----- 以下は、市場泰男(いちぱやすお)氏のホームページからの引用です。-----



マルコーニ
大金持ちの家に生まれた彼は、その一生を無線電信に捧げ、
数多い競争者たちをひきはなして、電波の世界の支配者となった。

01 グリエルモの決心
02 大金持ちの息子
03 電波の予言者
04 ヘルツの電波実験
05 リギー教授の教え
06 最初の成功
07 無線電信の誕生
08 無線通信をめざした人々
09 イギリスヘ渡る
10 無線電信の会社ができる
11 無電技術の発展
12 電波、大西洋を渡る
13 電離層の発見
14 無線電信への反抗
15 無電事業の競争者たち
16 SOSの威力
17 ノーベル賞を受ける
18 短波通信の開発
19 栄光の日
* 別のマルコーニについての記事

   01 グリエルモの決心 top

 一八九四年初夏――
イタリアの北西のはずれに、ビエラという町があります。
アルプスの峰々を近くにのぞみ、観光地として世界に名を知られたところです。
この町の郊外に、ボローニャの大金持ちジュゼッペ・マルコーニ氏がもつ、大きな別荘がありました。

この別荘の一部屋でさっきから、二十才になったばかりの上品な青年が、雑誌をひろげて、じっと読みふけっています。
窓の外は、白い雪をいただくアルプスのたくましい山々がそびえ、近くの木々の緑にはえて、うっとりするような景色ですが、青年はほとんど顔を上げようともせず、ひたすら活字を追っています。

ドアをあけて、三十才がらみの男がはいってきました。
「グリエルモ、なにを熱心に読んでいるんだい。おもしろい記事でもでているのか。」

グリエルモと呼ばれた青年は、だまって雑誌をとりあげ、クルリと表紙をだしてみせました。

「なに、『電気の世界』? また道楽が始まったのか? おまえも全く変わってるな。
電気だの化学だの、わけもわからないことをおもしろがるんだからな。」

「まあそういうなよ、ルイギ兄さん。僕はいま、すばらしいことを思いついたんだ。
電波を使って、針金なしで電信を送ることをさ。」

「電波、そりゃなんのことだ?」
兄のルイギは目をまるくしました。
この兄は弟の グリエルモ と違って、電気のことはさっぱり興味がなく、電波などという言葉は、今まで聞いたこともなかったのです。

グリエルモは笑い出しました。
「そうそう、兄さんは電波のことはなにも知らなかったんだな。
ぼくもいまこの雑誌を読んで、くわしいことが初めてわかったんだ。
ドイツのハインリヒ・ヘルツという学者が、一八八八年にすばらしい発見をしたんだよ。
発電機と蓄電器をくみあわせて、うんと早くいったりきたりする電流をつくると、そのまわりに電気の波ができて、四方八方に広がっていく。
この波は光と同じに、一秒間に地球を七回半もまわるすごい速さで伝わっていくんだ。
そして、うまい受信機を使うと、この電波を捕まえることができる。
ヘルツは、針金の輪で電波を受けとめて、輪のすきまのところに、火花をとばせることができたのさ。」

「ふーん、そりゃたいした発見らしいな。」
ルイギは余り気もなさそうに、あいづちをうちます。

「僕はこの記事を読んでいるあいだに、すばらしいことを思いついたんだ。」
グリエルモは兄の顔をまっすぐ見て、いきいきと目を輝かします。
「ねえ、このヘルツが作った電波の発信機で、発信機に送りこむ電流を切ったりつないだりして、モールス符号をたたいたとしよう。
発信機から飛出す電波も、モールス符号のとおりに、切れたり繋がったりするだろう。
そうすれば、受信機にとびこんだ電波は、針金の輪のすきまに、モールス符号のとおりに光ったり消えたりする火花を作り出すだろう。
その火花から、送られてきた通信が読みとれる。
ほら、電波を使って、モールス符号を遠くまで、一瞬のうちに送ることができるじやないか。」

「ほほう、なるほど、そりゃすてきな思いつきだな。
ふうん、電波なら、針金をはらなくたって、どこへでも通信を送れるわけだからな。」

「そうなんだ、僕は決心した。この無線通信の研究を、これから初めてみようとね。」

「うん、それが成功したら、大変なことだな。」
ルイギも、とうとう弟の話にまきこまれたようです。
なんども頭をふって感心していましたが、ふと目がさめたように、弟にたずねました。
「グリエルモ、そのヘルツとかいう人か、初めて電波を作り出したのは、いつだったっけ?」

「一八八八年のことさ。」

「じゃ、今から六年も前のことだな。そうか、そうなら、感心してもはじまらん。」

「なにがはじまらないのさ。」

「考えてもごらん。君の思いつきはすばらしいに違いないが、電気のことをまるで知らない僕にさえ、すぐのみこめるくらい、簡単なことなんだ。
世の中には、電気の専門家や発明家がうようよしていて、何か新しいことはないかと、鵜の目鷹の目でさがしてる。
グリエルモ、君が考えつくぐらいのことは、もうずっとまえに、だれかが考えだしているよ。
いや、君は知らなくても、もうだれかが電波を使って通信する方法を発明しているかもしれない。
とにかく、いまごろ、専門家でもない君が乗り出したところで、もう遅過ぎるよ。」

「なるほど、それもそうだな。」
グリエルモは頬をふくらませながら、うなずきました。確かに兄の言葉ももっともです。
グリエルモは、明るい夢がシャボン玉みたいに消えていくような気がしました。

「しかし、まだ遅くはないかもしれない。
たとえほかの人が手をつけていたとしても、僕なりに努力してみる価値は充分ある。
針金なしで、どこでも通信できる新しい通信――、そうだ、これこそ、僕の一生を捧げてもくいない、すばらしい仕事だ!」
グリエルモは心のなかで叫びました。

無線電信の父と呼ばれるグリエルモ・マルコーニの一生の方針が、ここできまったのです。


   02 大金持ちの息子 top

グリエルモ・マルコーニは、1874年の4月25日、イタリアの古い都ボローニャに近い、ポンテッキオという村で生まれました。
父のジュゼッペ・マルコーニはボローニャの古い家柄の出で、たくさんの財産と土地をもち、実業家としても大変成功した人でした。
ボローニャに立派な屋敷をもつほか、少し離れたポンテッキオという村に広い領地があり、小作人に貸して作物をつくらせていました。
ポンテッキオにも、三階建てのダリフォーネという立派な屋敷があり、グリエルモはここで生まれたのです。
ジュゼッペはある女性と結婚し、ルイギという息子が生まれました。
この妻が死んだのち彼はイギリスから音楽の勉強をしにボローニャにきていたアンナ・ジェームソンという美しい少女と知合い、1864年に結婚しました。
アンナはアイルランドの名高いウィスキー製造家アソドリュー・ジェームソソの娘で、親戚に有名な政治家や軍人をもつ、立派な家柄の出でした。
結婚してあくる年に息子のアルフォンソが生まれ、それから9年たって末っ子の グリエルモ が 生まれたのです。
グリエルモの父と母は、年もずいぶん違っていましたが、性格もまるで正反対でした。
父は実業家らしく万事几帳面で抜目なく、無口で読書ずき、人から見ると厳格でつめたい感じでした。
ところが母のほうは芸術家肌で空想ゆたか、やさしい中にもきっぱりと決断力に富む人でした。
グリエルモのすぐ上の兄アルフォンソは父の性格をそっくりうけつぎ、行儀もよく、非のうちどころのない少年で、だれからもかわいがられました。
ところがグリエルモのほうは母によく似て、空想力に富み、ものによく熱中するほうで、どちらかというと口数も少なく、親しい友だちもありませんでした。
それで父はアルフォンソのほうを余計かわいがりましたが、母はグリエルモの性格をよく理解して何事につけてもよい友だちでした。
のちにグリエルモが無線の研究をすすめるにあたっても、母はいつもかれをはげまし、実験の費用もだしてやりました。
この母の後ろ盾がなかったら、マルコーニの研究はけっしてあれほど成功しなかったでしょう。

グリエルモは、近所の子供たちとは余りつきあいませんでしたが、生まれつき活発な子で、木登りや馬乗りが上手でした。

また小さいときから海が大好きで、釣りやヨットに夢中でした。
このたのしみは一生涯かわりませんでした。
「もしも家が貧乏だったとしたら、僕は発明家にならずに、船乗りになったに違いない」と、彼はのちになって語っています。

子供たちは、ボローニャの本邸よりもむしろグリフォーネの別荘のほうに多く住みました。
ここには図書室もあって、科学関係の本がたくさん集まっていました。
お金持ちの子の常として、マルコーニの兄弟たちは、学校にかよわないで、家庭教師を家によんで教育をうけました。

土地の小学校長までが家庭教師にやとわれたくらいで、全くいたれりつくせりの教育でした。


グリエルモの子供時代

そのほかグリエルモは母から英語をならいました。
彼はイタリア語と同じくらいうまく英語を話すようになり、のちに無線の仕事でイギリスにいったときも、知らない人は彼をイギリス人と信じて疑わなかったくらいです。
これは、イギリス人に自分の仕事を理解してもらうのに大変役立ちました。
グリエルモは科学にひどく興味をもち、熱心に勉強しました。
家にある科学の本もかたっぱしから読みました。
母が身体が弱かったので、冬になると一家はあたたかい海岸の保養地リボルノやフィレンツェに移るのが習慣でしたが、マルコーニ兄弟は転地先でも、その地でやとわれた家庭教師について勉強を続けました。
リボルノエ科大学のビンチェンソ・ローザ教授も教えにきましたが、グリエルモはこの人の電気の講義にふかくひきつけられ、電気の研究に夢中になりました。
のちにこの先生の紹介で、グリエルモはしばらくのあいだリボルノエ科大学にかよい、物理化学の講義をうけました。
科学に熱をあげたグリエルモは、父にねだって、グリフォーネの別荘の三階の一部屋をあけわたしてもらい、自分の実験室にあてることにしました。
それは、領地の小作人が作ったカイコの繭(まゆ)を一時しまっておくための物置部屋でした。
彼はここに電池や温度計、ガラス器具などを備え付けて、一人で電気や蒸気機関、化学などの実験にふけりました。
道具を買う費用は、その時々に母にねだってだしてもらったのです。
こんなわけで、グリエルモは正規の学校教育はほとんどうけませんでしたが、いつのまにか普通の大学生ではとてもかなわないぐらい、深い科学の知識を身につけてしまいました。
ですから電気の雑誌を読んで、ヘルツのやった電波の実験のこともスラスラ理解することができましたし、ついでに無線電信というすばらしいアイディアまで、しっかり捉えることができたのです。
発明家というと、大抵は貧乏な家に生まれて身を立てるのにいろいろ苦労するのが普通ですが(この本に乗っているほかの三人もそうです)、マルコーニだけは特別で、ちょっと類のないすばらしくめぐまれた環境に育ったのでした。


   03 電波の予言者 top

それではマルコーニが無線電信の発明を志すきっかけとなったヘルツの実験とは、どんなものだったでしょうか?

人間がどのようにして電波を捕まえ、利用するようになったか、その歴史をたどろうとすると、どうしても19世紀前半に活躍したイギリスの物理学者マイケル・ファラデー(1791〜1867年)までさかのぼらなければなりません。

ファラデーはひどく貧乏な家に生まれ、小学校もろくにいけなかった人ですが、働きながら血のにじむような勉強を続け、とうとう歴史に名を輝かす大科学者となりました。
電気や化学の分野でひろく深い研究を続け、特に1831年、コイルのそばで磁石を動かすとコイルのなかに電流が生まれるという、電磁誘導の現象を発見したので有名です。
ファラデーは長い電気研究の経験をとおして、晩年に「場」という考え方を抱くようになりました。

それまで、電気や磁気、電流などのあいだに働く力は、地球上の重力や天体のあいだに働く万有引力と同じに、途中の空間には全く関係なく、空間を飛び越えて一瞬に作用するのだと考えられていました。


物理学者ファラデー
電磁誘導発見の大科学者

電流のまわりの磁場――電流のまわりにできる磁気の「場」。
紙の上に鉄の粉をまき、そこに磁石をおいたり、電流をとおしたりすると、鉄粉が規則正しくならんで、その空間の「場」のようすを示します。
左はまっすぐな電流のまわりに、輪がとりまくような形の磁場ができているところ。
右は針金の輪、つまりコイルに電流をとおすと、コイルのなかをとおりぬける形の磁場ができることを示しています。

ところがファラデーは、電磁気の力はそれと違って、途中の空間を次々に伝わりながら、相手の電気や磁気、電流まで届くのだと考えたのです。
つまり電気や磁気、電流のまわりの空間は、それらの影響でなにもない空間と違った、一種の緊張した状態になっており、そこへほかの電気や磁気がはいってくると、その空間が作用してそれをひっぱったりおしのけたりするのだ、というのです。

このように、電磁気の作用で、空間が一種の緊張状態になったのを「場」といいます。

この場の考え方は、のちには物理学全体に取入れられ、特に相対性理論とか量子力学といった新しい物理の理論では、欠くことのできない土台の役割をはたしています。

ファラデーの研究をうけついで、場の考え方をいっそう深く掘り下げたのは、やはりイギリスの理論物理学者ジェームズ・クラーク・マクスウェル(1831〜79年)でした。

マクスウェルは、場の考えを基礎にして、それまで知られていた電磁気(でんじき)学の全体を、きれいな一組の数式(微分方程式)にまとめあげました。
これがマクスウェルの電磁理論で、ニュートンの力学理論とならんで、古い物理学全体を組みたてる二つの土台の一つになったのです。

マクスウェルは、自分があみだした基礎の数式をさらに研究していくうちに、重大な発見をしました。

それは、電流が一秒間に何十万回、何百万回というめまぐるしい速さで、いったりきたりしていると、そのまわりの空間、つまり場のなかに、電磁気の性質をもった波(電波)が生まれ、どんどん外へ進んでいくというのです。
つまり音叉やバイオリンの弦が振動すると、その振動がまわりの空気に伝わって、音の波が生まれ、四方八方に広がっていきますが、あれと同じように、振動する電流はまわりの空間に電波を送りだすというのです。
そればかりではありません。

マクスウェルは自分の数式から、この電波がどんな速さで空間を走っていくか計算してみました。

それは一秒間に30万キロ、つまり地球を7回半もまわるという、びっくりするような速さでした。


大学で電気系の学生は、マクスウエルの
電磁理論を学ぶが、難解。
電波の存在を予言した。

ところが不思議なことに、これは光が空間を走る速さと、ぴったり同じなのでした。
マクスウェルは思わずハタと手をうちました。
「わかった。電波と光は同じものだ。光は振動の速い。つまり波長の短い電波の一種なのだ。」
ここで波長というのは一つの波の長さ、水の波でいえば波の山と山との距離をいいます。
その波が、一秒間にいくつ送りだされるかをあらわす数が波の周波数で、周波数に波長をかけると波の速さがでます。
のちの研究から、光の波長は一万分の四ミリから一万分の八ミリ、周波数でいうと一秒間に一千兆回もの振動にあたることがわかっています。
マクスウェルは「光は電波の一種だ」という発見を論文にまとめ、1864年に発表しました。
これをマクスウェルの光の電磁説とよんでいます。


   04 ヘルツの電波実験 top

しかしそのころ、まだ電波を作った人は誰もいませんでした。
ですから電波が光と同じ性質をもっているかどうか、調べる手がかりもありませんでした。
マクスウェルの論文は、全く実験の裏づけのない、いわば予言にすぎなかったのです。
ですからそのころの学者たちは、この予言を中々信じようとしませんでした。
そのうえ、この予言のもとになったマクスウェルの理論は「場」という全く新しい考え方を土台にしていますし、おまけにむずかしい数式を使って組みたてられているので、わかりにくく、大抵の学者はこの新しい理論にそっぽを向いて、古い考え方にしがみついていました。
ただ少数のすぐれた学者たちが、マクスウェルの理論の正しさを認めて、これをひろく学界に認めさせようと努力していました。
ドイツの物理学者で生理学者のヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(1821〜94年)もその一人でした。
 (この人の音の研究が、ベルの電話の発明に強い刺激となりました。)

ベルリン大学教授だった彼は、 頭がするどくて実験のうまい弟子のハインリヒ・ルドルフ・ヘルツ(1857〜94年)に、マクスウェルの予言を実験から証明する仕事をまかせました。

ヘルツはハンブルクの金持ちの弁護士の息子で、はじめ技術者になるつもりで大学にはいりましたが、まもなく自分が技術者より学者にむいていることをさとって、ヘルムホルツのいるベルリン大学へ転校し、物理学を勉強したのです。

彼は1885年にカールスルーエ工業学校の物理学教授になり、ここで本式に電波を作り出す研究を始めました。
電波を作り出すためには、毎秒何百回もの速さで往復する振動電流をつくらなければなりません。
そのためにヘルツは、蓄電器の放電を利用することにしました。

蓄電器は電気をためる道具で、みなさんが学校で実験に使うライデンびんはその一つです。

この蓄電器に電気をためてから、両方の極を針金で繋(つな)ごうとしますと、パチンと火花が針金のあいだを走り、極にたまった電気が両方から流れて中和します。

… これが蓄電器の放電ですが、このときの火花は、ただ一方向に電流が流れるのではなくて、ものすごくはやく往復する振動電流になっていることが、1853年に証明されていました(ケルビン卿の理論的研究)


(*文注* また1887年ヘルツは、紫外線の照射により、帯電した物体は電荷を容易に失うという光電効果 【後にアインシュタインによって説明された】 を、発見した。
これは、電磁波をより強く発信する方法を探るため、紫外線を発信装置に当てると電磁波が強くなることを見出したのが発端である。〜Wikipedia → ここから量子力学へと発展していく。)


電波を実験室で作ったヘルツ。
周波数の単位のヘルツは彼の名前。
彼は若死にしたが、マルコーニが電波通信
に成功したおかげで、彼の功績も世に出た。

それなら蓄電器を放電させて火花をつくれば、そのはやい振動電流のため、まわりに電磁波が送りだされるはずだ。ヘルツはそう考えたのです。

しかし、一瞬の火花だけでは研究に不便です。
そこでヘルツは、火花を繰返し続けてつくる装置を工夫しました。
ルームコルフという人が発明した高電圧の交流をつくる発電機を手にいれ、この交流を蓄電器の両極につないだのです。

そうしますと、蓄電器の両極は交流から電気を受けとって、毎秒数百回の割合で繰返し繰返し充電され、そのたびに放電をおこします。
ですから、毎秒数百回の割合で火花がとび、そのたびに振動電流が生まれて、電波がまわりの空間に送りだされるわけです。

毎秒数百回というと、人間の目には一続きに繋がって見え、蓄電器の両極のあいだに、青白い火花がずっとともっているように見えますが、実はこんなわけで放電は毎秒何百回も途切れ途切れにおこっており、その一つの放電がまた毎秒何億回という速さで往復する振動電流でできているのです。

電磁波をだす装置はこれでできあがりました。

つぎは電磁波を受取る道具、受信機です。
ヘルツが考えだした受信機は、あきれるほど簡単なものでした。

針金をぐるりとまいて輪にし、一か所だけ小さなすきまを残しただけです。


ヘルツの発信機と受信機


ヘルツの発信機から出る電波

この針金の輪に電波があたりますと、輪のなかに電波と同じ振動数でいったりきたりする小さな電流が生まれます。
そのため、針金の切れめのところで火花がとびます。
火花が見えたら、それは確かに、電波がやってきて、針金の輪のなかに捕えられたという証拠なのです。

ただし、この針金の輪の長さや、すきまの幅をうまく調節しないと、たとえ電波を受けとめても、うまく火花がとびません。
電波を受けて、針金のなかに生まれた振動電流が、輪のなかをいったりきたりするあいだに、ちょうどうまく共鳴をおこして、しだいに電流が強くなっていくようでないと、火花はとばないのです。
ヘルツは、針金のすきまのところに小さい玉を一つずつ取付け、玉の一方はねじじかけで前後に動くようにし、すきまの幅を大きくしたり小さくしたりできるようにしました。
これで電波をだす発信機と、受けとめる受信機が、両方ともできあがりました。

1887年の秋の夕ぐれ、彼はうすぐらくなった実験室で、いよいよ電波を捕まえる実験にかかりました。
発信機にスイッチをいれます。
シーンとかすかな音をたてて、青白い火花がともります。
ヘルツは胸をとどろかせながら、針金の輪の受信機を発信機のそばで、いろいろに動かしました。
ねじで針金の切れ目の調節もやってみました。

とうとう切れ目のところに、かすかな火花がパツと光りました。
「やったぞ! とうとう電波を捕まえた!」
ヘルツはどんなにうれしかったことでしょう。

人類で初めて、電波を作り出し、それを受けとめて、火花をだすことができたのです。
「電波はどのくらい遠くまで伝わるのかしら。」
ヘルツは、受信機をだんだん遠くにもっていきました。
針金のすきまをとぶ火花は、だんだんかすかになり、とうとう発信機から3メートルほどのところで、全く消えてしまいました。

勇気百倍したヘルツはこの発信機と受信機を使って、電波の性質をつきとめにかかりました。
電波は木や石やガラスを簡単につきぬけること、金属の板には反射されて通りぬけられないこともわりました。
反射された電波をしらべて、その波長は約 30 センチだと知りました。
蓄電器のその他の装置から計算して、振動数のほうは一秒間に約 10 億回とわかりました。
両方をかけあわせると、電波の速さは毎秒約30万キロとでました。
間違いありません。光の速さとぴったりです。

さらにヘルツは、金属板を反射がさに使って光線のような電波の線を作りました。
この電波の線を金属板に反射させたり、パラフィンで作ったプリズムに通したりして、電波は、光と全く同じ反射の法則や屈折の法則にしたがうことを証明しました。

ヘルツは以上の結果を論文にまとめて、1888年に発表しました。
マクスウェルの予言どおり電波が確かにつくれること、そして電波は光とよく似た性質をもっていることが、誰も文句のつけようもないくらい、ハッキリと証明されたのです。
そのうえ、マクスウェルの「場」の考え方や電磁理論そのものも、全く正しいことが明らかになりました。
この発表は世界じゅうの科学者を驚かせました。

ヘルツの名は一度に有名になりましたし、電波の実験は、物理学者の世界で一時流行になりました。
1891年に、イギリスの物理学者ヘビーサイドはこういっています。
「いまから三年まえまでは、電波はどこにもなかった。それがいまは、どこにだってある。」
電波は別の名をヘルツ波とよぱれるようになりました。
学者たちのなかには、電波を通信に利用できるのではないかと考えた人もありました。

特にイギリスのオリバー・ロッジが、その方面の研究に熱心でした。
しかし当のヘルツは、そんな実用的な仕事には目もくれませんでした。
彼は純粋な科学の研究のほうがずっと重要だと考えていましたし、実のところ電波を使って通信ができるとは思っていなかったようです。
ヘルツは1889年にボン大学の教授になり、電磁気学や力学のほうでなお重要な仕事をしましたが、おしいことに慢性血毒というたちの悪い病気にかかり、1894年の1月1日、37才という若さでこの世を去りました。
ヘルツの死は全世界の人々からおしまれました。
科学雑誌や電気関係の雑誌は、こぞってかれの記事を特集し、その業績をたたえました。

その一つが、はからずもマルコーニの目にはいって、深い感動をよびおこしたというわけです。


   05 リギー教授の教え top

1894年の夏もすぎ、マルコーニは待ちかねたように、ビエラ・アルプスの山荘から、ポンテッキオのグリフォーネ別邸へもどってきました。
すでにポケットには、山荘で工夫したいくつかの実験用の配線図が、大事そうにしのばせてありました。
出むかえた母に、マルコーニは勢いこんで自分の思いつきを話しました。

「針金なしで通信を送る機械? それはすばらしい考えよ。ぜひ研究してごらんなさい。
うちは暮らしに不自由はないのだから、発明からお金をもうける必要はちっともないし、たとえ人に先をこされたって、別にかまわないのですからね。」

母からもはげまされて、マルコーユの心はいっそうふるいたちました。
彼は本や雑誌を読んで、電波のことをいっそう研究する一方、おりをみてボローニャ大学へ出かけ、アウグスト・リギー教授をたずねました。

リギー(1850〜1920年)は、マルコーニの父とは古い知合いで、その縁でグリエルモも、まえに化学や力学を教えてもらったことがありました。

リギーはもともと電気が専門だったのですが、マルコーニは彼に電波のことを教わるのは、これが初めてだったのです。
しかしリギーはマルコーニの話をきくと、少しむずかしい顔をして首をふりました。
「確かに君の思いつきはおもしろい。
二年ほどまえに、イギリスのウィリアム・クルックスが、人類はいずれ電波で通信を送れるようになるだろうと予言していたし、イギリスでもドイツでも、そういう研究をやっている人がいるはずだ。
しかし誰もまだ成功してはいない。
私は科学者だから、余り実用的な仕事には関心がないし、よく知らないから、意見をのべる資格はなさそうだ。
しかし私の考えでは、電波は先へ進んでいくうちに、どんどん弱くたってしまうから、遠くまで送ることはとてもむずかしい。
電信や電話にたちうちできるところまでは、ちょっといかないだろうと思うよ。」
リギー先生の意見はかなり否定的でした。

しかしマルコーニの勇気はそんなことでくじけたりしませんでした。
そんなむずかしいことなら、いっそうやりがいがあるというものです。
「先生、私はヘルツが作った装置しか知らないのですが、あれ以来、電波の発信機や受信機は、どのくらい進歩したでしょうか。」
(*文注* リギー Augusto Righi :晩年は相対性理論の実験的研究もおこなった)


マルコーニの電波の教師だったリギー。
彼は電波での通信には否定的だったが、
電波の送信器、受信機の製作は支援した。

「ああ、その質問なら私にも充分答えられる。
ヘルツが電波を発見してからは、電波の研究は学界の流行になって、たくさんの人がそれにとびついた。
そのおかげで、電波の発信機も受信機も、まえよりずっと強力なものになったのさ。
実は私も発信機の改良を手がけて、ヘルツの発信機より何倍も強い電波をだすのを作りあげた。
ほら、そこにあるだろう。」
リギーは、研究室の隅においてある機械を指さしました。
「私が改良した点は、発信機の火花をだす部分を、ワセリンの中につけたことだ。
こうすると、空気中で火花をとばすよりも、ずっと強い電波がだせるのさ。」

リギー教授はさらに言葉を続けました。

「受信機のほうは、 1890年にフランスのエドアール・ブランリー(1844〜1940年)が、ヘルツの金属輪とまるっきり違った、とても感度のよいものを発明した。
それは、コヒーラーといって、小さいガラス管に鉄の粉を軽くつめて、両端に電極をはさんだものだ。

この電極を電池につないで、電圧をかけておく。
このままだと、鉄の粉はすきまだらけだから、抵抗が大きくて、電流はほとんど流れない。

ところが外から電波がやってきて、鉄粉にあたると、鉄粉がくっつきあって、急に抵抗が小さくなる。
それで、両極のあいだを大きい電流が流れるから、電流計の針がピクッと動く。
これで、電波を受けたことがハッキリわかる。

ヘルツの金属輪では、外からきた電波が輪っかに誘導電流をおこし、それが火花をとばすのを観察したのだが、このコヒーラーでは、あらかじめ電池で電圧をかけておいて、それに電流を流させるのだから、大きい電流をつくることができる。
だから、感度は大変よくなるのだよ。

(*文注* コヒーラー coherer ← cohere くっ付き合う)


電波の受信を検知する
コヒーラーの発明者のブランリー

ただし、コヒーラーには大きな欠点がある。
というのは、一度電波がくると、鉄粉がくっついてしまうので、そのあとは電流は流れっぱなしだ。
電波がこなくなっても、電流はいつまでも流れ続ける。
そうなったら、もう電波があるのかないのか見分けることができない。
そこで抵抗が小さくなったコヒーラーはゆすぶって、鉄粉をバラバラにしてやる。
そうすれば、コヒーラーは元通り電波に感じるようになる。
このように、コヒーラーを時々ゆすぶって、鉄粉をバラバラの状態に戻してやらなければならない点が、ちょっとやっかいだがね。」

リギー教授は親切に、新しい発信機や受信機のことをいろいろ教えてくれました。
「発信機にリギー先生の改良したものを使い、受信機にそのコヒーラーを使ったら、きっと電波でモールス符号を送れるに違いない!」

心からお礼をのべて、ボローニャ大学の門を出たマルコーニには、将来すすむべき方向がハッキリと見通せたのでした。


   06 最初の成功 top

マルコーニは、母にいいました。
「おかあさん、僕はいよいよ無線電信の研究にとりかかります。
それには、今までの物おき部屋ではせますぎるので、もっと広い部屋を使わせてください。」
母はさっそく三階の広い部屋を二つもあけわたしてくれました。
マルコーニはこの新しい実験室に、電池や電線、ガラス管や薬品、大工道具などをもちこんで、朝早くから夜遅くまで、一人でこつこつと実験にふけりました。
電池や回路はもちろん、ヘルツの発信機もコヒーラーも、自分の手でつくらなければなりません。
ときには実験に夢中になって、食事もわすれて夜中まで頑張ることもありました。
そういうときは、母はお手伝いさんに食事をもたせて実験室にあらわれ、「余り無理をしないようにね」 といつもあたたかいまなざしで、熱心なマルコーニの仕事ぶりを見まもったものです。

冬がきました。
身体の弱い母はいつも寒くなると、海岸の保養地に移ったものですが、この1894年はそのままグリフォーネの別邸にとどまって、マルコーニと一緒にすごしました。
十二月のある寒いま夜中のことでした。
ねむっていた母のアソナは、マルコーニにゆりおこされました。
「お母さん、起きてよ。とうとうできたんだ、僕の機械が。」

母はなにがなんだかわかりませんでしたが、せかれるままに寝間着の上にガウンをかけてマルコーニと一緒に二階の実験室に上がりました。
「このベルの前にいてください。僕はとなりの部屋から電波を送ります。
その電波で、ベルをならせてみせますよ。」
マルコーニはそういうと、となりの部屋にかけこみました。
「いい、そらスイッチを押すよ!」
とたんに母の前のベルがいきおいよく鳴り出しました。
母は思わず目をまるくしました。

「どう。おかあさん?」
ドアから顔をだしたマルコーニの目は、よろこびにいきいきと輝いています。
「発信機から受信機まで三メートル、針金も何も繋がっていない。
壁をとおして、見事に電波だけでベルを鳴らしたんだぜ。」
「おめでとう、大成功ね。」
「うん、でもこれはほんの第一歩さ。
ペルを鳴らすことはやさしいけれど、モールス符号を送るのはむずかしい。これからが大変なんだ。」
「あせらずに、頑張りなさいぬ。」
あくる日、マルコーニは父にもこの実験を見せました。父はちょっと目をみはりましたが、ひややかにこういいました。
「まあね、ペルを鳴らすにも、いろんな鳴らし方があるだろうからね。」
実際家の父の目には、マルコーニの努力の結晶も、まだ物好きな暇つぶしとしか写らなかったのでしょう。


   07 無線電信の誕生 top

最初の成功に元気づいたマルコーニは、つづいて電波でモールス符号をやりとりする研究に進みました。

符号を送るほうは簡単です。
発信機のスイッチをつないだり切ったりして、発信機に送りこむ電流を、モールス符号どおりに刻んでいけば、電波も同じトン・ツーのかたまりとなって飛出すからです。

問題は電波を受取る受信機のほうです。

コヒーラーは一度電波を受取ると、それきり鉄粉がくっついて、電流をとおすようになりますから、そのあとは電流は流れっぱなしで、電波がこなくなっても電流は切れません。
これでは電波からモールス符号を取り出すことはできません。
マルコーニは、実験に使ったベルの構造からヒントをえて、うまい仕掛を考えだしました。
ペルでは電磁石とバネをうまく組みあわせて、電流の流れているあいだだけ、打ち棒がくりかえし鈴(りん)を叩きます。
マルコーニは、この仕組をそっくり利用して、打ち棒に鈴(りん)を叩かせるかわりに、コヒーラーを叩かせたのです。

そうしますと電波がひきつづききているあいだは、コヒーラーのなかの鉄粉は、くっついては離れ、くっついては離れるという運動をこまかく繰返すので、電流は引続いて流れます。
…しかし電波がこなくなれば、鉄粉はゆすぶられてバラバラのままですから、電流は流れません。


マルコーニの無線電信の原理

ですから、こうしてベルの仕掛でコヒーラーがいつもゆすぶられているあいだは、電波がやってきたりこなくなったりするとおりに、電流は流れたり消えたりし、電波が運んできたモールス符号は、そっくりそのままコヒーラーを通る電流の変化に写し乗せられるわけです。

このようにコヒーラーをたえずゆすぶって、電波の作用でくっついた鉄粉を元のバラバラに戻す装置を、デコヒーラーといっています。
マルコーニはのちにデコヒーラーをもっと改良して、電波がやってこないあいだは、デコヒーラーも動かず、電波がくるとそのときからデコヒーラーがコヒーラーをゆすぶりだし、電波がとまるとデコヒーラーも動かなくなるという、一種のオートメーション仕掛を考えだしました。

1894年の末に、マルコーニはこのコヒーラー・デコヒーラーの組みあわせを使って、発信機から送られてきた電波から、モールス符号を電流の形で取り出し、これをモールス印字受信機にとおして、テープの上にトン・ツーを書かせることができました。
電波でモールス通信を送るという彼の計画は、とうとう実現したのです。

ここまで成功すれば、あとの問題は、通信距離をできるかぎり長くすることです。
それには部屋の中で実験したのではせますぎます。
あくる1895年の春から、マルコーニは庭へ出て実験を始めました。
このグリフォーネの屋敷には、広々とした美しい庭があり築山がそびえ、見事な栗の並木がつづいていました。
父はこの美しい庭をあらさないよう、かねがね家族にいいつけていましたから、マルコーニは父に見つからないよう、朝早くか夜中をねらって、こっそり実験を続けました。
距離が遠くなると、一人で発信と受信をやるわけにいきませんから、マルコーニはすぐ上の兄のアルフォンソや、領地の小作人の息子たちに、実験を手伝ってもらいました。
マルコーニは、元々人づきあいのよくない性格でしたが、不思議と人を使うのが上手で、年上の人たちも気持ちよく彼のいいつけにしたがうのでした。

マルコーニが発信機のほうを受持ち、兄のアルフォンソが受信機のそばに立って、うまく電波を受信したときは、おかしな声をだしたり身ぶり手ぶりで、マルコーニにそのことを知らせるのでした。
装置の改良もめざましく進みました。


マルコーニの最初の発信機


マルコーニが改良したコヒーラー

発信機はリギー教授か考えだした、あのワセリンづけのものにかえました。
コヒーラーもニッケル95パーセント、銀5パーセントの割合でまぜた粉を、直径3ミリほどのガラス管につめて、銀の電極をほんのわずかのすきまをへだてておいたものにかえ、感度はすばらしく良くなりました。
特に重要なことは、 ロシアの科学者ポポフの報告からヒントをえて、アンテナとアースを設けたことです。
アンテナとアースのおかけで、電波はずっと遠くまで届くようになりました。
こうして1895年の末には、通信距離は1.6キロにのび、あくる95年には3.3キロにもなりました。
無線電信はいよいよ実用的なものに成長したのです。

マルユーニはまた実験中に、電波が築山の上を乗り越えてすすむことを知りました。
「電波は見通しのきかない築山の向こう側へも届く。きっと電波は地面にそって、曲がりながらすすむのに違いない。」
この発見からマルコーニは、非常な遠距離でも電波を使って通信できると自信がつきました。
のちに大西洋横断の無線通信の実験をするときにも、マルコー二はこのときの経験から、成功を信じて疑わなかったのです。


   08 無線通信をめざした人々 top

まえにもお話しましたが、電波を通信に使うことを思いついたのは、マルコーひとりではありません。
ヘルツの電波実験いらい、かなり多くの人々が同じことを考えて、それぞれに研究をすすめていたのです。
しかしこのむずかしい問題のまえでは、その人たちの努力は、中々ものになりませんでした。

ところがマルコーニが無線通信の実験に成功した18994年ごろから、同じような実験をやってのけた人が、あちこちにあらわれました。
こういった偶然の一致は、発明の歴史には時々みられることです。(*文注* この出来事自体を創造しているものが、人類を人類の精神や心を更には万物を刺激しているものかもしれない、…それは、未発見の何ものか、はたまたこの世界そのものかもしれない?…)
時代の要求と技術の進歩とがからみあって、いく人かの人に、それぞれ無関係に同じ発明を生みださせるのでしょう。
          なぜバラバラに同時期に同じ出来事、同じ思考がそれぞれの人に、微妙に異なりながら起こるのか?
そういう無線通信の先駆者たちのなかでは、マルコーニは一番先頭をきっていたとも、また一番すぐれていたともいいきれません。
ともかく、無線電信を発明したのはマルコーひとりだけではなかったことは、ハッキリしています。

代表的な無線通信の先駆者を二、三紹介しておきましょう。

まず、イギリスのオリバー・ロッジ(1851〜1940年)は、リバプール大学の物理学教授で、熱や電気、磁気などにすぐれた研究を残しましたが、晩年は心霊術というものにこって、死んだ人と話をかわすことができるなどと信じたりしました。          wikipediaより…"霊の世界"というのは一種の幻覚ですねと尋問されて、ロッジは首を横に振って、「この世こそ幻影の世界なのです。実在の世界は目に見えないところにのみ存在します。」と返答した…
彼はヘルツがみつけた電波にふかく興味をもち、これを使って通信することもはやくから研究しています。
コヒーラーを受信に使うことを初めて思いついたのはロッジですし、1894年の9月には、英国協会という集まりで、電波を使ってモールス符号を送る実験をやっています。

これは明らかにマルコーニよりさきです。
のち1897年に、同調法という方法を発明して特許をとりましたが、これがのちに、マルコーニと有名な特許争いをおこすことになります。

しかしその話はあとにまわしましょう。

一方、北のほうのロシアで、アレクサンドル・ステバノビッチ・ポポフ(1859〜1905年)という人が、やはり無線電信の研究をすすめていました。
この人はクロンシュタット軍港にある海軍の水軍学校の教官で、はじめは強力な発信機が手にはいらなかったので、雷から出る電波を利用してもっぱら受信機の改良につとめました。
この研究の結果、アンテナとアースを使うと、受信機の感度がすばらしく良くなることを発見し、1895年の4月に、セント・ペテルスブルクの物理化学協会に報告しています。
アンテナを使ったのはポポフが最初で、マルコーニはポポフの発見を自分の機械に取入れたのです。
やがてポポフは発信機も工夫して、無線電信の実験に成功し、1896年の7月に自分の実験を電気雑誌に発表していますし、あくる97年には5キロの距離をへだてて船から海岸へ通信を送ることができました。
 このようにポポフは、技術の面ではマルコーニにまさるとも劣らないところまで進んでいたのですが、おしいことに、ロシアの経済が無線電信を必要とするところまで進んでおらず、またロシア政府が新しい発明に理解がなかったこともあって、彼の発明はさっぱり世の中に受入れられませんでした。
はなばなしい成功をかさねたマルコーニと逆に、ポポフは失望のうちに人知れず世を去ったのです。

同じ頃、はるか南半球のニュージーランドでも、アーネスト・ラザフォード(1871〜1937年)という若い大学生が、せっせと無線電信の研究にはげんでいました。
彼はコヒーラーのことは全く知らず、全く別の原理を土台にした磁気検波器という受信機を1894年はじめに発明し、これを使って95年、はじめ20メートルの距離でモールス符号を送ることができました。
この年ラザフォードは、はるばるイギリスにわたって、ケンブリでシ大学にはいり物理学者J・J・トムソンの弟子になります。
彼はその後も無線電信の研究をすすめて、距離を1キロ近くまでのばしました。
そこで先生のトムソンは、ロンドン市の当局に、ラザフォードの研究を紹介し、
「彼の発明を成功させるために、実験の費用をだしてやってくれまいか」とたのみましたが、無線電信は実用になりそうもないからというので、あっさり断られました。

失望したラザフォードは、無線電信から手をひいて、トムソンの指導をうけて原子物理学の研究へ進みます。
こうしてやがて、原子科学の父として余りにも有名な、大物理学者アーネスト・ラザフォード卿が出現するのですが、彼がそのまま無線電信の道をつき進まなかったことは、私たち人類にとってまことに幸せなめぐりあわせでした。

こんなふうに、技術の面だけからいえば、マルコーニに負けないところまで進んでいた人は、何人かいます。
 
ロッジ

  
ボボフ

   
ラザフォード

けれども、そのあとも、たゆまず無線電信の発達につとめた熱意、また世の人にその価値を理解させ、ひろく利用させるためにはらった努力を考えれば、これはもうマルコーニに肩をならべられる人は一人もいないといえましょう。

そういう面までふくめて考えれば、マルコーニを無線電信の発明者とよんでも、間違いではありません。


   09 イギリスへわたる top

マルコーニが電波でモールス符号を送ることに成功し、通信距離が2キロ、3キロと伸びだしたころには、冷淡だった父もやっとこの仕事が有望なことに気がつきました。
彼はマルコーニの研究に積極的な関心をもち始め、進んで実験の費用もだしてくれるようになりました。
「もうそろそろ、無線電信の特許をとってもよいころだ。」
マルコーニは、父の手をとおして、まず故国イタリアに自分の発明の特許を出願しました。
無線電信は、有線電信や電話の使えない船の通信にとても役立つはずですから、海軍あたりがまっさきにとびついてくるだろうと、マルコーニは期待していました。
 ところがイタリア政府はマルコーニの申し出には全く冷淡で、特許さえ認めてくれませんでした。
当時のイタリア政府には、無線電信の価値について、さきを見通せる人物がいなかったようです。
がっかりしたマルコーニを、母かなぐさめていいました。
彼女は前にのべたように、イギリスの名門の出です。
「イタリアで駄目なら、イギリスヘゆけばいいわ。
イギリスは世界一の海運国だし、えらい科学者もたくさんいるから、無線電信の価値もよくわかってくれるでしょうよ。
それに私の親戚にも有力な人がいるから、きっと力になってくれると思うわ。
私と一緒に、イギリスへ渡りましょう。」
母はまずイギリスにいる知合いの政治家や実業家たちに手紙を書いて、息子の発明のことをくわしく知らせました。
そのおかげで、マルコーニがまだイギリスにいかないうちから、イギリスの政界や実業界では、無線電信のことがかなり評判になっていたのです。

1896年の2月、いよいよマルコーニは母と一緒に船でイギリスへわたりました。
無線電信の機械は、バラバラに分解し、ケースやつつみにいれて運びました。
ドーバーの港では税関の役人たちが、この大荷物を見てうさんくさそうに目を光らせました。
そのころ、無政府主義者たちが爆弾をロンドンにもちこんで、市街をこっぱみじんに吹き飛ばそうと計画しているというデマがとんでいて、税関では神経をとがらせていたのです。
マルコーニの荷物はひどくあやしまれて、あぶなく海の中にほうりこまれるところでした。
でも驚いたマルコーニが、外国なまりのない英語で必死になって説明したおかげで、なんとか無事税関を通り抜けることができました。
ロンドンでは、母の親戚のジェームソン・デービスが出むかえ、ウェストボーン公園の中にある静かな下宿屋へ案内してくれました。
ここでマルコーニがもってきた機械を組立て、訪問してくる人たちに公園で無線電信の実験をして見せたりしました。
いろいろな科学者や実業家がマルコーニの実験を見にやってきました。
マルコーニも母や親戚の紹介状をもって、ロンドンの政治家や実業家の間をまわり、無線電信の説明をしてまわりました。

マルコーニが会った科学者のなかに、ウィリアム・プリース(1834〜19913年)という人がおりました。

この人は郵政省の技師長をつとめ、電気や土木の大家としてすでに有名で、そのまえから無線電信の研究をしていました。

もっとも彼の無線電信は電波を使うのでなくて、磁気誘導という現象を利用するものでしたが、それでもすでに1.6キロの距離でモールス符号を送る実験に成功していました。

そういう人だけに、プリースはひとめ見ただけでマルコーニの方法のすばらしさを見ぬきました。
「マルコーニ君、あなたの無線電信は私のよりずっとすぐれている。
よろしい、私は今後自分の方法をすてて、あなたの無線電信を世に広めるお手伝いをしましょう。」

すでに62才の、名を知られた技師長が、たった22才の無名の青年にこう申し出たのです。
まことに立派な科学者らしい態度でした。

プリースはこの後いつもマルコーニの後ろ盾となり、彼の無線電信をイギリにに紹介するために力をつくしました。
この人の援助がなかったら、マルコーニの仕事はとてもあんなにすらすらとは成功しなかったでしょう。


イギリス郵政省技師長ブリース
彼も無線電信を研究していたが、
マルコーニの発明の良さを知り、以降、
マルコーニはイギリスで成功する。

1896年の6月2日、マルコーニはイギリスで無線電信の特許を出願し、まもなく認められました。
その内容は、火花発信機とコヒーラー受信機、それにアンテナとアースをそなえて、電波でモールス符号をやりとりする仕組でした。
これこそ、人類最初の無線電信の特許だったのです。
その一方で、マルコーニは次々と大規模な公開実験を繰返しました。
最初の実験はプリースの骨折りで、郵政省で行われました。
一組の送受信機が郵政省の屋根に、もう一組の送受信機が数百メートル離れたテームズ川の土手に備え付けられました。
政府の役人や、郵政省の技術者や、電気関係の実業家がずらりとならんで見まもるなかで、マルコーニは発信機のキーを叩きました。
そして回路を受信にきりかえますと、さっそく返事の電文がカタカタと送られてきました。
見ていた人は、思わず声をたてて驚きました。
無理もありません、無線電信の実験を見るのはこれが初めてですし、針金なしで電信が送れるなんて、できっこないと考えていた人が大部分だったのですから。

1896年の暮れには、陸軍省にたのまれて、サリスベリー平原で13キロの距離で実験し、大勢の将校たちをびっくりさせました。
あくる1897年の春には、ブリストル湾の両側で、14キロの距離をへだてて通信を交すすことができました。
この実験で無線電信は陸上でも水の上でも同じように伝わることがハッキリしました。

このような成功は、人々の注目をひきつけずにはいませんでした。
マルコーニの名は新聞にも時々のるようになりました。
抜目のない実業家たちのあいだには、無線電信の事業にのりだそうと企てる人もでてきました。
無線電信の実用化は、もう時間の問題でした。


   10 無線電信の会社ができる top

1897年の7月、マルコーニのイギリス滞在の世話をしてくれたジェームソン・デービスが中心となり、資本金十万ポンドで「無線電信信号会社」という会社がロンドンに生まれました。
これが世界で初めて、無線電信の事業を押し進めるために生まれた会社です。
マルコーニの特許は大部分この会社に買いあげられ、そのかわりにマルコーニは現金一万五千ポンドと、会社の株を60パーセント受取りました。
マルコーニはこの会社の技術部門の責任者として、無線装置の製造・設置や、新しい機械の開発・改良の指揮をとることになりました。
マルコーニは、自分で研究や実験をすすめるだけでなく、すぐれた科学者や技術者を何人もやといいれ、協力して無線電信の開発につとめました。
そのなかには、ジョン・アンブローズ・フレミング(1845〜1945年)とか、チャールズ・サミュエル・フランクリン(1879〜 )といった後世に名を残した人々もいます。
アビ・シダはマルコーニより25才も年上で、ずっとまえからロンドンのユニバーシティ・カレッジの教授をつとめた人で、彼が発見した電流・磁気・力の関係をあらわすフレミングの「右手の法則」「左手の法則」は、教科書でお馴染みのものです。
フレミングは技術顧問としてマルコーニの会社につとめ、ここで二極真空管を発明しました。
フランクリンは、ずっとあとでお話するとおり、短波通信の方面で開拓者の役割をはたしました。

このフレミングとかフランクリンとかいった人たちは、科学者や技術者としてはマルコーニよりも才能のすぐれた人々ですが、マルコーユは自分よりすぐれた人たちを煙たがったり妬んだりせず、彼らを指導して充分に才能を発揮させました。
マルコーニの人の使い方のうまさ、組織者・指導者としての能力のほどがうかがわれます。

このように多くの人々の協力で、マルコーニの無線事業はめざましい勢いで発展していきました。
まず手はじめの仕事は航行中の船と通信ができるように、イギリスの海岸の要所要所に無電局をつくることでした。
イギリス海峡にある保養地として有名なワイド島と、33キロヘだてたむこう岸の本土にあるボーンマスとに無電局が完成すると、無線電信信号会社は、このあいだでお金をとって電報をやりとりする商業通信のサービスを始めました。
その開通式は18997年の6月3日に行なわれました。
この式には、大西洋横断海底電線の建設に、技術面で生みの親ともいえる役割を果したケルビン卿が、一方の無電局にすわり、もう一方の無電局には、ケルビン卿の親友でこれまた大物理学者のジョージ・ストークスと、マルコーニの後援者ウィリアム・プリース郵政省技師長がならんで、お互いに祝いの言葉を電波にのせて交しました。

これが世界で初めての、商業無線電信でした。

その1898年の夏、アイルランドのキングズタウンで、毎年行われているヨット・レースが今年も開かれました。

「ほかの新聞社より一足さきにこのレースの結果を報道して、世の人をアッといわせたいものだ。」

ダブリン・エクスプレスという新聞がそんなことを考えて、ものは試しとマルコーニの会社に無電でニュースを送ってくれるようにたのみました。

ヨットが大好きなマルコーニは、自分のヨットに発信機を積込んで、ヨットの通り道に待ちかまえ、レースの模様を次々に電波で送りました。

海岸では受信機をもった助手が待ちうけていて、受取ったニュースを今度は普通の電信でダブリン・エクスプレスの編集局へ送りました。


1898年ごろのマルコーニと発信機(右)・受信機(左)

おかげでこの新聞はほかの新聞より一足さきにレースの様子を知らせることができ、人々をびっくりさせました。
「この成功のおかげで、無線電信の評判が一度に高まった、それまでで無線電信のことを知っていたのは、科学の専門家だけだったが、このレースのあとでは、町のおかみさんや子供まで、無線電信のことをうわさするようになった。」
とマルコーニ自身がいっています。

同じころワイド島のオズボーンの町には、ビクトリア女王が避暑のため滞在されていました。
女王は、空高くそびえる無電局のアンテナをごらんになって、「あれは何か」とそばの者におたずねになりました。
そしてわざわざマルコーニの会社に問いあわせて、無電のことを知り、深い興味をいだかれたようです。
ところが、たまたまその夏、皇太子(のちの国王エドワード七世)がワイド島の近くでヨット遊びをしているとき、ひざをけがし、そのまま船の上で医者の治療をうけなければならないはめになりました。
オズボーンに滞在中の女王は、母親として皇太子の怪我を大変心配され、たえず連絡がとれるように、マルコーニに頼んで、オズボーンと皇太子のヨットとのあいだに無電設備をつくってもらいました。
この設備のおかげで、一週間余りのあいだに、150回も通信がかわされ、女王は皇太子の怪我の様子を毎日手にとるように知ることができました。
皇太子は怪我が軽くなると、モールス符号の表をかりて、自分で発信機のキーを叩いて、女王に通信を送ったということです。
ビクトリア女王はのちに、わざわざマルコーニをまねいて、無電設備の働きを感謝しました。
あくる年になって、今度は無電は多くの人の命を救うすばらしい功績をあげました。

1898年から、イギリス海峡のサウスーフォアランド灯台とイーストーグ、ドウィン灯台船とが無電で繋がれ、たえず通信を交していたのですが、189999年の三月のある日、この灯台船はダッドウィンの海岸で、霧にまよって暗礁に乗り上げた汽船を発見し、すぐさまサウス・フォアランド灯台に無電で知らせたのです。
灯台からさっそく難破船救護所に知らせたので、まもなく救命艇が駆け付け、乗組員全部と、何千ポンドもの価値のある積み荷まで、そっくり助かりました。

これは無電が海難救助に役だった初めての例でした。
たびかさなる成功に、すっかり自信のついたマルコーニは、今度はイギリス海峡をこえて電波を送るという壮大な計画をすすめました。
彼はフランスにわたって、ブーローニュに近いウィミルーという小さな村に、無電局を建設しました。
1899年3月27日マルコーニはこの局と、イギリスのドーバーに近いサウス・フォアランド灯台の無電局とのあいだで、無線電信をこころみました。
結果は大成功でした。電波は40キロの海上を見事乗り越え、モールス符号をイギリスからフランスヘとはこんだのです。
世界じゅうの人が目をみはりました。
成功また成功、ひたすら進歩を続ける無線電信の威力をまざまざ見せつけられた世の人々は、「マルコーニこそ雷も思うままに操れる、電気の魔法つかいだ。」とうわさする始末。

25才になったばかりの青年マルコーニは、いまや世界でもっとも名を知られた人間の一人となりました。
しかしマルコーニはちっともおごりたかぶる様子はありませんでした。
この程度の成功で満足するほど、彼の望みは小さくはなかったのです。
「全世界の無線電信を独り占めにし、自分の手で支配するのだ!」
マルコーニの心のなかには、恐ろしいほど大きな野望ががっしり根をはっていたのでした。


   11 無電技術の発展 top

1900年に無線電信信号会社はマルコーニ無線電信会社と名をかえ、アメリカそのほかにできた子会社をも支配しながら、ますます無電界に独占的な地位をきずいていきました。
無電が航海にとても役立つことに気づいた船会社は、次々にマルコーニの会社と契約を結び、マルコーニの無電設備を主だった船に積込ませ、マルコーニが各地の海岸に設けた無電局と通信させるようにしました。
1900年の7月にはイギリス海軍と契約ができ127隻の軍艦に無電機械を設備し、また海軍専用の海岸無電局を6つつくることになりました。
こうして無電事業かますます発展し、世界各地でかわされる無線通信の量がグングン増えていくにつれて、混信の問題がだんだん深刻になってきました。

コヒーラーを使うマルコーニの受信機では、どんな波長の電波も差別なしに捕まえますので、同じくらいの強さの電波が一緒にとびこんでくると、それぞれのモールス符号は、めちゃくちゃに混じってしまって、何が何だかわからなくなります。
無電設備をもった船や海岸局の数がふえればふえるほど、こういう混信がおこるチャンスはいよいよ多くなります。

あるきまった電波だけを受信し、ほかの電波には感じないような、特別の仕掛がどうしても必要になってきました。

マルコーニはいろいろ研究した結果、とうとう「同調」という、まことにうまい方法を考えだしました。

これはいろいろな電波のなかから、必要な波長の電波だけを取り出し、ほかの波長の電波は一切締め出してしまう仕組です。

みなさんは、ラジオやテレビを受信するとき、波長のダイヤルやチャンネルのダイヤルを回して、それぞれ好みの放送局を選び出すでしょう。

あれはみな、この同調という方法を使って、その放送局が出す電波だけを捕まえるのです。


マルコーニの同調回路

これまで、受信機では、アンテナで電波を捕まえ、その電波によって針金のなかにできた振動電流をそのままコヒーラーに通したのですが、今度はアンテナとコヒーラーのあいだに、蓄電器とコイルをつないで作った同調回路というものを挟み、振動電流をいったんここに通してから、コヒーラーに送るようにしたのです。
そうしますと、振動電流がこの同調回路のなかを行ったり来たりしているあいだに、いわゆる共鳴がおこって、あるきまった震動数をもつ電流だけは強さが変りませんが、それと違った振動数をもつ電流は、みるみるおとろえて、消えてしまいます。
つまり振動電流は、同調回路を通りぬけるとき、あるきまった振動数のものだけが選び出され、無事に次のコヒーラーヘつたわりますが、それと違った振動数をもつ電流は、同調回路のなかでみんな消え、シャットアウトされてしまうのです。
そして、無事に同調回路を通りぬけられる振動電流の振動数は、同調回路のコイルと蓄電器の性質からきまります。
そして、蓄電器の大きさ(容量)をかえれば、通りぬけられる電流の振動数もかわります。
ですから蓄電器の容量をいろいろに変えることによって、必要な波長の電波だけを、次々と選び出すことができるわけです。
ラジオ受信機では、波長ダイヤルをまわすと、蓄電器の一部がまわって、その容量が大きくなったり小さくなったりする仕組になっています。
一方、同じ同調回路を発信機のほうにつけ加えると、発信する電波の波長を、きちんときまった長さにそろえることができます。
これもまた蓄電器の容量をかえて、発射電波の波長をいろいろに変えることができるのです。

この同調を使うと、電波を受付とるほうでは、混信がなくなるうえに、感度もずっとよくなります。
また発信する側でも波長をちがえれば、たくさんの通信を同時に送りだすことができます。
同調のおかげで無線電信はまえより確実でハッキリききとれるものとなり、またたくさんの通信を早く送れるようになりました。
マルコーニはこの同調の発明の特許を各国に出願し、イギリスでは1900年の4月26日に認められました。
その特許の番号が偶然にも7777番だったものですから、これをフォア・セブン(四つの七)とよんで、歴史上もっとも有名な特許の一つとなりました。
フランスでは同じ年の11月、アメリカでは1904年の6月に特許が認められました。
この発明はマルコーニの会社にとって、はかりしれない強力な武器となりました。
よそのどんな無線会社もこの同調の方法なしでは、到底マルコーニの無線設備にたちうちできません。
実際、それからしばらくのあいだ、少なくともイギリスとアメリカでは、マルコーニ無線電信会社は無電設備のほとんどを独り占めにし、無線事業に支配的な地位を確立することになります。
ただしこの特許には後日物語があります。
実は同調の方法は、1897年にイギリスのオリバー・ロッジが考えだして、すでに彼が特許をとっていたのです。(マルコーニのほうが、一層すすんだ実用的な形になってはいましたが。)
ロッジは、マルコーニの特許は自分の特許をおかすものだと主張し、裁判所にうったえ出ました。
同調の発明が有名なだけに、この特許裁判も歴史に残る名高いものとなりました。
裁判は11年もかかりましたが、結局1911年にロッジのほうが勝ちました。
仕方なしにマルコーニの会社は、さっそくロッジの特許権を買いとりましたので、事業にさしつかえはおこりませんでした。
同調の発明に引続いて、マルコーニは受信機の改良にも力をいれました。
彼はまえにお話したラザフォードが発明した磁気検波器を改良し、コヒーラーよりもずっと感度のよいものにしあげました。
マルコーニはこの新しい受信機を使って、1901年始め、ワイド島からコーンウォールのリサードまで、250キロの距離で通信を送ることができました。
マルコーニは1902年にこの磁気検波器の特許をとりました。

この装置では、モールス符号を電話機で音として聞き取ることはできますが、コヒーラーのようにテープに印字させることはできません。
しかし感度がよく働きが確かなので、それから10年ほどのあいだは、 コヒーラーにかわって船の受信機に使われました。


   12 電波、大西洋を渡る top

「無線電信が、有線電信に劣らない力をもっていることをハッキリさせるために、大西洋海底電線のむこうをはって、電波でヨーロッパとアメリカをつないでみせよう。」
たびかさなる遠距離通信の成功、新技術の開発にすっかり気をよくしたマルコーニは、いよいよ電波で大西洋を飛び越える大計画にとりかかりました。

ヨーロッパとアメリカのあいだは、3000キロも離れています。
今まで無線通信に成功したのは、300キロがせいぜいですから、通信距離を一度に10倍にものばそうというわけで、乱暴といってよいくらい、大胆な企てでした。

このためにマルコーニは、1900年の秋から、イギリスの南の端コーンウォールのポルジューというところに、最初の長距離用大送信所の建設を始めました。

電波を遠くまで届かせるためには、うんと高いアンテナをはりそれに強力な振動電流を送らなければなりません。
はじめ高さ7メートルほどの柱を20本、直径70メートルほどの円形にならべたアンテナを作りましたが、できあがってまもなく、嵐におそわれて根こそぎ倒されてしまいました。

そこで次には高さ40メートルほどの柱を4本たて、それに鉄の綱をはりそれから55本の銅線をたらして真中に集め、ちょうどピラミッドを逆さにしたような形にしました。

電力はそれまでのように電池を使っていたのでは間に合わないので、会社の顧問のフレミングに頼んで2000ボルト、25馬力の石油発電機をつくってもらいました。


ポルジュー無電局のアンテナ

一方、電波を受取る場所としては、カナダのニューファウンドランド島のケープ・コッドというところを選んで、受信設備を据え付けました。
このときはコヒーラーを使わずに、マルコーニが発明した磁気検波器を使い、電話の受話機を使ってモールス符号を聞き取るようにしました。
けれどもこの計画をきいた科学者たちは、大抵首をふって、きっとうまくいかないだろうといいました。
「地球は丸いからイギリスとニューファウンドランドのあいだで、水面がもりあがって互いに見通せなくなっている。
電波はまっすぐすすむ性質をもっているから、イギリスから出た電波はそのまま地球の外へ飛び出してしまって、影になっているアメリカ側へは届かないだろう。」

しかしマルコーニは、ダリフォーネの庭で実験したとき、電波が見事に築山の後に届いたのを覚えていました。
彼は今までの経験から、電波は地面や水面にそって曲がってすすむはずで、したがって地球の裏側にも届くに違いないと信じていました。
彼は大西洋横断の実験がかならず成功すると信じて、ちっとも疑わなかったのです。
ケープ・コッドの受信設備がととのうと、1901年の12月始め、マルコーニはジョージ・ケンプとP・W・パジェットの二人を助手につれて、みずからこの地にわたりました。
受信所は大西洋を見おろす絶壁の上にあって、年中激しい風がふきまくっていましたから、高いアンテナの柱を立てることができませんでした。
柱なしでどうやってアンテナを高く張れるでしょう?
マルコーニはそれにずいぶん苦労しました。
竹と絹で長さ3メートルもある六角形の凧をつくって、アンテナをつけて飛ばしてみましたが、風でこわれるのもあれば、綱が切れて海のほうへとんでいってしまうのもあり、中々うまくいきませんでした。
直径4メートルの水素気球を使ったこともありましたが、これも綱が切れて空高く舞い上がってしまいました。
こうして二週間近くのあいだ、失敗を重ねるばかりでした。

とうとう12月12日の朝になって、凧はアンテナをひっぱって120メートルも空高く上がりました。

11時半になると、マルコーニは、 受信機の前にすおり、電話の受話機を耳にあてて、同調装置のダイヤルをまわしながら、ジッと耳をすませました。

かねて打ち合せたとおり、イギリスのポルジュー送信所は、イギリス時間で毎日午後3時から6時まで、休みなしに電波を送りだしていました。
それは一番簡単なトントントン、つまりSのモールス符号でした。

時差の関係で、この信号はニューファウンドランドでは午前11時半から午後2時半まで聞えるはずでした。

そのころ、電波の波長を正確にはかる計器がまだ発明されていませんでしたので、受信側では大体の見当をつけて、同調装置を調節していかなければなりませんでした。


強風でどうしても高いアンテナが建てられないので、
とうとう凧を揚げて電線を垂らしてアンテナにした。

マルコーニは胸をおどらせながら、同調装置のダイヤルを回しては、イギリスからの電波を捕まえようとしました。
しかし受信機につないだ受話機からはなんの音も聞えません。
むなしく一時間がたちました。
12時30分ごろ、マルコーニの耳に、かすかにかすかにトントントンと音が聞えました。
彼は顔をキッとひきしめて耳をすませました。間違いありません。Sのモールス符号です。
「聞えたぞ! ポルジューの電波だ。」
さすがのマルコーニも顔を真赤にして叫びます。
あわててかけよった助手のケンプが、ひったくるように受話機を受取りました。
「ああ、聞える、聞える、モールス符号のSが!」
ついでパジェット、この人はジッと耳をすませていましたが、がっかりしたようにつぶやきました。
「わしにはなにも聞えんよ。」
パジェットは少し耳が遠かったのです。
あくる日、マルコーニたちはもう一度、ポルジューからの電波を捕まえることができました。
「確かに大西洋を渡ってきた電波だ。僕らの耳の聞き間違いではない。」
確信をもったマルコーニは、実験の成功を発表しました。
「電波、大西洋をわたる!」
12月14日、世界じゅうの新聞がこのニュースを大きく報道しました。


   13 電離層の発見 top

「電波を使えば、世界のどんなはずれでも通信を交すことができます。
もう何年かたてば、電波は実際に全世界をつないでいるでしょう。」
マルコーニは、新聞記者から感想をもとめられて、胸をはってこう答えました。
確かにこの実験の成功は、電波が世界の端から端までも届くことをハッキリさせ、無線電信が有線電信や電話に劣らないすばらしい力をもっていることを証明したのです。
世界の人々が、目をみはって驚きました。
無線電信の開拓者の一人オリバー・ロッジは、このニュースをきいてこうつぶやきました。
「人間の物質文明の歴史で、新しい時代がここから始った。」
しかし一方で、この実験が本当に成功したのかどうか、疑う人もけっして少なくはありませんでした。
むしろ一流の科学者や技術者のなかに、マルコーニの発表はあやしいと考えた人がたくさんいたのです。
たとえば、発明王エジソンは、「近くの電波がまぎれこんだか、さもなければ雷か何かの雑音を、モールス符号と聞き違えたのだろう。」
といいましたし、当時もっとも有名な物理学者の一人レーリー卿も、「電波が大西洋の水面にそってあれほど曲がるなんて、どう考えても不可能だ。」といいました。
しかし科学者たちのそうした疑いも、三ヵ月ほどあとにはあとかたもなくふっとばされてしまいました。
マルコーニは実験を終えたあと、いったんイギリスヘ引上げ、あくる年1902年の2月、汽船フィラデルフィア号に乗ってアメリカへ向けて出発しました。
このとき彼は船に受信設備をもちこんで、ポルジューから送られてくる電波をずっと受信し続け、テープにモールス符号を記録したのです。
3月1日にマルコーニはニューヨーク港につき、待ちかまえた新聞記者たちにテープを見せました。
記者たちは思わず驚きの声をあげました。
今度はハッキリとモールス符号が記録されていますから、前と違って文句のつけようがありません。

しかしマルコーニのほうも、キッネにつままれたような顔をしているのでした。

「実はこの船旅で電波を受信しているあいだ、私は大変不思議な発見をしたのです。
ポルジューからの電波は、昼間だと、1100キロ以上離れていればけっして受信できません。
ところが夜だと、3000キロ以上離れていても受信できるのです。
全く不思議なことですが、私にはさっぱりわけがわかりません。」
マルコーニはそう打明け話をしてから、「去年のケープ・コッドでの実験も、もし夜だったなら、ずっと楽にハッキリ聞き取れたことでしょう。」
とつけ加えました。

科学者たちはこのマルコーニの発表に、ますます首をひねりました。
いったい電波はどんな具合に大西洋を飛び越えるのでしょう?
たくさんの科学者が、このなぞを解こうと、研究をすすめました。
まず、レーリー卿、アンリ・ポアンカレ、ニコルソン、ラブなどといった一流の物理学者がした理論的な研究から、電波は水面にそって曲がったのではないということをハッキリさせました。
電波はまっすぐ外の空間へ飛び出してしまって、大西洋の向こう側には届かないはずだという科学者たちの予言は、けっして間違っていなかったのです。

してみれば、電波が大西洋をわたるとき、それと全く違った道筋を通ったのに違いありません。
イギリスの物理学者オリバー・ヘビーサイド(1850〜1925年)と、アメリカのアーサー・ケネリー(1861〜1939年)は、別の角度からこの問題に取組みました。

そしてはやくもその1902年に、大気の上のほうに電波を反射する層があってマルコーニの電波は、いったん上空でこの層にぶつかって跳ね返され、大西洋をわたってカナダヘ届いたのだろうといいました。

その後1925年に、イギリスのエドワード・アップルトン(1892〜 )たちがこの予言を実験からハッキリと証拠だて、大気の上のほうに電離層という電波を反射する層のあることを明らかにしました。

この電離層はE層とかF層とか、何段にも重なった形になっていて、夜と昼で、また季節により、いろいろと変化します。

夜になると低い電離層が消えて高い電離層で電波を反射するようになるので、電波はそれだけ遠くまで伝わるのです。

この電離層は、いまでも地球の科学のなかでもっとも重要なテーマの一つとなっており、また通信の面には重大な影響があるため、さかんに研究がすすめられています。


電離層に電波が反射されるようす

こんなわけでマルコーニの大西洋横断無線電信の実験は、思いがけないことに電離層という科学・技術の重要なテーマを発見するきっかけとなったのでした。


   14 無線電信への反抗 top

この大西洋横断の実験で、マルコーニ無線電信会社は四万ポンドという大変な費用を使いました。
しかもこれはただの実験ですから、費用は使いっぱなしで、なんの利益も生みだしませんでした。
それだけ会社にとっては損失となったわげです。
マルコーニはこれだけの犠牲をはらって、ともかく電波が世界の隅々まで送れることを証明しました。
この実験は世界の人々に無線電信の力のほどを見せつけた点では、すばらしい成功をおさめましたが、だからといって、もうこれで無電事業が実用になったというわけではありません。
無電の設備はまだ複雑でデリケートで扱いにくいうえに、たえず調節しなければなりませんし、電波の伝わり方も天候とか電離層の状態でひどくかわってしまいます。
ですから機械が故障したり電波が途絶えてしまったりするのはしょっちゅうで、有線電信や電話のように、いつでも必要なときに通信できるというわけにいきません。
この通信の安定さ、確実さがたりない点が、無線電信のもっとも大きな欠点で、これがなんとか解決できないかぎり、有線電信や電話には到底たちうちできません。
ですから無線電信が本当に実用化するのは、こういう欠点がかなり改められてからのことで、まだまだ先の話でした。
実際マルコーニの会社がなんとか利益をあげ、黒字に移ることができたのは、それから十年以上もたってからのことだったのです。
けれども有線電信の事業から利益をえている人たちは、はやくも無線電信が将来恐ろしい敵になりはしないかとおそれて、マルコーニの仕事を邪魔し始めました。
大西洋横断無電実験に成功したマルコーニは、今度は、ニューファウンドランド島のスピア岬に永久的な無電局をつくって、ヨーロッパとカナダを結ぶ本格的な無線電信をはじめようとしました。
ところがこのニューファウンドランド島は、アメリカとヨーロッパを綱ぐ大西洋横断海底電線の出発点でもありました。

海底電線の持ち主のアンダロ・アメリカン・ケーブル会社は、マルコーニの計画をききつけると、さっそく手厳しい申しいれをしました。
「わが社はイギリス政府と契約を結んで、ニューファウンドランド島に電信基地をつくる権利を一切独占している。
ここによその社の電信設備をつくることは許さないから、計画を中止していただきたい。」
ケーブル会社の人々は、もしもマルコーニの無線電信が成功したら、大金をかけて作った海底電線がまるきり役にたたなくなるのではないかとおそれて、マルコーニの事業を邪魔しようとしたのです。

マルコーニは仕方なく、カナダ政府と交渉して、ケープ・ブレトン島のテーブルヘッドというところに、無電局をたてる許可をもらいました。
この局にはマルコーニが発明した円盤放電機という新型の発信機が取付けられました。
この無電局は1902年の末に完成し、12月21日、イギリス国王とイタリア国王にあてた二通の電報が、初めて大西洋を東向きにわたってイギリスのポルジュー無電局へ届きました。
同じころ、アメリカのマサチューセッツ州サウス・ウェルフリートでも無電局の建設が進み、1903年1月18日に開通式が行なわれて、ルーズベルト大統領が挨拶の電報をイギリス国王に送りました。
マルコーニの事業に反対したのは海底電線の会社だけではありません。
イギリスの郵政大臣オースチン・チャンバレンも、「無線電信が成功したら、有線電信をもとにしている郵政省の電報事業はまるで駄目になって、失業者がたくさん出るだろう」と心配しました。
そこでチャンバレンは無電の発達を邪魔する手段として、無線電信で送られてきた電報は、そのまま直接にイギリスの電信線に連絡しないことにしました。
海底電線のほうは電信線と直接連絡していたのです。
そのため外国へ電報を送るとなると、無電のほうが電信との連絡にひまどって、かえって有線電信より遅くなる始末でした。
そうなると海底電線と競争するには、無電の電報料を思いきり安くするほかありません。
それでは利益がでるどころではありません。
こんなふうにいろいろな面から妨害をうけるので、マルコーニもさしあたり、すでに出来上がっている電信事業とまともに競争することはやめにしました。

「そのかわり、海の上の通信に全力をそそごう。
船と船との通信、船と海岸との通信なら、針金なしでやれる無線電信の一人舞台だ。
世界の七つの海で、通信をすべて独り占めにしよう。」
確かに無電のない時代には、船はいったん大洋に出ると、もう外の世界とは全く切離されてしまったのです。
陸地でどんな出来事がおこったか何もわかりませんし、また陸地のほうでも、船がいまどの辺りを進んでいるのか、浮いているのか沈んでしまったのかさえ、まるきり知ることができなかったのです。
ことに船が嵐にでもあって遭難したら、どこへも救いを求めることもできず、助かる見込みはほとんどありませんでした。
もし電波で船同士や、船と陸地のあいだを綱ぐことができたら、そういう困難は一度にへり、船旅はずっと安全な、確実なものになるに違いありません。
無線電信は海の上でこそ、もっとも大きな力を発揮できるのです。
こう考えたマルコーニは、船舶無線の事業を強力に押し進めることにしました。
彼は、全世界にまたがるイギリス領の海岸に、次々と陸上無電局を設げるかたわら、船会社と契約を結んで、船に無電装置を積込ませるよう努力しました。

彼は自分の会社で作った無電装置を売らずに貸しつけ、年々使用料をとるという方針をかたく守りました。
そのほうが船会社のほうでも、一度に高い代金をはらわないでも機械を据え付けられるし、マルコーニ会社のほうも長い年月にわたって着実に収入をあげられる、と考えたのです。
マルコーニのねらいは見事に実を結びました。1901年には、世界で一番大きな船の保険会社、イギリスのロイド海上保険会社がマルコーニの会社と契約を結び、この会社が保険する船はすべてマルコーニの無電設備を積込まなければならないことになりました。
1903年にはイギリス海軍とのあいだに契約が結ばれ、イギリスの軍艦の三分の二にマルコーニの設備をつけることになりました。


   15 無電事業の競争者たち top

マルコーニ無線電信会社はこうして船の通信の面で着々と手をのばし、海運国イギリスの後ろ盾もあって、しだいに世界の無電事業を独り占めする勢力へとのしあがっていきました。
ところがマルコーニの会社より一足遅れて、ドイツにテレフンケンという強力な無線会社ができ、これまた船舶無線の事業にどんどん手をひろげ始めました。
そして第一次世界大戦のまえに、イギリスとドイツが互いにしのぎをけずって勢力争いをしたのと同じように、英・マルコーニ会社と独・テレフンケン会社は、世界の無電界を真っ二つに分け、互いに食うか食われるかの激しい競争を続けたのです。

ドイツのテレフンケン会社のおいたちを簡単にご紹介しましょう。

ドイツは電波の発見者ヘルツを生んだ国だけあって、イギリスやイタリアにおとらず、はやくから無電の研究が進んでいました。

代表的な研究者の一人は、テレビのブラウン管の発明者として有名なカール・フェルジナント・ブラウン(1850〜1918年)で、ロッジやマルコーニと同じ頃から無線電信の実験をすすめ、ロッジと無関係に同調法の原理を考えついていました。

一方、ベルリン大学教授のアドルフ・スラビー(1849〜1913年)も同じころ無線の研究を続けており、1897年にはわざわざイギリスへ出かけてマルコーニのブリストル湾での実験を見学しました。

この見学からスラビーはいろいろなことを学んで帰り、助手のゲオルク・フォン・アルコ(1869〜1940年)と協力してさらに改良をすすめて、独自の無線電信を開発しました。
やがて、ブラウンの発明を実用化したドイツの電気会社ジーメンス・ハルスケ会社と、スラビー・アルコの無電設備の製造をはじめたAEG(アエゲ=一般電気会社)とのあいだに特許争いがおこり、裁判となりました。

ところがドイツ皇帝ウィルヘルム二世がこの争いを仲裁し、皇帝の仲立ちで、二つの会社が協力してテレフンケン会社という新しい無縁電信会社を作りました。

1903年のことです。

ドイツ皇帝はイギリスが後押しするマルコーニの会社に対抗させるため、自分が世話してテレフンケン会社をつくらせたのでした。


昔のテレビのブラウン管の発明者
ブラウン

テレフンケン会社はドイツ政府の後ろ盾で、ドイツ海軍に無電設備を備え付け、またアフリカや南太平洋にあったドイツ植民地に無電局を建設しました。
この会社のつくる無電設備は、マルコーニの方式とは違ったもので、質がすぐれているので有名でした。
またマルコーニが設備を賃貸しするだけで、けっして売らなかったのに対して、テレフンケンでは、希望があれば売り渡しもしました。
こんなわけで、テレフンケン会社の勢力はみるみるのび、マルコーニ会社の地位を脅かしかねない勢いとなりました。
一方アメリカでも、次の章でのべるド・フォレストその他の人々が無線電信の会社を創って、マルコーニ会社より安い値段で機械を賃貸ししたり、売ったりするようになりました。
このように、強力な競争相手があらわれたのでは、マルコーニの会社もいい気になってはいられません。
仕方なしにマルコーニ会社も、設備を賃貸しするだけではなく、売り渡すことも始めました。
そればかりではありません。
マルコーニ会社は、自分の独占的な地位を守るために、思いきった方針を打ち出しました。
「マルコーニ会社が作った世界各地の無電局は、マルコーニ会社製でない無電設備をつんだ船から通信を送られても、一切返事をしない。」
つまりテレフンケンやド・フォレストの機械をつんでいる船とは、通信を断るというのです。
世界じゅうにある海岸無電局は、大抵マルコーニの勢力下にありますから、こうなるとマルコーニ会社製でない無電設備をつんでいたのでは、なんの役にもたちません。
確かにこれは、テレフンケンやド・フォレストの会社を無電界から締め出すには、ききめのある方法でした。
テレフンケンはもちろん困りました。
ドイツ政府は、19903年にベルリンで無電の国際会議を開き、「世界の無電局は、発信者が誰であろうと、通信をやりとりする義務をもつ」ときめようではないか、と提案しました。
もちろんイギリス政府とマルコーニ無線電信会社は、この提案をはねつけました。

しかし電波は人類全体のものです。
ある会社だけが独り占めすることは許されません。
ある電波は聞くがある電波は受けつけないというのでは、たとえば船の遭難のときなど、無電はなんの役にもたたないでしょう。
そうなれば人道上の問題です。
マルコーニの会社には、非難がゴーゴーと集まりました。
「個人の神聖な権利を守るためには、これもやむをえない手段だ。」
マルコーニの会社はそう主張して、世間の非難に耳もかさず、五年間も頑張りました。
しかし1908年になって、マルコーニ会社はとうとう世論に対抗しきれず、方針をきりかえて、相手が誰であろうとすべて電波を受取り、返事をするということにしました。
ただしその裏には、このためおこる損害は向こう三年間、イギリス政府が補償するという約束がついていました。
あきれるほど、抜目のないやり方です。
世界の無線事業を独占しようというマルコーニの会社の強引なかなりあくどいやり方は、その後もずっと続きました。
そして年じゅういろんなやっかいな争いを引き起しました。
そのため1907年には、マルコーニがイギリスにわたって以来ずっと親切に彼の事業を後援してきた、あの郵政省技師長ウィリアム・プリースまでがマルコーニ会社のやり方に愛想をつかし、「こんなに年じゅうどこともゴタゴタをおこす、経営内容の悪い会社は、見たことがない。」と絶縁状を叩きつけたほどです。
19913年にはイギリスで、二、三の大臣とのあいだに贈賄事件を引き起しています。
 (これをマルコーニ・スキャンダルといい、裁判の結果は無罪になりましたが、大臣たちは道義的責任をおって辞職しました。)
ただしこういった会社の行動を、すべてマルコーニの責任だというわけにはいきません。
マルコーニはこの会社の代表者でなく、技術面を受持つだけで、経営には余りタッチしていませんでした。
事実彼は経営のことに余り関心がなく、会社のしていることの意味が充分わかっていなかったようです。


   16 SOSの威力 top

プリースがののしったように、マルコーニ無線電信会社は年中ゴタゴタをおこしているだけでなく、「経営内容の悪い」赤字続きの会社でした。
各地の海岸に無電局をつくる費用だけでも、大変なものでしたが、といって無電局をたくさんつくらなくて汽船に無電設備をつんでもたいして効果がなく、したがって船も無電を使ってくれないという結果になります。
実際、船主たちはまだまだ無電を一種の贅沢品と考え、小さい船にまで高い金をだして無電設備を取付けるほど、必要を感じなかったのです。
そんなわけで、マルコーニの会社は設備の賃貸料も通話料もろくにはいらず、年々赤字ばかりがつもりつもっていく有様でした。
しかし1909年ごろから、大きな船の沈没事件が相次いでおこり、乗っていた人の命を救うために、無線電信がすばらしい役目をはたしました。
これらの劇的な事件は、無電の力のほどを世界の人々にハッキリと見せつける結果となり、無線電信の事業は、1910年ごろを境として、急に大きく発展することになります。
さて、1906年に第一回国際無線電信会議が開かれ、世界共通の遭難符号としてSOSを使うことがきまりました。
SOSとは、「われらの命を救え」(save our souls セーブ・アワ・ソールズ)とか、「わが船を救え」(save our ship セーブ・アワ・シップ)などの頭文字をとったものだと説明する人もありますが、実はこの字はトントントン・ツーツーツー・トントントン( - - - ― ― ― - - - )という大変わかりやすい簡単なモールス符号になるので、採用されただけのことです。
それまでは、各国でまちまちな遭難符号を使い、マルコーニ会社では、イギリスの鉄道で使っていた遭難信号CQDをそのまま利用していました。
1909年1月23日の夜明けごろのことです。
イギリスの豪華船レパブリック号(15400トン)は460人のお客をのせ、ヨーロッパめざしてニューヨーク港を出発しました。
ところが、ニューヨーク港を出たばかりのサンデーフック岬沖で、濃い霧のためイタリア船フロリダ号と衝突し、両方ともひどくこわれました。
レパブリック号はさっそく遭難信号を発信しました。
近くにあるナンタケット島の無電局はこの電波を捕まえると、さっそく「レパブリック号を救え!」と休みなしに電波を発射し、遭難位置をくわしく知らせました。
近くを通っていた数隻の船が、無電をきいてさっそく駆け付けました。
そのおかげで、レパブリック号はまもなく沈没しましたが、両方の船に乗っていた1650人は、衝突のショックで死んだ6人のほかは、そっくり助けだされたのです。
これは、無線で結ばれた国際的協力が、船の遭難を救った初めての例でした。
この事件は、船につんだ無電設備が、非常の場合にどれほど威力を発揮するかをまざまざと証明してみせました。
その少しあとで、ロンドンで有名な殺人事件かおこりました。
クリッペン博士という人が妻を殺し、秘書の若い女性と一緒に姿をくらましたのです。
クリッペン博士はロビンソンと名乗り、秘書は男装してその息子ということにして、二人でモントローズ号という船に乗込み、カナダへ渡ろうとしました。
ところが航海の途中で、船長がこの二人をあやしく思い、無電でロンドン警視庁に知らせました。
そこで警視庁から腕ききの刑事が、船足のはやいローレンチック号に乗って、あとから追いかけました。
そして大西洋上でモントローズ号に追いつき追いぬいて、一足先にカナダの港に着きました。
なにも知らない二人の犯人は汽船から波止場に降りたところを、待ちかまえた刑事にあっさり手錠をかけられてしまったのです。
二人の犯人は自分が追いかけられていようとは、夢にも気がつきませんでした。
ところが無電の報告で、二人がモントローズ号に乗っていることは、新聞に大きく報道されていました。
そしてあとから追いかけたローレンチック号には新聞記者が乗込み、追跡の様子をずっと無電でロンドンに送りました。
その記事が毎日のように新聞をにぎわし、イギリスの国民こぞって二隻の船の追いかけごっこを手にあせにぎってみつめていたのです。
この劇的な事件は、レパブリック号の遭難にもまして、無電の威力を大衆にくっきり印象づけました。

それから3年たった1921年には、いまなお世界最大の海難悲劇と語りつたえられる、タイタニック号の沈没事件がおこりました。

この船は4万6300トンという当時世界で一番大きく一番新しい豪華船で、1921年の4月4日、二千人余りのお客をのせ、ニューヨークへ向けてイギリスのサザンプトン港を出発しました。

それはタイタニック号の初めての航海でした。
ところが4月14日のま夜中、この船は霧のためニューファウンドランド島沖で大氷山と衝突し、三時間とたたないうちに海中に沈んでしまったのです。

タイタニック号に乗りくんでいた二人の無線通信士は、キーも折れんばかりにSOS信号を叩き続け、そのまま船と一緒に沈みました。

無電をききつけたカルパシア号は、全速力で救助に駆け付けましたが、現場から90キロも離れていたので、現場についたのは船が沈んで一時間もたってからでした。


タイタニック号の沈没は、船に無電装置が不可欠であることを、
世に知らせることになった。

救命艇に乗っていた人々、木ぎれにすがって波間にただよう人々、合計712人が助けだされましたが、残り1512人は冬の海のもくずと消えたのでした。
この事件は世界の人々をふるえあがらせました。

同時に無電の働きも人々を強く感動させました。
確かに、タイタニック号がSOS信号を発信しなかったら、あの七百人余りの命も、救われなかったことでしょう。
とはいえあとで調べたところによると、その時カルパシア号よりずっと近い現場から40キロほどのところを、一隻の貨物船が通っていたのです。
しかし、残念ながらこの船は無電設備をつんでいませんでした。
また30キロ以内のところを、カリフォルニア号という汽船が通っていましたが、その無線通信土はぐっすり寝込んでいました。
もしこのカリフォルニア号がSOSを受信してそのまま現場にまっすぐ向かっていたら、もっともっと多くの人が助かったに違いありません。
これらの出来事で、世界の人々の無電を見る目が変りました。
もう無電は船にとって贅沢品でなく絶対必要な設備だ、誰もがそう考えるようになりました。
1910年から12年にかけ、イギリそアメリス、そのほか主な海運国は、「一定の大きさ以上の船は、すべて無電設備を備え付けなければならない」という法律を含めました。
また世界の船や無電局はあるきまった時間ごとに送信をやめて、SOS信号があるかないかジッと耳をすませることになりました。
こうして世界の海上無線は、1910年ごろを境目に急激な成長をとげます。
マルコーニの会社もそのほかの無線会社も、当然その波に乗って事業が大きく発展します。
とりわけマルコーニ会社では、1910年に腕のよい実業家ゴッドフリー・アイザックが総支配人となってからは、彼の指導のよさもあって、会社の経営はめざましい立直りをみせました。
この頃を境にマルコーニの会社は赤字から黒字にかわり、みるみる大きく肥えふとっていったのです。


   17 ノーベル賞を受ける top

こうしてマルコーニ無線電信会社は、開拓者としてのいろいろな苦難をたえしのびながら、やっとどうやら繁栄の道にたどりついたわけですが、マルコーニその人は、会社の経営に余りたずさわらず、もっぱら技術の開発に力を注いできました。

しかしマルコーニは、大西洋横断無線実験に成功した頃からのち、余り重要な発明はしていません。
彼の名前でとった特許としては、1905年の水平指向性アンテナ、1912年の時間ぎめ円盤送信装置そのほかがありますが、どちらも取りたてていうほどのものではありません。
もっとも1902年あたりからのちは、 マルコーニの主な仕事といったら、自分で研究したり発明したりするよりも、多くのすぐれた科学者や技術者をやとって、研究をさせることでした。
事実、部下の指導とか統制の面では、彼はすぐれた腕をもっていたようです。
しかしそれにしても、マルコーニの指導のもとでは、歴史に残る重要な発明は一つも生まれませんでした。

それはなぜでしょうか?

一番大きい原因は、マルコーニが自分の発明した無線電信の方式をさらに改良していくことだけに力を注ぎ、それと全く質の違った新しいやり方を生みだすことに、関心を向けなかったからです。

なんといてもマルコーニの会社は、無線事業では世界のトップをきり独占的な地位をほこっていましたから、マルコーニは、何か新しいものを作り出すよりも、今まであるものをいっそう発展させ、あとから追いかけてくる競争者たちを引き離しさえすればよいと考えたのです。
ですから彼は部下の人たちが、自分の方式と違った新しい発明に乗り出すのを嫌いました。
その一番よい例は、無線電話です。
無線電信が成功すると、もう一段進んで、電波で音や声を送ろうと研究に乗り出した人がいく人もいました。
そのいきさつは次の章でお話しますが、マルコーニは電波で声を送ることはむずかしいし、船との通信にはモールス符号だけで充分だと考え、部下にも無線電話の研究をさせませんでした。
しかしその後の電波の技術は、無線電話の改良が糸口となって大きく発展していったのでした。
つまり声を電波にのせて送るために真空管が生まれ、新しい回路が工夫され、やがてラジオ放送、それからテレビというふうに発展していったのです。

無線電話の研究を禁止したマルコーニは、したがってこの方向の発展には、ほとんどなんの貢献もしませんでした。
それどころか、当時マルコーニが無線技術界の最高指導者だったことを考えれば、無線電信の独占にあぐらをかいた彼の保守的な態度は、その後のラジオの発達をかなり遅らせる結果になったと非難する人もあります。

それはともかくとして、1905年にマルコーニは、フェルジナンド・ブラウンとならんでノーベル物理学賞を受けました。
マルコーニ会社を代表する彼と、競争相手のテレフンケン会社の指導者ブラウンとが、仲良く肩をならべてノーベル賞をもらったのは、愉快な話です。

こうして、無線電信の重要さが科学の面からも公式に認められ、褒めたたえられたのでした。
すぐれた科学者ブラウンは当然のこととしても、ただの発明家にすぎないマルコーニが、ノーベル賞をもらったのは前例のないことでしたが、彼の功績を考えればそれも当り前のことといえましょう。


   18 短波通信の開発 top

1914年、ヨーロッパに第一次世界大戦がはじまり、あくる年にはイタリアも連合国の側にたって戦いに加わりました。 愛国心にもえるマルコーニは、専門の無線電信でいくらかでも国のお役にたちたいと考えました。
今までの無電は、戦場の通信に大変役立ちますが、電波を四方八方に送りだしますので、盗み聞きするのは簡単ですし、敵の電波で妨害をうけやすいのです。

マルコーニは、敵に盗み聞きされないような、新しい無電の方法を実用化したいと思いました。

それには、波長の短い電波、つまり短波を使うのが一番です。
短波はヘルツの実験でも証明されたように、光線みたいにまっすぐ進みますし、金属板を使って反射させたり一点に集めたりすることもできます。

マルコーニは、イタリアで自分の研究をすすめる一方、イギリスにいる研究所の技師チャールズ・フランクリンに命じて、短波を使った通信の技術を研究させました。

若いフランクリンは、1916年からこの研究を始め、はやくもあくる年には、ロンドンとバーミンガムのあいだで、短波通信の実験に成功しました。
それには火花発信機の後に、針金をくんで作った放物面形の反射鏡をおき、これで電波を細いすじに集めて、空に向けて発射しました。
受信側では、同じような針金の反射鏡を空に向けて、電離層から反射してきた電波を焦点に集め、ここに受信機をおいて、モールス符号を取り出しました。

四方八方に電波をちらす長波にくらべて、短波では一本線に集中して進みますし、そのうえ長波よりも高い電離層で反射されるためエネルギーの無駄がなく、長波のときの数千分の一の電力で通信を送ることができました。


マルコーニの会社で短波無電の
開発も行ったフランクリン

ロンドンからバーミンガムまで、距離は180キロもありましたが、フランクリンは波長3メートルから15メートルの短波を使って、一馬力以下の電力で見事通信できたのです。
もちろんこの通信は、電波の通り道にいないかぎり、盗み聞きすることはできませんでした。
この実験で短波がすばらしい力をもつことはハッキリわかりましたが、研究はそれ以上ほとんど進まず、大戦には間に合いませんでした。
というのは、まだ真空管が充分実用化されていなかったので、昔ながらの火花発信機を使うほかなかったからです。
火花発信機では強力な短波を作り出すことができなかったのです。

大戦中マルコーニは政治の面でも活躍しました。
彼は上院議員にえらばれ、1917年には戦時使節としてアメリカを訪問しました。
大戦が終おったあくる年には、パリの講和会議で、イタリアの全権委員として、オーストリアやブルガリアとのあいだの講和条約に署名しました。
大戦が終わるとフランクリンは、今度は三極真空管を使い反射鏡も改良して、ずっと強力な短波を作り出しました。
一方マルコーニは1919年に、あるオーストリアの貴族がもっていたエレットラ号という大型ヨットを買いとり、これを改造して海にうかぶ実験室として使うことにしました。
エレットラ号は、長さ70メートルもある立派な帆船で、マルコーニはこれに何ヵ月間も住める快適な設備をととのえ、電波実験用の装置もたっぷり備え付けました。
マルコーニはその後15年にわたって、毎年のようにこの船で大洋に乗り出し、電波を受けたり発射したりして、いろいろな実験を繰返しました。
彼の短波の研究は、主にこの船の上ですすめられたのです。
マルコーニとフランクリンの努力のおかげで、1923年春にはイギリスのポルジューから出た波長97メートルの短波が電離層に反射して、4000キロも離れた西アフリカのダカール沖、サンビセンテ島にいたエレットラ号まで届きました。
このとき発信局の電力は、わずか16馬力でした。
あくる年の5月には、ポルジューから出た短波は、オーストラリアのシドニーや、南アメリカのブェノスアイレス、リオデジャネイロまで届きました。
その10月には、波長32メートルの短波を使い、ポルジューとブエノスアイレス、ニューヨーク、モントリオール、シドニーのあいだで、昼間も自由に通信を続けることができました。
このときの電力はたった12馬力でしたが、もしも長波でこれと同じ通信をしたら、その一万倍以上の電力が必要だったろうといわれます。
この成功で短波を使った長距離通信は、費用の点でも確実さの点でも、海底電線を使う電信よりずっとすぐれていることが、ハッキリ証明されました。
イギリス政府は、マルコーニの一連の実験が着々成功をおさめるのをみると、はやくも1924年6月にマルコーニ無線電信会社と契約を結び、イギリス本土とカナダ、南アメリカ、インド、オーストラリアなどを結ぶ短波無電絅を建設させることにしました。
もちろんイギリスはすでに本土とこれら海外植民地を結ぶ海底電信線を建設しており、これはイギリス海底電信会社が経営していました。
有線と無線のあいだで無駄な競争がおこるのをおそれたイギリス政府は、1928年に強制的にこの二つの会社を合併し、ケーブル・アンド・ワイヤレス会社を創りました。
この会社はのち国有化されて、イギリス国際電信電話公社となりました。
ついでに申しますと、アメリカにあったマルコーニの子会社も、第一次世界大戦のあいだは戦争上の必要からアメリカ政府の支配下にはいり、戦後1920年に、アメリカの主な電波会社が合同して作ったRCA(ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ)に吸収されました。
こうしてマルコーニの名がついた会社は、それぞれ歴史に残る成果を残しながら、無電界から次々に姿を消していったのです。


   19  栄光の日 top

マルコーニは、1909年のノーベル物理学賞のほか、無線電信開拓の功績をたたえられて、世界各国からかぞえきれないほどの栄誉を授けられました。
本国イタリアはもちろん、イギリス、アメリカ、その他ヨーロッパ各国から一流の賞やメダルをうけましたし、イギリス、ロシア、スペインなどからも勲章をもらいました。
1933年の11月には、世界旅行のついでに日本にも立ち寄って天皇にお目にかかり、旭日大綬章という名誉ある勲章を授けられました。

イタリアでは、1922年にムソリーニのひきいるファシスト党が政権を握りました。
マルコーニは、政治にでしゃばる人ではありませんでしたが、ファシスト党に対しては別に反対しませんでした。
生まれや考え方からいっても、ファシストのいき方はマルコーニに受入れやすいものだったようです。

そのうえ、マルコーニの二度めの妻、マリア・クリスチナは、伯爵の家柄の出で、熱烈なムソリーニの支持者でした。
ムソリーニのはからいで、マルコーニは1929年、侯爵の位を授けられました。


晩年のマルコーニ

あくる年には、ファシスト大評議会の議員となり、さらにイタリア王立科学アカデミーの総裁にえらばれ、イタリア科学界の最高指導者の地位にのぼりました。
1931年12月12日、それはマルコーニがニューファウンドランドで、大西洋のむこうポルジューから送られてきた電波を、初めて捕まえたあの日から、ちょうど30年めでした。
すでに世界の主だった国々では、放送局がつくられ、ラジオ放送の電波が世界じゅうをとびまわって、人々をたのしませていました。
この30年めの記念日を機会に、世界じゅうのラジオ局が一つに手をつないで、国際的なラジオのお祭りがもよおされました。
四つの大陸にまたがる、十四ヵ国がこのお祭りに参加し、無電網を一つに結んで、同じ放送を世界じゅうに同時に送りだしたのです。
日本ももちろん仲間に加わっていました。

五十七才になったマルコーニは、この日、ロンドンのBBC放送の放送室から、世界の人々にラジオを通じて挨拶を送りました。
「いまからちょうど三十年まえ、私はニューファウンドランドの丘の上、バラックの一部屋の中で、電話の受話機を耳にあてがいながら、ポルジューから送られてくるはずのS符号を、いまかいまかとまちわびていました。
三千キロもある大西洋のむこうから本当に電波が届くものかどうか、私は全く不安でいっぱいでした。
しかし運よく、トントントンと響くモールス符号を、かすかながらなんとか耳に聞き取ることができたのです。
それから三十年、電波はこうも見事に成長して、海をこえ大陸をまたぎ、地球をグルリと包み込むほどになりました。
この三十年の歩みを振り返ってみますと、全く夢のような気持ちで胸がいっぱいになります。
三十年まえ、私と一緒にあの音をきいた助手のケンプ君が、あのときと同じに、いま私のそばに立っております。
今日のお祭りの記念といたしまして、ケンプ君に、あの日、私たちがきいたS符号をキーで叩いてもらい、皆様の耳にお伝えしたいとぞんじます。
ぜひお聞きくださるようお願い申しあげます。」

マルコーニの挨拶が終わると、ケンプの手で、トントントンとS符号が繰返しうちだされ、電波に乗って世界じゅうのラジオから流れ出ました。
ラジオに耳かたむけている人々は、声をのんでその音に聞き入りました。
電波のちからのすばらしさ、それを今日の姿にまで成長させたマルコーニの努力………、人々はあらためて深い感激にうたれました。
そのあと、世界の国々町々がかわるがわるに、講演や挨拶、歌や音楽などを放送し、世界じゅうがなごやかなお祭り気分にみたされました。
電波はこの日、世界をかけめぐって、人々の心を一つにつないだのでした。

それから六年たって、一九三七年の七月二十日にマルコーニはなくなりました。
この日は偶然にも、彼の最初の無線会社ができてからちょうど四十年めの記念日でした。
マルコーニはほかの発明家たちと違って、無線電信というただ一つの発明だけに一生を捧げ、電波の開発とその利用を世に広めることに、ひたすら努力を重ねました。
そのたゆまぬ意志と、つらぬきとおした信念は、私たちの心をうたずにはおきません。

いくつかの欠点はあるにしても、マルコーニの名は無線電信、ひいては電波技術全体の生みの親として、氷久に消えることはないでしょう。


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