を支えるその命となった、これをつくり上げているのは人を統合するこの原理である。 この様に人が死ぬと息をしなくなる、つまりは去り死体が残る。 これは精神(*訳注* 精神:原書では spirito スピリト. イタリア語のスピリトには 精神 心 霊 気質 情熱 才気 心的態度 真意 霊感 古語では 息や呼吸また生命の液 など多様な意味がある. 日本語で一言で言えば 気 だろうか… )内的人間の意味と結びついたからで:人にとってはその全てがここから生まれ出ることを意味し異なる存在としては説明できないものである:これが思考(力)やイマジネーションの機能、その推論的思考である、だからもし何かのイデアで刺激されると何かが外的現れとなったように見えるのは人にとっては普通のこと、これを神々からの霊感(*訳注* 霊感:原書では ispirato 吸い込んだ息 の意. )と人は信じ、この精神が神聖なるメッセ-ジだと受け取った、言い換えれば神々がスピリトや心に降り立ったのだと…。 ―― これは魂とかアニマと一致する。 サンスクリット語(*訳注* サンスクリット語:梵語 インド古語 )や全てのインドヨーロッパ語の語源には、この息の考え方が持ち込まれた、この呼吸や空気の出入りが、生命(力)である。 ギリシア語のアネモスでは、一息や風、空気である。 ラテン語のアニマは匂い(*訳注* 匂い:原書では odore 香りや気配の意. ここでは五感的感覚を象徴する一表現と考えることができると思う. )までも含んでいる。
 「その他(我らが哲学の先人たち)は風の持つ力だと言う、それゆえ魂や心と呼ばれるものは、ギリシア様式の風や息のような命(の光) アネモスごときもの と一般には考えられている (*訳注:ラテン語でジュリアーノは語っている* Alii (philosophi animam) esse dixerunt ventum, unde anima vel animus nomen accepit quod graece ventus anemos dicitur )。」
科学者
―― 私には人間と呼ばれるこの創造の最高到達点がみすぼらしく思えてしまいますが、人は優雅で洗練された動物、この様に多くの点で驚くべきものとして完成されて来た、しかしあなた方は単なる物的な食糧供給体にしてしまった、ふいごや空気が必要な機械に。
ジュリアーノ
残念ながらそれは人間のうぬぼれ;これは、非凡な才の創造であって比較するには心苦しい、言わば卓越した数学優等の卒業生を鍛冶屋が使うふいごに例える様なもの。 しかしもし私がそれについて言わなければならないとするなら、コロンブスに好かれるために自分の本意を曲げてまで言うべきことではないでしょう(*訳注* コロンブスの卵の逸話:大陸発見は誰でもできると評された彼が 卵を立てることを試みさせ 誰もできなかった後に 卵の尻をつぶして立てて見せたという逸話:誰でもできることでも 最初に行うことは難しいということ;ここでは 魂や精神というものが 皆がそう思っているから それまでの考察のままで良いわけではないということ)。 次にこれは哲学、精神や死者の魂が息と関係した存在であるという課題であり、空気の出入りする体がその容器がなければ、出ては入っていたのは何だったのかと言うのがふさわしい;空気の類の何かがその容器から失われそれがそこに収まりいっしょに動いていたもの。 これは何の変哲もないロジック、言えることは、もしこの空気が死にかけの息で外へと出て行ったのなら、それは空気ではない何かで、周囲を取り囲む大気などに存在する全ての基本となるものへと出て行ったのだろう ―― そして何かがもしも、その代わりに変化し異なるファクターと組み合わさるなら、それはまたその機能を再開することはできないかもしれない、何かがその時新たな受け取り手に達し取り込まれたのだろうか。 意味するところはすなわち、人はいつか新たな体(*訳注* 体:原書では corpoコルポ. 肉体が一般的な意味だが ほかにも 実体 本体 物質 集合物 など色んな意味がある. )の一部となるのだろうか。
科学者
これもですか! 死んで生まれ変わる、死と再生、墓場からの復活、そして、再び人として姿を現すと!
ジュリアーノ
―― もしあなた方が死ぬことをあなた方が都合の良い様に定義したいなら;私はそれについて抽象的にお話ししますが… ちょっと具体的に、そう思える様に言葉でお話しします、人々がそれをどう解釈していたかですが。 これはカバラ(*訳注* カバラ:カバラは伝承の意. ユダヤ教神秘主義のひとつ. 中世後期以後のユダヤ思想およびキリスト教にも影響を与えた. )的な解釈です、人間というものの存在は全て原子の集合体で生ける物質という集合体自身で、言えるであろうことは、これは呼吸する魂、同質系統の固まり同士が溶けあい複雑化し均質化して生じたもので、呼吸を繰り返すことで生じる動きや生命力、身体の動きであり、これらを越えた状態の死者たちの魂が吸収同化されている。
科学者
ぞっとします!…
ジュリアーノ
全ての人間性は一体化している。 一体化しているとは、太陽が光の源であると考えられていると同様、この生命力は全てこの太陽宇宙そのものであるということ。 従って神と一体化しているということ、なぜならこれが創造者であり創造されしものでもあるから、すなわちこの全ての何ものかが人格化され統合されたもので、見える一体化したこの宇宙であるということ。 もしこのカバラの表明が真理であれ偽であれ、これを私たちはうかがい知ることはない:だから何を私たちが課題にしているかは見方次第でありスピリトというこの概念による、これは神秘家たちによって始まった考え方である。 神秘家たちは、魂を息や空気としてではなく、飛ぶ天使のような、さなぎから変化する神聖な蝶のようなものと考えていた。 新プラトン学派では、これを神秘的シンボルとしていた。 またこの魔術は傑出した唯物論で、魂が生ける肉体のたった一つの主ファクター(*訳注* ファクター:要素のほかに作り手や創造者の意もある)というのでもなく、この地球自体も生きているとの概念を抱いていた。 この魔術では、魂としてのアニマ、あるいは死者の息が何から創造されているかは分からない、すくなくとも千夜一夜物語の時代のように、ソロモン王であろうとも息や魂のそんな厄介な事など分かろうはずもなく、それは幾重にも封印された器具の中に閉じ込められ;アバーテ ジェロ―ニ(*訳注* アバーテ ジェローニ:は イタリアの神秘家で薔薇十字団員の修道長だったらしい. ガラス容器の中で生命体をつくろうとしたようだが…)がしたように導管とガラス球体の中で行われたらしい。 複雑なこのイデアで魂と空気を同等に見て概念を抱き、私たちは息をしている、これは確かに落ち着かないこと、この様に人は常にその魂を似たように考えて来たが、この様にして人は完成へと向かい生きている。 精神主義者たちが形成したこの考え方は、肉体のない精神である、が、幻想で多くの人にとってはよりどころでもあり、これには死への大きな恐怖がある。 死は空気となること。 そして生きることは苦痛で、悩み苦しむ人生に価値があるのか、困惑と苦痛に満ち、愛されなくても愛する、これでは同じ運命を子供たちに与えるだけではないのか? なんとみじめなビジョンなことか!
科学者
あなたの話を聞けて嬉しいです。 この種の見地の問題点について、私は考えたことがなかったということが、はっきりしました。 他の人たちが記し心をくだいた疑念に、私がどれほど論を加えていなかったかが、今分かりました。 精神論(*訳注* 精神論:原書では スピリティズモ spiritismo 日本語では 交霊術とか心霊現象などと訳されている:辞書より. 英語では 観念論 唯心論 精神性. )については読んだことがあり、私が信じていたのはそれが第二の身体だということ、その何かによって死者の霊が持ち去られると、人々がそう言っていたように、物質の方がより重く密度が高く、空気より密集している、つまりこの様に何かが保護され維持されているが、これは空気と混同されるものではない。
ジュリアーノ
それは自然な考えです:必要なのはこの魂や死者の息が、空気のような何かだった、そしてどこかそれが空気と混同されていたってこと。 言い換えれば、何かが空気を利用していたが、その何かは呼吸する空気と混同されるものではなかった。 この様にさかのぼれば、もっともらしい魂という言葉を偽造した唯心論者たちにこれは行きつく。 この魂のようなものが第二の体で、理解できない程に微妙なもの、実際のこの魂として守られてきたものだろう、つまりそれが空気と混同されえないもので、その中に見失われているのかもしれない。 もしもその密度が保たれ物質として維持されるのなら、どこにその分子力が達し、相対的な密集度が一定に保たれるのか物理的に示す必要があるだろう。 しかしこの霊的神秘主義によれば、この中身の何かは非常に軽く、その容器がアニマや魂であり死者でもある、それはまた生きている人間の機能をすべて持っていると考えられている、身体各部がなくてもである。 このシャボン玉は人類にとって素晴らしく、人を生かし訪れる出来事に生きる意志の力を与えることができると感じるかもしれない。 美しく高尚だが、妄想です!
科学者
私にはそれは議論する余地のあることのように思えますが。 全てにおいて、もしもがこの様に先行しているように思えました、死者たちには生きている人たちの何が必要なのだろうかと。
ジュリアーノ
もしも人と何かの動物の基本的な違いについてよく考えて見るなら、それはモラルだとか知性だとか魂だとかに価値があるということではなく、単純になぜ生きている人間が関節のある手で仕事をしたり、また口でしゃべったりして、理解し合える獣(けもの)という人種になったかということであり、これは容易に分かるはず、そして結局動物と人間でも同様で、ふたつの動物学的タイプへと影響が及んでも同じには現れてこないということも分かるはずです。 それはまた他の動物に手や言葉がなく、私たちが言葉を知り同様に考えるメカニズムを持てても進化したのではなく、実際には何かの能力が不足していて萎縮しているのかもしれないからです。 私たちは基本的観察を通して動物たちのことを知っています、しばしばこの共感や愛情から何かを直感しますが;しかしそれが何なのか分かっているでしょうか? スズメはなぜ一日中さえずっているのか分かりますか? ナイチンゲールはなぜ歌うのか? なぜどの生息域のクロウタドリも同じ旋律とリズムで鳴かないのか?
(*訳注* 言葉を持つ鳥シジュウカラ 2017.12 / 41分)*
科学者
誰がそんなこと分かりますか?
ジュリアーノ
あくびをしてる犬を見たことありません?その犬はご主人様がひいてるピアノを聞いて歌うのを見てる、するとその歌うのを見て真似て口を開けると鳴き声を上げたりするでしょ? さあ、もしその犬が発声方法を完成させていたら、あくびする時言うでしょ:ああ退屈!って、そしてその口を開ける時ご主人さまを真似て、歌うかも。 さてシャボン玉に戻りましょう、名前のない微妙な物質でふくれ閉じ込められた魂の真似ごとに、そして考えましょう、あくびしたり歌いたがってる犬よりこれはましなものになれるのかどうか。
科学者
それを考えるのは多大な困難が伴い、また、その考えは表現のしようがありません。 表現したり行う方法も不充分で、それに必要な器官も不充分では、理解もできません!
ジュリアーノ
この哲学は、難解であいまい興味深く不可解、コルネリオ アグリッパ(*訳注* コルネリオ アグリッパ:1486 - 1535 は16世紀ルネサンス期ドイツの魔術師 人文主義者 神学者 法律家 軍人 医師)は、それを最も緻密で精妙なものと呼んだ、私たちにとってはそれは三重に神聖なヘルメス的なものと理解できるかもしれない、人の生きた肉体の中にある魂としての課題と言えるだろうが、二次的には死後の統合的な魂についての探求的課題と言えるだろう。 これは古代オルフェウス教(*訳注* オルフェウス教:古代ギリシア密教)に始まりそれを引き継いだ人たちにとっては、結局偉大な秘儀だったはずです。 あなた方が理解しようとしている到達点は人の知が及ぶ所ではない、これでは傲慢などうしようもない夢想家であり、聖書の蛇のよう、それは物事を変容さす根本的ご主人さまで、よってこの自然界の本質である。 おお、聖トーマス(*訳注* キリスト12使徒のひとり:キリストの復活を疑った. ここでは暗に科学者のことを言っているようである. )よ! だが、偉大なる革新、それを笑う権利は誰にもない、それは偉大な革新のまた偉大な達成の後のこと、このみすぼらしい夢想家は、ひ弱な肉体で生まれ人生の荒波に耐え、可能にする精神的能力もない、切迫した展開にあってしばしばもがき苦しみながらその実体は、自身に神への確かな渇望を胸に育まれる。
科学者
そうですね、私達の誇りとするものは偉大ですが、全ては完成された後のこと、その成功である誇りと産物は、自分自身には少々傲慢なものの様に思えます。
ジュリアーノ
さてそれでは、新たに聞いたこともないような問題を解決することができると世に知らしめる時、なぜ人は笑い微笑むのだろうか? いったい誰が目も眩むほどの高さを飛ぶようになるなど予想しただろう、30年ほど前に学校で、イカロスは肩にロウで羽をつけて飛んでいたと説明されたが、太陽の光で溶けてしまったとか? イカロスは有史以前の飛行家だったのか? しかし30年前の人類は進歩していて、その様な幼い考えは持っていなかった、今日のこの考え方は、実際もう誰にも素晴らしいものでもなくなった。 それから、写真や電信機や電気照明は?またワイヤレスの無線通信?また電話や蓄音機などはどうだろうか? しかしヘルメス学派の賢人が、死んだ人から自分自身が生まれ出た夢をみたら、あなた方はそれを笑う勇気があるでしょうか? 言い換えれば、人はスピリト(空気 呼吸 息)を放出しているのではなく、よって自身がそれをスピリトとして取り込んでいる、そして同様に体に供給している、つまりそれが人に等しく、普通肉眼では見えない人間のマテリア(*訳注* マテリア:物質 素材 原料)である。 言葉は肉となった;この魂のようなものの実際は、存在する物事として、唯心論者たちによって推論されたものであった。 さて、人は永遠なのか? 不滅でメンタリティーや身体を創造する力があるのか、それが普通の人間でその手足も、原理として実際そうなのか? これはパラドックスなのか? しかし、蒸気機関以前、人類の賢い人たちの集まり、特に神学者は火と水では船を航行させることはできないと結論していた。
科学者
それゆえ、スピリティストのアラン カルデック(*訳注* アラン カルデック:フランスの哲学者:交霊術を研究したとされる)などの人たちはわずかだがその先陣となった:彼らが成し遂げようとしたのは永遠に続く命の課題を解くことだった。 賛辞はあまりありませんが。
ジュリアーノ
皮肉らないようにしてください。 全てのイデアや発見は、生き生きとしたこの世界で、私たちひとりひとりのあり方が他のそれと結びつき、相互利益として産み出されているのです。 電信機がなければ列車は、実際今日のような速度で走ることはできないでしょう。 そこに、森羅万象の地形学的には不確かな中心というものがあり、ここからさまざまなイデアや考えが、新たに人類自らの問題としてほとばしり出てくるのです。 これら宇宙普遍のイデア(思考)というものの中心的な所在がどこにあるのかは、誰にも分らないのではないでしょうか? 具体的なこのイデアの前に、しばしば人類はその芽生えとなる様々な思考が飛び交っているのをつかみ取っている、その何かは人々の中に目覚め確かなイデアとなるに違いないが、一度にその全てが理解できるはずもないのでは? これが、私があなた方に言っている、あなた方が理解できないでいるそのイデアで、ペリスピリト(*訳注* ペリスピリト:原書では perispirito. peri-は 周辺や近隣また隣接などの意. ジュリアーノのこの発言の前に中心思考について述べていることから 中心に調和合致する周囲の思考やイデアの意か)である。 これは普通のイデアで誰でもが優れたカルデックの様なスピリティストであり、このペリスピリトが肉体を形成しそれを包み込んでいたということになるのか。 だからこの様なスピリティストたちは奇跡は自然な事ととらえ、人類はみな死して新たな命へと旅立ちこのより微妙なコルポへと出て行くと考えたが、ヘルメス的また魔術的な哲学者たちはそんな例外的な想像力を哲学に持ち込んでいた。 この辺(あたり)のスピリト(*訳注* この辺のスピリト:perispirito )の考え方は、元来のスピリティズムだと理解されても、これがヘルメス哲学の本質だと言えるのかどうか? それともこれは民衆の直感によるある種の特定条件の中で発展してきたところ、人が到達できた点なのか? さらに、人がこの究極目標に達することが許されてもそうでなくても、結果は疑問で人々の命の改新はこの程度である、それでは生きることは道半ばで、私たちにとっては理解できず、そして目の前にあってもほとんど解からず拒(こば)まれ、憎しみを抱き、私たちの人生の歩みは障害の連続になってしまうかもしれない。 そしてそこにもっと広範なイデアがあふれ出てくる:もしもそここの地上に同様に生きている死者たちが存在し見えない命とのつながりという秘密があり、まさにその状況が伝わらなければ、民衆にはその存在は目には見えず、まさにその同じ人たちが愛し考え影響を与えている段階は並行するでも同一でもないが、しかししばしば一致し編み込まれた段階の人類にとっての命の様々な感情となるのだろうか? これらは神聖魔術での、また神格化された、アイオーンなのか? (*訳注* アイオーン:宗教のグノーシス派で言うところの 至上存在から発する永久不変の力) そしてもしこれらの存在が実在するなら、通常の人の命は非自覚的に愛したり誰かと口論したりすることでこの民衆が普通に構成されていると想像できないだろうか?
科学者
あなたは私を子供たちの想像の世界の如くのファンタジーへと導いています:少しづつ少しづつ枝分かれしながら最も高きその頂(いただき)へと導き、そこは目も眩むほどです;そこでは理性は役に立たず、純真なその声が聞こえて来ます:それって本当なのか?と。 もしもです、そんな平凡で庶民的な生活の背後に半分神さまの様な偉そうな変わり者が存在し、ここそこのこの世のまさにこのつかの間の中で守ったり悩ましたりしているのなら、そこは神さまを信頼しそんな道徳の基本があるまともな原理のある所なんでしょうか? それではどっちみちその人たちは心霊術師であって、あなた方が指摘し認識しているその人たちは信頼する真実の可能性があるということになりますが、それでは祈りや呪文のようなもので霊媒師がその何かに良く答えることができ、その人たちは不死への道を自覚し理解しているのかどうか… 要するにですからその人たちは生きている人たちに自分をさらけ出すことができる死者の霊であり、私たちのその考えやら物事の推測の見方を我々に口出しする力として存続しているのかどうか。
ジュリアーノ
混乱しないでください。 これは概念であって、魔術的可能性、古代オリンピコの不死を構成する部分の人の半神変容の可能性のことで、可能な論述ではなく私の主張でもありません。 もしも私がそれが何か、そのような途方もない知的理解力を持った不死の目に見えない人たちが存在し生きていると知っていたとして、日々のみすぼらしさのはるかな高みをあなた方は信じ、私のわずかばかりの言葉で信じ、信じる霊媒師がいて純粋にあなた方が主張するように、その時からそんな何かを察知できますか…。 ですからもし私がこの不死の秘密の達成を知っていたなら、全ての人たちにその感情を本当に教えるかもしれませんが;しかし私たちは哲学的にはその仮定や解釈の領域にあり、私が述べたこれらのことは、ですから全ての人たちそれぞれの研究者の自由と調査や研究に引き継がれているのです。 私は自分の経験や印象に残った事柄を明かし、確認しているだけです。
科学者
でも私の望みは…
ジュリアーノ
あなた方の問いと欲求には、誰も到達することはないのです… なぜなら振り子時計が示しているのは、真夜中の1時前、今この興味深い議論を続けるのは適切ではありません
科学者
あなたは時間をだしに中断しようとしてるのですか? それって私が興味を抱き始めたこの対話を正午までに終わらせたいってことですか? 眠いですか?
ジュリアーノ
あなたの質問では、トランポリン上みたいで本の内容も読めないでしょう。 時間とはサトゥルヌス神の神聖な性質です;あなたは心の中にこのサトゥルヌス(*訳注* サトゥルヌス:サトゥルヌスはローマ神話に登場する農耕神 豊穣の神. )の力を揺り起こしている。 真夜中の0時容赦のないサトゥルヌスの神の飢えた大鎌が、振り上げられ、もはや戻ることのない刈り入れへと振り下ろされる。 これは全能の力だが、いかなる神であれ、実際に過ぎ去った人の命の物事を消し去り破壊することはできない。人はそれを忘れるかもしれないが、たとえ破壊の神とてそれが存在しなかった事には決してできない。 サトゥルヌス神だけが、それを切り落とし、鎌でなぎ倒し、消し去ることができる、しかし、実在しなかったことを裁くことはできないのです。 それが彼の本性、彼こそがそこに立ち向かう ―― そしてもしそれが真っ暗に見えるならサトゥルヌスがその瞬間に訪れ語るだろう、これは偉大で決して変わらぬことと、それは可能性としての三つの基本が自分の中にあることだと示される:したことの忘却と一瞬にして結ばれた愛情、そしていまだ不確かな嵐の雷鳴の訪れである。 もしご希望であれば、また楽しい話をしましょう、水曜の昼間の1時に…
(*訳注* 今後神話はジュリアーノとの対話の中で大きな要素となっていく:自然界の働きや人間理解の象徴として描かれて行くことになる. )
科学者
それは心残りですがそうしましょう、ありがとうございました。


対話その1 完



”私は、浜辺で遊ぶ子供の様だった
そこですべすべした小石やきれいな貝殻を見つけて楽しんでいた

しかし私の目の前には真理の大海原が、発見されることなく広がっていたのだ”

アイザック ニュートン

 

この世は神話である。

ジュリアーノ クレンメルツ



THE PLANETS by GUSTAV HOLST
  ホルストの『惑星』


MARS, the bringer of war.
  マルスの神は争いをもたらし
VENUS, the bringer of peace.
  ヴィーナスの女神は平和をもたらす
MERCURY, the winged messenger.
  マーキュリーは風のメッセンジャーにして
JUPITER, the bringer of jollity.
  ジュピターは快楽の神
SATURN, the bringer of age.
  サトゥルヌスは時をつかさどり
URANUS, the magician.
  ウラヌスは魔術師にして
NEPTUNE, the mystic. 
  ネプトゥヌスはまさに神秘なり
  


 
楽譜に添えられた詩




日常の全ての時、その一瞬の中にこそ真理はある、人はそれ;この宇宙との一体感を常に感じている…



最終 第9話までご紹介してまいります。

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