次の第9対話に先だち、コチ氏の著書から心の力や能力について考えてみたい。
 --- 以下は1934年の著書の一部からの引用です --- 訳者

La Guarigione Spirituale
精神治癒
(病は生気の不足)
1934年   by B.コチ(*訳注* チェコ、プラハの治療家)

前書き

 「経験」の目を通して、人間の秘めたる治癒力は、医学的な力として捉えられるものというより、慈悲に満ちた生きている力であると知った、それは私がこの本に紹介する様々な治療法、不思議で魔法の様なヘルメス的な磁気療法とも呼ばれるもの、ジュリアーノ クレンメルツ博士によって完成され明らかにされた偉大な探求と実践によるものであり、「神的治癒法、見えない世界」などの4項目として出版されたものから - エミール クーエ(Emile Coué, 1857-1926 フランスで活動した自己暗示法の創始者)の偉大な方法やフロイトらへの理論的反証なども合わせ - 加えて、プラハのコチ(Kočí)の神秘的治療法を主として、その全てをここに与えるものである、それは人々の間を流れる慈悲/放射線の様なラジオ アクティヴィティーのエネルギーであり、人類のその病に忍耐力や利益をもたらすものであり、ここに出版し、その影響力を描き出し、奇跡の肯定的事実と共に宗教的支えも回復することに資するものである。
 個人の中には心的でまた物質的な構造の驚くべき資質の力が組み込まれている、この魂にはダイナミックなエネルギーのある種の階層の治癒能力があり、それは達成という形で実際に現れてくることがあり、以下のページの様な方法を探求経験することでより良いものにできる可能性がある、これは人の心理状態と呼応し影響しあいます、人にとっては、重要な特殊な力であり、治療において不足し達成できない原因ともなっている力です、つまり自分自身を支えよりふさわしく良き将来への恵みとなる力である。 これは有益な存在となりえるが、ほとんどの医者たちが認知していないこと、治療法と呼べるものでもない、しかし多くの知られざる不治の病の隠れた原因を与えてもいる。 これは他の強力な治療家たちも頼っている偉大な普遍的泉から流れ出るエネルギーの海、誰も知らぬその恵みは、病んだ者たちが習得しつかみ取ろうとする流れの何かです。
 ここに収集された様々な病の驚くべき治癒例は、色んな治療家や大学の治療法でも治らなかったものに対する事例である、これらは誰の中にもある生体組織を治療しようとする驚異的な力である、これによって他の事例でも人々は勇気を与えられ励まされ病から解放された、これはその例です。 特にこれらが治ると、驚くべきまた常識外れの事例であると理解された、様々な麻痺や癌、盲目、強迫観念、癲癇(てんかん)、潰瘍、アルコール依存、難聴、話せない、糖尿病、心臓病など、それらほぼすべてが神経にその起源があり、これが混乱の原因となり個人のカルマ(運命)となっているに違いなかった、これらはどんな手段でも治療はできなかったが、精神的な支えがあってこそ可能となるのです。
 それは信じる事、信頼によってこそ治る、そしてこの信心は自らを進歩させ、適合し調和バランスするよう訓練することができ、その理屈をよくよく研究し治療の不思議の何たるかを達成することで、シンプルに実現できる、もし望み知りたいと思うのならばだが。
 どんな方法でもよい、なぜならこれは最終的にそこに調和が生み出され苦痛苦悩が減るからである。
 もしも治せない病が治り、こんなにも素晴らしい健康を得るだけでも、この書は私に満足を与え、その労苦への尊厳を感じさせてくれるに違いない。

-----(*訳注* 以下コチ氏の講演会での発言内容)------

 神の平安と静寂が私たちと共にありますように
 精神的治療をよく理解する為には知ることが必要であり、とりわけ私たちがどの様に成り立っているのかが重要です。
 私たちは精神であり魂を持ち、そして肉体でもある。
 その私たちの精神には、高位の意味や価値があって「私が存在している」ということ、言わば神が私たちの中に存在していて、それは私たち存在の根源であるということです。
 その私たちのアニマ(*訳注* アニマ:魂や心、感情や感覚など)には個性があり、私たちの「私」であり、これは下位的な存在です。 この人のアニマは見える肉体としてつくられ、それはもう半分の精神的実体としても統治されている、これを私たちは原因としての実体(コーザル体/因果体)と呼び、精神的(メンタル)なものと感情的/情感的(アストラル)なものとがあると考えている。
 その私たちのアストラルな実体を構成しているものは:私たちの意識や意志、知性、感覚など、つまり私たちの様々な感情や感じとして知覚されているものです。
 見える実際の物的な肉体は、要するにうわべの物質というだけでなく、これら実体は相互に浸透し合いつながりあっているのです、その構成には、成人で科学的研究によれば640億(*訳注* 現在/2025 では約60兆と言われている)もの細胞があります。 この一つの細胞が実際に独立した知性に従ったアニマであり、一つの細胞は一つの魂なのです。
 私たちの細胞にはそれぞれ独自の生体組織に限定された役割があり、割り振られた厳密な法則に従っています、それゆえ人のアニマが影響を与えることはありません。 私たちの体内のこのプロセスには、神聖な法則があり、全ての細胞を一緒のハーモニーにまとめ上げています、この実体はエーテル的であると言われています。 このエーテル体は、物質的な体と別物ではなく、死の3日半後まで離れることはない、つまりその後解放されるのが私たちのアストラル(コーザルなそしてメンタル)な実体です。
(*訳注* エーテル、アストラル、コーザルは、西洋神智学用語だが、太古からのヨガ哲学などでも論じられて来ている。 神智学では、これらは別ものではなく密度の違いによって、各様相が異なり、同じ水が、気体,液体,固体の各相となっているようなものと主張している/下記本文。 アストラル体は日本語で星気体、コーザル体は原因体あるいは因果体と呼ばれる、エーテルは神智学独自の用語で、物理学で仮想されていた電磁波の媒体となると想像されたエーテルとは異なる、また現代物理学はエーテルを必要としない理論体系の上に成り立っている。それに近年の物理学では、時間や空間すら仮定しない理論も出現し始めているので、この様な議論はそもそも意味がないかもしれない。 神智学でのエーテルは日本語で天空や虚空の一般意味。 ここで言うエーテル体は、最も精緻微細なものの集合的実体といった意味合い。 いずれにせよ、コチ氏も言う様に依然これらは明らかにはなっていないし不可思議である。 極論を言えば、実体は全く異なるものかもしれないし、全てこれらは人間の仮想や妄想で実体とは異なるかもしれない、が、実感として人は、確かにこの謎の存在を感じている…。)
 これら見えないコルポ(*訳注* コルポ:普通は「からだ」の意. しかしここでは「からだ」と「物質」さらに「実体や本質」という意味合いも暗に含んでいる表現になっている)が私たちのアニマであり、私たちはその意識の印象やインテリジェンス、意志を失う、つまりそれが情熱とか情念と言われているもの、その何かが私たちのアストラル体であり、これが人の見える肉体から分離しそれ自身の座へと帰するまでとどまり、それから人の浄化が完成されます。 そうなった時だけアニマは、アストラル体から離れメンタル領域(精神圏)へと昇華され、原因領域(因果圏)へと及ぶ(*訳注* 神智学的、スピリチュアリズム的あるいは観念論的な見解. 因果圏は存在の根源域、現象を生じる本質的エネルギー領域、またその原理をなすものかと推論される)
 しかしこの様に検討したところで、私たちの根拠とはなりえません。
 私たちはですからこの細胞に立ち返りましょう、つまりそのコルポによって私たちが成り立っているからです。 科学はこれら640億もの細胞の一つ一つが何なのかを理解しようとしてきました、それはすさまじい数の無数の電子や陽子と組み合わさっています。
 それら電子は陽子と一緒になり、ある種の惑星の様なシステムを形成し、電子たちは幾つかの陽子の周囲を、太陽付近を周回する惑星の様に回っている(*訳注* 中性子の発見は1932年なので、コチ氏は原子は陽子と電子から成り立っていると理解していたのだと思う。 この頃から量子力学が勃興する…)。 それらは、エネルギーとしての動力として働いている、それはエーテルの中にあり電気的なエネルギーである。
 こうした動きが生み出すのは、不透明な外観です。 これらの微粒子たちは肉眼では見えません、ですからお互い他と分離してはいますが、一緒になってひとかたまりの物質としての効果を生み出します。
 こうして、これら電子や陽子たちは、実際最小の粒子でなく、科学的発見の可視的最小の何かというのでもなく、最も希薄なエーテル的な素材としての様相を呈してくるのです。 もしも私たちがそれらを進歩によって導き出し全てがエネルギーだと言えるとするなら、それが私たちのコルポで精神的な何かの実体、そのオリジン、完全な体であり精神的なもの、つまり精神的内的な実体でしょう。 説明してみましょう:ですからそれがアストラルな実体で、見ることができるのは洞察力のある人たちだけで、それが私たちのアニマに最も濃密に沈殿している魂であり、これを介して実際の内的人となっている、この地上の命として表現され、ですからこの中に命が築き上げられ経験を積みながら完成されていっていると言えます。
 どうすればこの魂の実体を見ることができる様になるのかを理解するためには、この電子と陽子の敏速な動きを描き出す必要があります。
 その理屈を例をあげて類推できるよう説明してみましょう。 垂直な旋回軸と放射状の細いスポークから成るシンプルな車輪をイメージしてください。 それが動いていなければ、その車輪の外輪にはめ込まれたスポーク間の何も無い空間は透けて見えます。 もしもボールをひとつその車輪へと投げ入れると落下しその放射状のスポークの間を通り抜けて地上に落ちるでしょう。 しかし車輪が回転すると、自由に動く放射線間の空間は視界から消え不透明なひとつの表面の様に見えます。 この様に納得すると、その現れは見間違いなどではなく、もし新たにボールを投げ入れても、それはその見た目の表面からはじき返され最初の何もない空間の様に通り抜けて落下することにはならないでしょう。
 同様のことが私たち肉体のその電子や陽子に関係し、それらが素早く循環しているおかげで硬い集合的質量という錯覚が起こっているのではあるが、それは私たちの体が精神的(スピリチュアル)なもので、その実質にはスピリトやアニマがあるということを意味します。
 同様に考えると、氷と水、そして蒸気は同じ源から発して、それらは異なるのではなく密度に関係があるということ;それがスピリトやアニマ、つまり肉体が同じオリジンを持っているということ。
 私が言ったのはほんの一例で、それよりもこれはアニマが可視の肉体を支配し、異質の精神的身体であるアストラル体が関係している、と、その様におおよそは考えられているということ。(*訳注* アストラル体:霊的な体、精妙で見えない物的集合体、〘西洋神智学〙で言うところのアストラルボディー、アストラルコルポ、コルポは体や物質、実体などの意.)
 そこには私たちの命が持っていると考えるそれら全ての何かが解き放たれているのです。
 そこに五感が生じ、アストラル体内にその座が設けられる。
 それは全ての印象を等しく含み、肉体の神経系と結びつき印象の度合いとして感じている、病やその他の不都合の多くは私たちのアニマのそれらモラル(*訳注* モラル:精神的資質、 日本語では道徳や倫理などと訳されることもあるが 自覚/精神の品格ともここでは言えるかもしれない)がかき乱されることが原因となっています。
 実際に色んな感覚があるのはアストラル体の座であり、全ての印象が等しく含まれていますが、それは私たちの神経が相互にひとつにつながったものであり、身体的印象にとって重要なものです、精神的不安やその他多くの病気の起源となる私たち魂の精神状態の混乱もそれには含まれています。 このアストラル体だけの事実について言えば、これは肉体の主人で、私たち存在の自覚の意識へと下降して来たものであり、様々な影響また精神的何かとして記憶されていますが、これらはしばしば生体組織の中で好ましからざるものも生み出しています。
 このアストラル体が肉体から分離すると、ある種の痛みの影響を受けなくなります。 医者たちは患者を麻酔や催眠によって、手術前に眠らせます、これは要するに何をしているのでもなく、患者のアストラル体との関係が断たれた結果、痛みを感じなくなっているからです。
 ですから医者の方々はアストラル体など存在しないと思っている。 しかしながらこれは、患者の手足の切断された部分のたいへんな痛みを感じ続けているその大元の原因は説明されてませんが、まさにその切断された手足の部分の大きな痛みは続いていたのでした。
 さて、こんな事件がある病院で起こりました:ある患者の脚が切断されました。 担当医はその切断された足をなきがら用の箱に置くようにと頼んだのでした。 その病院の地下室でこの要求が行われようとしていたその瞬間、患者が足の親指にくぎが刺さって痛くて仕方がないとうめきだした、医者はもう足に痛みを感じることはできないと彼に理解させ落ち着かせようと手を尽くしたにもかかわらず、彼はうめき続けたのでした。
 病院中の医者みながこの奇妙な患者を見にやって来ました、なぜ切断された部分の痛みをまだ感じているのかと。 彼らはアストラル体の存在や肉体の一部の切除後もその感覚が続くことについては無知でした。 医者たちはエーテル体の生命力が手術後3日半も続き、切断された足の中で生きているとは想像だにしていなかったが、エーテル体はこの間も依然アストラル体とつながり存在していたようでした。 ついにはオカルト科学にくわしい医者が加わった。 彼は切断された足をどうしたか尋ね、それを知ると一緒に地下の問題の運搬台車のところへ行こうと医者たちに頼んだ。 ふたが持ち上げられると、患者の足が見えたが、それは重りの様にぶら下がっていた、その親指には箱を閉じるためのくぎの内の一本が貫通していた。 そのくぎが抜かれると、すぐに痛みはやみました。
 もうひとつのケースがあります:戦争中ボヘミアのZ.の駅務員の脚が切断された。 手術以前、その男性は、天気が変わるたびにその脚の関節リューマチの痛みに苦しんでいました。 不思議だったのは、依然天気が変わるたびに、その切除された脚の痛みに苦しんでいたらしいことでした。 この事実はもしかするとこの肉体の切断された脚には、アストラル体の脚が残っていて、それでアストラル体にその感覚が続き、痛みがそのまま続いていたのかもしれません。
 ある日私はH.町の患者の家によばれました。 その人は右手に鋭い痛みをうったえていましたが、そこはもうありませんでした。 私に言ったのは、切断されたこの手の指のことで、かぎ爪に肉が巻き込まれすごく痛い、それが原因で拷問だと。 私に示したそこが悪さをすると見せたが、そこには何もなくその手は想像するしかなかった。 私は腕に沿って治療していった、そこの端、切断前のその手の箇所まで来て、指の端をみていると、彼は私に、痛みは消えていると礼を言った。
 私たちひとりひとりには実際痛みの座がもたらされていますが、これはこのアストラル体の中にあり、肉体の中ではありません。
 アストラル体は睡眠中、肉体からは切り離されています。 この瞬間には、アストラル体が私たちの自覚の座だと言われていますが、これには理性や意志、また私たちの様々な感覚や感情があります、この睡眠中私たちは痛みを何も感じてないのは明らかです。
 自我とは全くこの様な傍観者で、それゆえ皆さんはこの事がいかに重要かを理解できるはずです、そこにはアストラル体の生命力がある、ですから私たちの痛みはつまり、全てこのアニマを起源として様々な病となっている、このように心理的実体の結果であると納得されるでしょう。
 これは人のアニマの行動基準の傷で、つまり私たちのモラルや品格としての実体の結果であるということになります。
 私たちのアニマ、その様々な罪の汚れ、利己主義や愛情の欠如、怒り、復讐、嫉妬やねたみ、憎しみ、貪欲、不純な行為、肉欲、下品、不正直、うそなどなどが原因で、神との調和やその神聖原理を乱すと、そこから私たち肉体の不調和が始まり、病となって現れてくる。
 もしも完璧な健康を手に入れたいのなら、全てに対し愛情をもって生きていかなければなりませんし、完全無欠の創造主と共に在ることが必要です。
 私たちが病気で苦しんでいても、神が私たちを罰してるなどと非難してはいけません、そうではなく確かなことは、神は至上の愛ですから、非難などしないように、逆で私たちが自分たち自身を罰しているために、神聖原理に背を向けこの様に病を引き起こしているのです。
 苦しみ自体は、別に良くないものが周囲にあるとか、誰かが過ちを犯したなどと警告するものではない、ですから私たちは、原因を探し出し、なぜ苦しみを引き起こしたのか、はっきりさせる必要があります。
 私たちは心の底から告白をするべきであり、自分が何を自覚しているのか注意深く観察する必要があります、そして何かを間違ったのならそれを正し、また少なくともその悪しき行いは恥じるようにするべきです。 その様な間違いはもうしないよう自覚してください。 これが実行されれば、病はすぐにでも払拭されるでしょう。
 これは愛であり、私たちの魂を清くするのに十分です、これで私たちのアストラル体や肉体から罪は一掃されます。
 今日に至っても医療科学はこれを認めてはいない、これは例外で、病の原因でアニマの存在を信じる医者はまれなのです;もっとまれでアストラル体の存在など認めようとはしません。
 どんなに科学医療が進歩した領域に達しようとも、この物質的な肉体と呼ばれるものの実体の詳細を知ったり、結果としてほとんどの患者たちが癒されるようになるなどまずありえません。 またそこには何千もの医学的謎が残され、このようなケースでは治療からもれてしまうものも多いのです。
 理性が成すもの、これは科学としての医療、今日に至るまでそこには人間の病の心理的な原因、この事実がどういうものなのかは、いまだ解明されていませんが、すでに何人かの医師たちはこの領域で優れた結論を得ています。 私は、我が国の C. L. ベズディク博士と、リック ア ダンツィカ博士たちが公表した興味深い内容、その経験について言及したいと思います(*訳注* 博士たちは、経験的な「倫理医学」の記録を著した)
 さて私たちは、一つの問いへとたどり着きました:「何が精神的治療を成り立たせているのか?」
 精神治療とは、次のように言えます、魂を清くすること、これは悪しき道から離れ、この精神、(神の)イエスキリストのこの魂とひとつになること、それによって治ることです。 イエスは患者にいつも信じることを要請していました、それで治り健康を手に入れることができていたからです。 それで尋ねたのです:「あなたは癒されると信じますか?」、患者は答えました:「はい、神さま」。 この信頼の働きで、イエスキリストの力で、その患者の魂は神聖な愛情に解放され、ついにこの力が創造され生きる力となったのです。
 イエスは、信じることで患者の魂は開かれ準備されると分かっていました、それは至上の愛を受け取り神とひとつになること、清き心によって救われることです、その患者の魂は罪の結果全てから解放されました。 この浄化によってただちにアストラル体から肉体へと変化が及び、ついにその患者は治ったのです。
 その後イエスはいつも言っていました、「これはあなたが信じたからです、それがあなたを救いました。 もう過ちは犯さないように!」。
 次のようにくり帰してください「もう過ちは犯さない」、それはこういうことです:「また病になりたくない避けたいのなら、まさにこの罪は犯さないように、さもないとまた神の掟に背き、さらなる苦しみに陥ることになりますよ」。
 この世に完全な人はひとりもいません、神の子のキリストだけ、ですからそれゆえ私たちは意識してキリスト、この神聖な愛を私たちの心の内に持ち続けなければなりません、そしてその全能の力を信頼し信じてください。 ですからこれは自分自身にも不完全な部分はあるということ、誰しもが罪人であるということです、親愛なる皆さん、私が本当に信じるのはキリストの確かなみ言葉です:「私を信じそれにならう者は、私と同じことを、またそれ以上のことを成すでしょう、なぜなら私は私たちの父とつながり一緒になっているからです。」
 自分ひとりだけでは何もできません、でも今日この日にもイエスさまであれば、かつてそうであったように癒すことは可能であると私は信じています、もし私たちが親身にそうお願いすればです。 私は神の全能を純粋に信じています、またイエスの言葉も:「私ではありません、でもこれは天の父が私の中でこれを為されているからです。」
 患者がやって来た時私は、その病気の原因を直感的に理解できるよう探ります、行った現状分析、どうすべきかの患者への勧め、それから私はその人が神を信じイエスキリストその力に目覚めるようにと努めます、私の手を患者に置く前にです。
 同時に主にこの患者の過ちの許しを請願し治していただけるようにと祈ります。 この私の祈りが聞き入れられると、私の両手から電磁気的力があふれ出てきます、患者はそれ、神さまの慈悲としての熱を感じます。 それと同時に患者はより敏感にある種の電流のようなものを感じとります。
 この力はメッセージであり至上神の愛情です、またもしその患者が癒される状態にあるならそれを受け取ります、そして特に治る可能性があると信じているのならこの電流によってその人は治ります。
 患者が元気なく絶望し悲しみに打ちひしがれているのなら、再び元気を取り戻し自信を持てるよう対処します。 「精神的な介在に影響され治る病にはどの様なものがありますか?」との問いかけに、私はこう答えます:「この世に心理治療で治せない病気はありませんが、全員がこの癒しを受け入れる状況にあるわけではありません。 ある人たちに足りないのは信じること神への信頼であり避けられないこと、別の人たちではそれはカルマ(運命)で時に不可能、そしてまた別の人は修正が許されないといったぐあいです。」
 私は経験から、病は4つの種類に区別されることを学びました。 以下にそれらを示します。

カルマの病(宿命病)

 人の生き方における祖先たちの悪しき行いが積み重なったもの、それがこの病で、忍耐によっても、善行や慈悲による行いによっても報われなかったものと考えられている。
 このグループには例えば生まれつきの盲人や多くの聾唖者、せむし、その他多種多様な生まれながらの身体の不随や欠陥などがあり、そんな魂の祖先たちがある種の罪ともいえるものを自発的に背負い、その進歩を遅らせまいとしてきたものも含まれます。
 例えばせむしの人たちは、それ以前の世代の世の生き方では、それでよかったかもしれませんが、何の配慮もされず人々の美的感覚からは蔑視された状態であったかもしれない。 この様な浄化領域は、あの世でのことだと人々は思っている、そこで自覚させられるのは、自分たちの振る舞いの虚しさ、それがもたらすものは、そんなこの世での好ましからざるひ弱さを人は引き続きその身に受けて決着をつけようとしていたのだろうということ。
 こんな不幸を目にすると、人々の無意識には祖先の人たちの生きざまが引き継がれているとわかるのです。 美化することを好み、多くの人たちは社会の中で優位でありたい、配慮された存在でありたいと思う。 彼らはしばしば精神的で非凡な才能の人たちで、話すことが大好きな人たちでもある。
 ある日、D.K.での私の講演会でそれは起こりました、聴衆のひとりが立ち上がり言いました:「すみません、私はあなたが言ってることをよく理解しようとは思うんですが。 分かりはするんですが、そのおっしゃってるカルマの病ですが、うまく理解できません、ですから分かりやすく説明してください」と。 まさにその瞬間、ひとりの女性が最後列から立ち上がった。 彼女は霊媒で夢想状態だった。 彼女は言った:「そのコチ同士が言っていることは、全くの本当です。それで私の隣人の盲目で生まれた人の証拠があります。 それが誰だったか言いましょう、この盲目の人には、その先祖の生き方が潜んでいます。 それは貴族の男で金持ちでしたが、不道徳な人生をおくっていた。 ある日彼の召使いのひとりが彼に言った:ご主人様、私はもうあなたのしている悪事のこと、全く見てられません。 すると主人は答えた:もしお前がもう見てられないなら見えない様にしてやる。 そして彼はその召使いの目を焼きつぶし、そればかりか牢獄のような場所に監禁した。 この主人の人生は償われなければならない、彼のおぞましい悪事、それは生まれてから死ぬまで失明状態であること」と。
 これは聴衆の注意を呼び覚まし、私たち祖先に隠されたこうした間違った生き方から先見の明が与えられます、ですからこの話からそれがどれほど恐ろしいことか、時にそんな過去のベールから何かが見えて来ることがあるのです。
 私はあなた方にこの意図する課題についてよく考えていただきたいのです、それはどの様に探求し問い掛け探りを入れようとも、決して知れることではなく、そんなあなた方の先祖の生き方には到達するものではない。 精神のありかをいかに探求しようとも決してわかるものではないしそんな必要性も全くない。
 この問いかけへの最良の答えは、実際の私たちの生き方にあります。 それで彼女は不幸なのかって? それは、あなた方は、あなた方の祖先たちの生き方のせいで病になってると言いたいってことでしょう;仮にそれが現在のあなた方の生き方であるとすると、それは不道徳、利己的で不正直なその次の生き方は苦しみに満ちたものになる、少なくともだからそんな人たちは今生の人生ではお互い罪を犯さないようにならなければ、ということでは?
 これはコズミックな法則、神の掟、類は類を呼ぶということ。 善は良い結果を生む:それは喜び、幸福、健康です。 悪があなた方にもたらすものはそうではなく、不幸や悲哀、惨めさや病であり、これは選択です。
 さて、それでは聾唖者についての話をしようと思います:
 私はK.で3人の若い聾唖者たちの世話をしていましたが、その日彼らは一緒に訪ねて来た。 その治療がうまく行ったのは2例で、3番目はそうではなかった。 私はその理由が分かりませんでした、その治療は成功していなかったのです。 しかしその土地の交霊術師たちが私をその場に招いた時、その同席していた人たちの中にあの治らなかった女性もいたのです、その実体が現れた、何かがこの病の原因を語りにやって来た。 それは言った:「その原因は私だ、だからそれが原因で依然この女はこの病のままさ、なぜなら彼女は以前生きてた時私の伴侶だった、それでひどく私に残酷で非常な苦痛を与えた。 彼女への罰として、彼女が生まれる時耳に土を、口に石を詰め込み、それからそいつの頭に私のマントをかぶせたのさ」と。
 私はその霊に理解させようと努力した、その様なふるまいは自分たち自身に復讐の応酬を招くだけで、霊のためには女性を赦しこの悪行から彼女を開放しなければならないと、さもないとその女性への行為でお互いに大きな苦痛を招くだけだと。 その現れた霊は許すことを約束し、言った:「私が彼女の耳からそのけがれを取り去り、口からその重荷を取り去ろう、しかし君はそれを取り去るために彼女が君に相談しに戻ってきた時には、彼女の頭にかぶせたそのマントを取り除かなければならんが」、と。 彼女が私のところへ戻って来た、私はその霊が私に言っていたことをした、すると彼女は治った。
 これら「仮のカルマ」として扱われていたケースの内、何が確かなケースに影響しえるのか。 しかしこの宿命病に関する多くの部分は治せなかった。 更にはそれを治すことが許されなかった、それはそのアニマがこの忍耐を通して解放されんがためであり、その進歩につまずかないためである。 しかしそれでも私は神のご慈悲を信じます、これはキリストへの愛であり、信じているのは、それが私たちには治療できない事でも、神には可能でこの様な愛情を通じてであるということ。
 これがまず私がそれぞれの患者やその治療の前、主に祈りを捧げる理由であり、主はその人が癒えることを望んでらっしゃいますし、それがたとえ宿命的な病であろうと、患者の残りの人生に慈悲を、また少なくともその結果を和らげてくださるかもしれません。
 ある日私は3人の盲人たちを治そうとしていた:ひとりは兵士、彼の妻と83歳の盲目で生まれた老人だった。 まず最初、私は精神的なメッセージを感じた、それは3人のうちのひとりはカルマ的なものだと。 その治療方針を3人の盲人たちに説明した、何が原因でその様な運命の結果、今生の苦しみとなって現れているのかである、それによって、私たちのアニマは浄化でき、その過去の罪とその卑しい行いを受け入れる必要があること、またその様な不平不満をやめよと神さまが申している、と。 それに加えて私は伝えた、偉大なる神さまの愛徳がその患者の目の前に有り余るほどに準備されていて、神さまの力と信頼とによって、彼らの苦しみが取り除かれる可能性がある、と。
 そのあと、私は準備を整えその女性から治療し始めました、すぐに彼女はその部屋を見て、あらゆる物の名前を言えるだけ言い出しました。
彼女はそこの壁にあった絵のことも言った。 この場合はつまりカルマによるものではなかった。
 次は兵士の番である、彼も少しすると叫んだ、彼の場合もカルマとは関係はなかった:「あなたの懐中時計の鎖の細かいとこも針の動きもよく見えます、それから色んな絵も;神さまは私を憐れんで、また視力を与えてくださいました」と。
 残るは3番目の老人、これは、実際カルマによるものだった、なぜなら生まれつきの盲人だったからです。 私はすごくドキドキしながら彼のすぐそばまで行き、すぐにイエスさまにお願いしました、この哀れなご老人のカルマをお改めください、この懲らしめが続くことが神のご加護なのでしょうか、また、残り少ない年月のその視力にもこの報いをお与えになるのでしょうか、彼はこの地上でこのまま過ごしていくのでしょうか、と。 私は目を見張るほどの神の創造の全てを深く瞑想しそれと一致和解するよう祈りました、そしてこの太陽の光を見れますようにと。
 こう心の中で祈ると、そのご老人は卒倒せんばかりに驚いてとうとつに言った:「すごい!よく見える、避けられん運命じゃなかったんだ、だからわしは、みんなを見て若いことに気づいてびっくりした。 あんたは長いおひげのじいさんかと思ってたんだよ」。
 この印象がどれほどのものだったことか、この3人の回復には患者たちの筆舌に尽くしがたいほどの感動が待っていました。 しかしこのご老人の回復のことを深く考えて見るほどに、そこには何か異質なものがありました。 彼は実際そのカルマのことで感謝していました、つまり彼は今でも見ることができ、一方でその罪は私に転移され、私は盲人になったのでした。 まず、右目からでした。 それで、私の知らなかった何人かの人たちは、ある霊媒の会合に参加した時、あのご老人のカルマを私が背負ったとのメッセージを受け取ったとの知らせを、私に言ったのでした。 彼らはその理由を私に言わねばならず、そうして私は右目から見えなくなっていきました。 私は白内障だと言われましたが手術はしたくなかった ― それはあのご老人がまた悪くなって欲しくなかったからです。
 しかし厳粛なる神は、限りなく深い愛情の別のなさけをご用意されていました。 それは私の右目の視力を保つためで、まさに完全に白内障になろうとしていた、2年半後にはもう一方の目も同じように見えなくなりました。 この状況は約1年の準備期間で、つまり私はこの半盲目で旅をしながら講演をしたり治療をしたりしていました、完全に見えなくなるその瞬間まで。 しかしこの状態は私には不幸ではありませんでした。 逆で私には楽しく晴れやかな事にも思えたのです、なぜならこの小さな犠牲で私は報われていたからで、83歳のあのおじいさんの視力が保たれていたからです。 私はまず右目を、その半年後にはもう一方を手術し、よく見える視力を得て晴れやかな気分でした、特殊なメガネのおかげで以前より良く見えるようになっていました。 この私の犠牲はあのおじいさんのカルマを取り除くのに十分で、彼の最後の日までその視力は保たれたのでした。 ここで私は、2回目の手術で、通常経験するような最初の手術でのその痛みをどうやって完全に消すことができたかを言わなければならないとも思うのです。
 準備が整いその暗い手術室の戸口まで私を案内すると、その看護師はそこで私をひとりにしてくれました。 私はこの厚意の時を利用し心を集中しこのように唱えました:「神さま、私はあなたがそこで自分だけで苦しませることはしないと知っています、まさにその完全なる世界で私はどん底にあるわけではないことも分かっています、この普遍世界はいつもひとつになり結びついています。 これその真理を通じて私はまさにこの偉大さとひとつになると同時に、私の痛みは消え去り、まさに海に消えてなくなる一滴のインクのようになります。 苦痛は一瞬で消えてなくなりもう苦しむことはありません。 この様に私の痛みは、何の苦痛もなく宇宙の中に一掃されます。 どうか神さまお願いいたします、私の痛みを全宇宙とひとつに結び私と一緒にいてください、こんな私はちっぽけな存在です、そしてもうこんな痛みを感じる自分などいないと信じます」。
 これは私が信じたから起こったことでした、ですから全て私の体験でこの手術中痛みはなく、医者の誰にとっても大きな驚きでした。
 信念があれば、あなたもまさに同じ経験をすることができ、私のように成功するでしょう。 医師たちがまだ治療できない他の病気には次の部類があります:

アストラルコルポ(無関係な外的心情)による脅迫観念や妄想

 このグループに含まれるものには:脳卒中の発作、癲癇(てんかん)、喘息、狂気(心神喪失)、黄疸、麻痺、糖尿病、心臓病、ある種の胃腸や肝臓の病、その他多くの神経系の病がある。 これらの病はみな、精神的介助があってこそ治すことができます。
 もしも誰かが支配されると、その人とは関係のない心情的な実体が、患者の心情的実体の一部あるいは全部を占拠し、何らかの兆候が現れてきます。
 この事実で生じるのは、生体組織機能の一種の混乱で患者の肉体の中でのこと、その乱れは様々な容態として現れ、どんな名医でも当惑させられるのです。
 精神病院の中には、例えば、正気を失ってはいない、また生体組織が衰弱しているわけでもない多くの患者さん方がいらっしゃいます。 彼らは、ただ(*訳注* その人とは関係のないアストラルコルポ/心情体によって)支配されているだけなのです。
 彼らは自分自身を見失い、患者はその精神性の代わりに、侵入したその何ものかを表出しているからで、このアストラル領域を見ているのです、だから私たちはこれを見ることができず、しばしば非常に空想的なものになっているのです。 医師の方々はこれを脳の傷害だと思っているのです。 個人にとってこれはまったく病んだ状態ではなく、理性面では支配されているのでなく固執しているだけだとも言えます、そんな彼らの心情的な実体を開放することはできます、それは彼らを私たちの肉眼には見えない物事を見る洞察力のある人としてありのままに認めることです。 もしその可能性が、全く見たことのない未知なものとして扱われると、それらは誰にとってもの軽率な言動と見なされ、その彼らの見ているもの、つまりこれらは、ですから彼らは気が狂ったと見なされるということなのです。
 このような心理的な昏迷状態に取りつかれた人たちの処置は、時にまったく簡単に患者の写真だけで治ることもあります。 この方法で私は非常に多くの正気を失った人たちを開放することができました。
 以下は最も最近の例です:
 ある娘さんは劇場が大好きでした、そこに彼女は次のように続けてある時期3回通い詰め、そしてそのたびにたいへん興奮して帰って来ました。 3回目のあと彼女はその異常な興奮状態のことで悩みました、それは彼女の心情的な実体が表面化し、ある点で外的な心情的何かの実体が動き出し、彼女を占拠したかもしれなかったからです。
 この変化が実際彼女の中に現れ、それまで知らなかったオペラを自ら歌い出したのでした。 静かにしていて欲しいと頼まれると、その伯爵令嬢は、自分の財産はもう失った、だからこの様に人生をかけ働かなければならないと答えたのでした。 彼女の家族は、健康を考えある施設に閉じ込め、そして私に彼女の写真を送ったのでした。
 私はいったい何が彼女の心を占拠していたのかと心をくだきました、そして実際にはそれは貧困に陥った伯爵令嬢の魂で、彼女はその後の人生を歌いながら稼がなければならなかったのでした。 この瞬間に至るまで、その魂は、それが異なる世界であることにまだ気づいてはいませんでした。 そんな私の試みは他でもなく功を奏し、この患者はすぐにその保健施設から解放されたのでした。 その後まもなく彼女は、家族と共に私のところへお礼をしにやって来ました。
 私はその機会を利用し彼女に病の原因をよく熟慮してもらい、その間は劇場に近づかないようにとアドバイスしました、なぜならそんな何かの魂はいつもそのあたりを確かに取り囲み居座っているからで、劇場周囲に新たな抜け殻となった人の体を受け入れようと彼女を待ち構えているからです。 彼女はまたそんな病んだ感情で支配され利用される可能性がありました。 あいにくこの私の患者は劇場にまた戻りたいという誘惑に6週間しか我慢できず、結局彼女を断念させようとする人たちの説得は拒否されたのでした。 その興奮状態がまた現れると、彼女は全く同じような現象に捕らわれました。 私は2回目も彼女を開放することができました。
 私は遠距離から理性を失って病んだ患者たちを治療してきました、シカゴの例では写真を利用して行われた。 パリでは、病気の女性の写真を使って手当実験までしました、4年間施設にいたその人は、私の写真を見るだけでしたが、その4日後には家にもどされていました。
 いったいなぜこの様な心理的執着が写真を通して簡単に治るのでしょうか? 写真それぞれには、撮影された人の見えない流れの一部が捉えられていて、太陽光線のネガとしてそこに投影されているためです。 このコピーには、その流れや他のすべてのその人の印象が複製され刻印されています。 興味深いのは、この流れは目に見えない波としてそこにとどまり放射され、この媒介波により常にその人独自のこの流れと接触できると分かることです、これはラジオアクティヴィティーの波、電磁波です。 人物の写真を手に持つと、私の場合、私の流れは、この写真の流れと一体化し融合します。 私が遠隔治療に着手すると、私の流れはこの目に見えない波動を介して作用し、同時に患者のアストラル体(心理的精神的情感)に到達し、その波の治癒力が患者自身の肉体に戻され影響します。
 この様な心理に支配された人たちの治療にとりかかると、私の治療は患者の抑圧された心理、アストラル体に影響します。 普通、患者の病んだアストラル体はその影響で即座にそこから立ち去り、同時にそれらすべての患者の症状は劇的に改善されます。
 遠隔治療をする時には、私はいつも抑圧している側の心理的実体を自分に呼び出します。 それに理性を与え、支配した体に執着し続けるのは不幸な結果を招くだけだと理解させるように努めます。 この心理的存在は、私のテレパシックな処置に応じ私のところへ来なければならなくなります。
 この加害者が私の近くに来ると、加害者は被害者の近くに同時にいることができないのは明らかです。 つまり患者の病状が突然変わるということです。 この実体が私のところへ現れると様々な方法でそれを示します。 いろんな家具や窓、入り口をノックして叩いたり、変な音や扉がきしんだりもします。 被害者の治療は、しばしば写真を使った遠隔治療の方が効果的なことがあります、それはいつもその患者が治療を邪魔しているからです。
 もうひとつ、非常に一般的な同じような病があります:

癲癇(てんかん)

 このケースでは、患者は一時的に裁きや復讐などにとりつかれた拮抗状態にあり、一般的に外的なアストラル体、過ちを犯し放浪している魂によって支配されています。 この患者の魂は、普通はこの病によって、先祖に相通じるカルマに決着をつけようとしています。 こうした患者たちは非常な苦しみ、これらの病をしばしばその人生の最後まで背負うことになってしまいます。
 私は精神治療で癲癇の人たちをたくさん治療することに成功しました、言わば彼らをこれらの放浪する魂の侵害から自由にしたのです。 これらのケースでは、患者のためだけでなく、その間傷つけ侵害していた側の魂のためにも祈りました。
 私は常に、なぜそれが自分自身に恨みを呼び、また他の人たちにも害を与えているかを侵害していた魂に説得する方法を探って来ました。 私は苦しんでいる人を許せば、それでお互いの過ちは許されるかもしれないと勧めるようにしています。 私はそんな魂には、キリストの名で患者から離れ、もう戻らないようにと説得します。 それは心の安心と誠の信頼を与え、日夜主の助けを得て、あらゆる危険からの守護の力に従うためです。 こうしたアドバイスは、多くの回復例で確かであることが確かめられています。
 ある若者は一日に 5-6 回危険な状態になっていました。 私の治療後それはすぐにやみ、以後8か月間発作は起こっていませんでした。 この間若者は、私の勧めに従いキリストの庇護下にありました。 そうしてからは危険な状態にはなっていませんでした、若者は治ったと信じ、救い主への庇護の祈りをやめてしまった。 すると三日目に7回の発作を起こし、また私のところへ戻って来なければなりませんでした。 このことから、この様な患者たちは私のこの勧めに従うのが良いと思われます。
 私はアッバツィアでふたつの実体にとりつかれていたある婦人に会ったことがあります、ひとつは生まれた時からで 58 年ほど前から。 これは頭部の震えとして現れていました。 もうひとつは喘息でした。 そのサラエヴォのK.医師は助言を得るために彼女を私にゆだねたのでした。 彼女はその日の夕刻私の宿泊先へと到着し、私に治療を依頼したのでした。 私は彼女に翌日合う時には、でもその頭の振るのはなしで来るようにと助言したのでした。
 彼女は笑うしかなかったが、私に、この首振りで 58 年苦しみ、この治療に 25 万オーストリア フロリン以上費やしてきたと答えた。 大変な苦労を味わい、様々な治療法を試したが全て徒労に終わっていました。 「それでもあなたは首振りは家に置いて来いって言うなんて!」。
 私は言った:「でもくり返しますよ、あなたの首振りは家においてまた来てください。 朝起きたら言ってください:主イエスさま、今日私はあなたの庇護のもとに一日を過ごします」。 私が神聖なこの名前を言うとすぐ、彼女はびくっとしてその目は一点を見つめたまま動かなくなり、首振りもおさまった、それは彼女にとって驚きだったが、同行していたその医者にとっても大きな満足だった。
 翌日彼女は、もうひとつのとりつかれていた喘息からも解放され、完全に治り家に帰っていきました。 この二番目のケースは特に興味深く、開放することはできましたが、それを語るとなると1時間は必要で、もしこの講演でそれを明かすとなると時間がほんとに足りません。
 興味深いことに、その少し後ある女性が同じ症状の病で、精神治療のため私のところへやってきました。 彼女は他の患者たちに交じって、その友人たちが宿泊していた私の宿にやってきました。 私たちがコ-ヒーを飲んでいると彼女が入って来ました、それは私がアッバツィアでのケースを話していた時でした。 私がそこで神の名を語っていたところへ彼女が加わった時でした、彼女もびくっとして凝視状態になり頭の動きも前のケースのように止まったのでした。 これは放浪している魂がいかにこの神聖な名前を畏れているかを示しています、そのため彼女は即座にその支配から離れたのです。
 ですからこれに力を与えるものはイエスキリストへの信頼であるということを理解して下さい、そして患者たちは神の愛によって癒されるのです。 自分自身を神さまから遠ざけている人たちは皆、純粋なキリスト教から離れているがゆえに、様々な苦悩を経験し驚く、これは本当に憂うべきことです。 この世界は見えないものによって導かれています、ですから全ての病も見えないものが原因で、神を信頼する以外それを克服する方法はないのです。
 これには次のような病もあります:

敵対

 精神的な敵対は体全体や手足などの一部を麻痺させます。 私が気づいたのは、右側の麻痺は、時に敵対する他者による支配に原因があり、それに対し左側の麻痺では、家族の誰かの気持ちから生じているのが一般的だということ。
 誰かの死を必要以上に嘆き悲しんだりする人は、しばしばこの様な状態になります。 妻が夫を、また子供や好意を持っている人との別れを嘆き悲しむなど。 この様な人は、魂の安らぎや自由がはばまれ、際限なく嘆き悲しんだりする、このような魂の心情はそのやるせなさで傷つき、すでに述べたような麻痺症状を呈することになりかねません。
 ここに興味深いケースをご紹介します:ある日の日曜日、ジャーナリストの夫の治療を頼もうとその妻が私の村に会いにやって来ました、発作による腕と右脚の麻痺でした。 彼は聞くことも話すこともできません。 私は彼を連れて来てもらったのでした。 しかしその妻は、戸口の前で私に馬車に乗るよう頼みそこで夫を見て欲しいと頼んだのでした、実際患者は全く動くことができませんでした。 私はしぶしぶそうした、なぜなら私はその町の中心からの近郊に住み、その日曜日は雑踏から離れ散歩しようとしていたからでした。 そんなわけで私は患者を私の家に移動させるよう主張しました。 婦人が馬車を準備しようと戻ったその時でした、私は直感的に夫の病気の原因が分かりました。 私は彼女を引き留め言いました:「あなたのご主人は誰かをすごく苦しめたに違いありません。 この誰かは亡くなりましたが、この魂が受けた苦しみの仕返しをしようとやって来たんです」。
 女性は急に泣き出し言った、夫は彼女の母親にひどい扱いをしたと。 母親はその身に受けた苦しみに泣きながら亡くなったという。 それを知り私は婦人に、もしそれがそうなら夫は私に任せてもらえば治るだろうからと、彼を私の部屋に入れさせました。
 彼らが私の前に座り話を始めましたが、彼は返事をしません。 彼の妻は彼に私を見るよう合図した、それに対し彼は;私の唇が動くのを見て、自分の口と耳に触って、耳が聞こえない-しゃべれないと示した。 彼はポケットからジャーナリストの身分証を取り出した、それは私にそれを分かってもらうためだった。 それで私は彼と私がすべきことが分かった、それは私が患者の仕事や名前を知ったり何かを探ることなどでは決してないと分かったからです。
 私は治療を開始しその魂に理解させた、この患者に付きまとい、そのようにしたところでその人を罰することにはならない、そればかりか、特に娘さんには苦しみを与えるだけだと。 その瞬間その部屋のわきの扉が自然に開いた、その近くに誰もいないのに、そしてこれは、患者に付きまとっていたその魂が離れ、患者が自由になった私へのサインとなったのでした。 私は彼に言った:「編集長さん、自由に動けるようになりましたよ」。 驚いたことに彼は私の言うことを理解し、ゆっくりと反論した:「私は自由じゃない、麻痺がある。」 私が彼を治療した時彼は聞こえたし話せる様にもなっていた、それから脚も手も動かせ歩き出した。
 治ると彼は、誰の家にいるのか、誰が彼を治したのか理解し、混乱した様だった、そして居心地が悪くなり礼を述べることもなく、一目散に馬車の方へと駆けだして行った。 妻も私もどうにか彼を追いかけた。 馬車の御者の驚く声が聞こえて来た:「イエスさまマリアさま、なんてこった、こりゃ奇跡だ、たった今家の中に運び込まれてったのに、もう自分の脚で戻って来なすった」。 事件はこの様な展開になりましたが、このお方、今日の今に至るまで、私に礼を言う必要があることにいまだ気づいていない。
 彼のような人間はいったいどう思ったのか、特に彼に関係した人たちは、コチさんのところで治ったと気づいたのか!
 もうひとつの抑圧支配によって形作られるものは:

飲酒癖

 この飲酒欲におぼれた人は、アストラル体内のその世界にこの欲求を持つことになる。 この欲求が満たされないと、この世でその欲にとりつかれた様になる、ですからそれにおぼれ飲酒し続けることでこの欲望を満たそうとするが、それは不幸な魂の快楽にしかすぎない。 しかしこの悪習慣も治る可能性はあります、親しい人たちや、特に母親やパートナーの助けで。
 私には、無関係なアストラル体を遠ざけるための患者の写真一枚だけで充分で、これでその人は確実に家族の人にいつも支えられることになります。
 次のケースは賞賛に値します。
 ある小さな町の役人は、この飲酒への欲求に取りつかれ、毎日この様に酔っぱらい、誰かが家に彼を運んでこなければならない嘆かわしい状態でした。
 彼の妻が私に会いにやって来ました、私は夫の写真を託され、それに祈りを込め、婦人にも朝に夕に夫のためにキリストの庇護を祈るようにと勧めました。 彼をとがめる必要も、彼にその責任もなかったので、彼女には彼が病気になるなどと恐れる必要もなかった。 逆で、彼女はもっとそれ以後、夫に全幅の信頼を抱いていることを示す必要がありました。 私は彼女に毎朝夫が仕事に向かう時心をひとつにし、夫のために愛情をもって送り出すように、彼らの魂がひとつになりますようにとアドバイスしました。 さらに必要だったのは彼女が次のような祈りをいつも繰り返すことでした:「私はわかってます、あなたは正直者だって、もう飲まないって信じてます、今夜は飲まないでそのまま家に帰って来ます、自覚して今日もずっと毎日そうします。 あなたは主によって守られ、何ものもあなたを害することはありません」。
 この素晴らしい女性は私の勧めに従い良い結果を得ました。 夫も何が行われていたのか気づきませんでした。 まさにその日妻がこの祈りを捧げていた時、夫は仕事を終えいつものようにそのカフェに来てつぶやいたのでした:「一杯だけならいいだろう」と入ろうとしました、が、なぜか動けなかった。 びっくりして彼は、入って行ってはいけないサインのような気がする、と思ったのでした。 それでもワイン売り場に着くと、言った:「ビールは飲まない、ワイン一杯以上は飲まない、それなら酔っぱらうこともなかろう」。 しかしドアの取っ手に手を伸ばそうとすると、その手が思わず滑った、びっくりして彼はその場に固まってしまった、何が起こったのか全く分からなかったのでした。
 彼は家に向かったが、またしてもそこで足が止まった。 彼の目の前には酒蔵へと向かう階段が待ち構えていた。 彼は立ち止まりまたしても考え込んだ:「カフェはやめたしワイン売り場にも行けなかった、ラム酒はちょっとにしとこう」。 しかしその段に進むとすぐにそこで足が止まった、誰かがその脚を止めさせたように感じたのだった! 彼にはこれで充分だった;彼は正気になり何か特別なことが起こったのだと思った、そして全く不思議な気分で家に戻ったのでした。 妻は彼を喜んで迎えごちそうでもてなした。 食後彼は妻に一連の妙な出来事について語った、職場から帰るまでの偶然の成り行きのこと、彼は嬉しそうに飲みたい気持ちがおさまったと気づいたと語ったのでした。 まさにこのクリスマス前夜の日夫婦は、一緒に外出し市場に行くと、そこには大きなクリスマスツリーがそびえたっていたのでした。 ふたりは寄り添いそれに感動した、これはその日の出来事、男性はこのように守られていることを改めて感じていたのでした、そして節約していれば実現できていたことに思いをはせていました。 彼は言った、「ねえおかあさん、ずっと考えてたんだけど、飲み代を節約したら貧しい人たちのために使おうと思ってたんだけど」。
 こうしてその愛はさらなる愛を生み、そして新たな幸せを生み出し続けた、だから喜びは家族の中にあるのです。
 同様のケースがブラティスラヴァでありました。 その男はまる一週間飲酒しなかった、そして土曜日給料全部を妻のところへ持って行った。 妻はその金をテーブルの上に置きっぱなしにし、夕食の支度をしていました。
 夕食後夫は妻に言った:「ねえ、今週はビールをまったく飲まなかったぞ、コップをだから持ってこれんのか?それで俺が酔っぱらうこともなかろう」。 女は何の疑いもなくコップを持って行った。 男はコップを口にするとすぐに、テーブルの上に置きっぱなしの金をひっつかんで立ち上がり、狂ったように酒場に飛び出して行った、それから酔っ払い月曜まで全く帰って来なかった、そして給料はなくなった。
 これは私たちに何が必要かを教えています、特にこれは基本的なことで、アルコール依存が原因の人たちには、完全に治るまではその機会を与えないことです。 彼らには家族の気の長いの見守りが必要です。 こうする事でしか私たちは親族をこの危険から救えません。
 3番目のグループには、科学的医療でも治療不可能だと考えられているものがあります:

癌や潰瘍

 精神的観点から癌の起源についてお話します;しばしば医師たちが議論する問題です。 癌は、アストラル体に形成されちょっとした悪感情的な何かと結びつくことで生まれてきます。 良くない考え、復讐心や嫌悪といったゆがんだ思考の持ち主たちに直接さらされたことによって生じてきます、ですから実際これらは悪事や悪行が作り出したものです。 この思考には、生み出す力があり、宇宙の中では消えることがありません。 これは波であり、最も強力な放射波である無限の思考です、それはほぼ即座に多様な形の波としてその場の受け取る人に伝わりイメージされます。 これは無線電話を形成する古典的宇宙原理:類が類を呼ぶことです。 悪しき思考は、同様な悪しき人間の魂に由来する思考から放射されたものを引き寄せます。 何事かの悪事をなした人から投げかけられたものは、そこで受け取った人に付着して残ります、それはですからアストラル体に残存します。
 しかしこの宇宙には最高善の力が存在しているので、この様な傷つけられ障害を受け乱された力の影響は引きちぎられ取り除かれ、その両端にこの宇宙的な力は再接合しそこで安定します。 この様にそんな小さな結び目には、アストラル体上のその瞬間に乗じて最大の力が作用し障害が取り除かれ肉体へと力が及んでいきます。 この小さな結び目は太陽神経叢を経て、脳の私たちの無意識の座の感情につながり、物質的衣服としての肉体が与えられます、ですから一つの細胞にもその活動実体が閉じ込められて形成され流れています、そしてその力が定まり発揮される場所を探します。 さて、これら健全な細胞たちは、その人の中に取り込まれた悪しきこんな細胞を容認することはありません。 これがこのさ迷える細胞が、体の弱った部分や耐久力のない害を受けたところを、探さなければならない理由であり、この様な細胞が病気を引き起こし続けそれ以前と同様に形づくられ、こうして根付く原因です。 実際何かのこの様な悪しき思考が繰り返され、このプロセスが続き病的細胞が同じように存在し形成され続けると、それ以前の様な健康を損なう原因がそんな人たちの間に存在している限り形成され続けることになります。
 医師の方々が、この病変形成をメス以外で切除する以外にないと考えるのも理解できます。 しかし、この考え方ではこの病の組織はほぼ治ることはなく、癌は新たに形成され続けることになります。
 でも精神的な配慮が加われば、この様なケースの多くは治ります、特にやって来た患者の病気の原因を正し取り除ければ、その敵対するものとの和解がなされればです。 この場合だけ新たな癌形成から逃れることができます。
 私が患者の癌の患部を治療する時は、その部分に右手を、左手は右手の背後に置きます。 それから心を集中して祈り、左手から右手を経由して精神的治癒力を思念して送り出します、「愛の最高の力が現れますように」と、するとこの力が癌に浸透します。 この瞬間に悪しき思考はすぐ逃げだします、普通はですからその細胞に取り込まれ形成されていたその何かは残りませんし、肉体の細胞の中へとおよそ9日後には治癒力は吸収され、体の中ではですからそれは他の部分に同化します。
 もしその患者が悪性の癌の場合は、普通それはすぐ分かります、精神的治療では結果が出ないからで、治療後の癌は別の、それもいつも異なるところに形成され、決して同じ場所ではないからです。
 同じ状況下で形成された潰瘍は同じ方法で治療されます。
 以下にふたつのケースを挙げます:ある日若い女性が私のところへ友人を連れて来ました、乳がんに苦しんでいました。 その患者は次の日ある医院で手術をしなければなりませんでしたが、手術前に勇気づけられるために来ただけでもなさそうでした。 彼女は医院での診察では病変部周囲は14センチ、長さ4.5センチ、高さ1.5センチの大きさだと告白した。 私もこの診察結果を確認しました。 すぐに治療に取り掛かった。 5分ほどもたっただろうか、その癌らしき腫れ物はほぼ縮小してなくなったようだった。 1センチほどの小さな膨らみしか残っていなかった。 たぶん9日以内には手術をしなくても消えてなくなっていただろう、しかし患者はそこに入院していたので手術せざるを得なかった。 それはもはや診察時の癌ではないと医者たちも知って驚いたに違いない。 確かな検査後、その小さな腫れ物は癌ではないと彼らは気づいたようでした。
 私はこの女性が、なぜ改善したのか医者たちに告げなかったので、後悔しています。
 ある日患者がリトアニアのカウナスから到着した。 その女性はこぶし大の卵巣の潰瘍で苦しんでいました。 治療後私の家から出て、プラハのその宿に入る前には、その潰瘍は消えていました。 彼女の友達は同じ病気を患っていましたが、やって来ることはできず写真を託されたのでした。 その潰瘍は、私の遠隔治療後完全に消えていました。
 胃潰瘍が同じように消えたある患者は医者たちから不治を宣告されていました。 それによると余命はあと三日でした、栄養不足で彼は危篤状態にあった。 私の遠隔治療後の朝10時半、彼はすぐに起き出し、用意された食事を家族と一緒にうまそうに食べました。 彼の実の兄弟 P. の M. K. さんは、この事の成り行きの経験を私に語ってくれました。
 次の第4グループで全てを総括したいと思います。

組織的な病

 もし私が、「これらの病は治りますか?」と問われたなら、こう答えます:「全ての病は精神的に配慮することができます、しかし全ての患者がこの治療法をすぐに受け入れて良い結果を得るわけではありません」。
 精神的治癒については、患者の信頼、それが絶対に欠かせません、なぜならまさにその人が信じるであろう可能性が現実となるからです。 もし、信じる事でその人の状態が、その精神治療で好転するなら、それからもずっと改善するはずです。 もしも、完全に回復を信じれば完全によくなるはずです。
 懐疑的な患者は治ると信じることができません、つまりもし単純に治る可能性があると理解しているなら、私のところへやって来たまさに同じ状態に確かにいることができます。
 従って根本的条件は信仰です。 そう信じているなら患者がどう変わるかはさほど重要ではありません、それはその人の態度です、ですからその人は私の観察した提案の勧めに従います。
 この様な患者さんたちには、私たちのモラル的混乱が内在している、このことは我が国の卓越した C. ベズデク博士がその著書の中での経験で明らかにしています。 私も大変多くの奇跡的治癒のケースを見てきてわかったのは、単純なことで彼ら患者さん方の信頼信仰が足りないことが原因で治らなかったということがあります。(*訳注* モラル:人としてふみ行うべき正しい道、道理)
 私は私の力だけで治るなどとは決して思いませんが、キリストの偉大な愛があってこそのひとりの人間であるということも信じています、ですからこの愛の力が現れるのは、私を通じて、半分は患者さんが治ると信じることだと思うのです。
 信仰は力で、私たちを神の力に即座に結びなおすのです、そしてこれは愛であり信じることで獲得された力、私たちの隣人のために役立たせ救うことを可能にするのです。
 どうすれば私たちはそこに到達するでしょうか? イエスキリストは弟子たちにこう言っています:「私を信じ従う者は私が成したこと、またそれ以上の事を成すでしょう、なぜなら私は父と共に在るからです」。
 神の愛が永遠にあなた方を導きますように!

次は1931年1月26日に行われた講演の内容です

 神の平安と静寂が、私たちと共にありますように!
 おととい私はあなた方に信仰の計り知れない力について気づいて欲しいと少々重たい話をしました、それは信仰の持つ影響力だったんですが、今日はその例をいくつかご紹介します。
 ある日、20歳位の娘さんが運び込まれて来ました、体はほとんど動かせません。 手脚は炎症で腫れ、リューマチによって変形し石のように固くなり、手足の指の骨も変形し癒着し始めていました。 彼女はほぼ動けず最初の私の治療後、ふたりが彼女を連れて行きました。 それからほぼ一年間彼女の音沙汰はなかった、友人が私を訪ね、その知り合いのある家族を私に紹介するまでは。
 その家に入ると、たいへん感激した様子で娘さんがこころよく私たちを迎え入れてくれました。 両手を広げ笑顔で接してくれましたが、私は間近で見るその見知らぬ顔に困惑し、どこでお会いしたのか思い出せませんでした。 彼女に、以前私にアドバイスを求めやって来た誰かのお姉さんではありませんかと尋ねました。 彼女は満面の笑みでこたえました、私が治療したまさにその娘さんでした。 ほぼ動けずにいたあの娘さんの家族が私を招待したのでした。
 私は治療後彼女がどうなったのか分からなかったし、姿も見ていなかったのでびっくりしていました。 それで彼女に治療後どうだったか聞きました。 彼女はもう楽に階段の上り下りも繊細な手仕事もできるほど良くなったと言い、さらに申し訳なさそうに付け加えた:「これはみんな私が一年間ずっとそう望んでた」。 「そう望んでた?」、驚きながら私は尋ねた。 彼女の主張はこうだった、望んでたのはつまり私へのお願いだった、彼女が告白する事への許しでした。 そして私に言ったのは、その後の一年間、夜眠りにつく前の祈りで、彼女は自分の前に私といる姿を想像していたと、こう言いました:「私はあなたが親身になって助けてくれると信じ、あなたの力添えで治ると信じています」。 だから治ったのです。
 彼女を治したのはこの信仰でした。
 もうひとつのケースがあります:ある女性は扁桃周囲炎で苦しんでいました。 三日目彼女の病状は重くなり、牛乳のごく少量さえ飲み込めなくなりました。 医者も本当に心配していました。 事態が最悪になったと感じ、彼女は思わず叫んだ:「コチさんがここにいてくれたら、きっと治してくれただろうに」。 その瞬間一度だけ部屋の中で声がしたような気がした:「でもきみ、彼の写真もってるよね、だからそうしてみたら?」。 彼女は立ち上がると、私の写真を手にし、それに集中すると、頭の中で私と一緒にいるところを想像したのでした。 そうなったかと思うと、見えない何かがその手をとり写真を首に持っていった様に思えたのでした。 その写真が、扁桃周囲炎の患部に触れるとすぐに症状は消えていました。 このケースでも治療をもたらしたのは、信仰でした。
 この婦人は多くの人たちに知られた、雑誌にも掲載されたたたいへん忙しい人でした。 それゆえ奇跡的に治ったと皆のうわさになっていました。 その結果人々から私の治療を受けた結果の提供を求められ、その人も他の患者さん方にも満足する結果を提供することになりました(以下に出版社の注を掲載します)

 この治療法を勧める理由です、信じた人に確かな効果が現れますが、それは魔術的なもので支えとなる象徴を呼び出すことです。 パーソナルにコチさんに相談することができるものではありませんが、彼に通じるエネルギーの流れに接触するもので、それが目の前にあるとイメージするだけで充分です、その特徴的象徴の映像に集中し、それを自分の中にしっかり記憶するよう自覚することで意志としてのエネルギーが引き出されます、それは視覚的なイメージの磁気的力学的な、命に流れ巡っている抵抗することのできない素晴らしい力です、魅了してひとつにまとめるその光景にはまぶしいほどの輝きがあふれています。 それがしっかり心に焼き付けば、催眠状態になり気持ちは高まり心の能力は絶対的信仰で最高潮に達し十分発揮されます、慈悲や感謝と共に現れ、大切な魂に神の世界の勝利を誠の治療をもたらします。

 地域の猟場管理人の妻には癲癇の発作がありましたが、ある日本当に夫に頼んでいた私の写真が手に入るというこの知らせがはいりました。 彼女はそれを提供されましたが、それは持ち主が新しい写真を手に入れたからでした。
 帰宅途中その妻はまったく夫についていくことができず、夫にひとりで先に行って家事をするよう頼んだが、彼は家でその状況を案じながら、無事に妻が帰って来るのを待っていたのでした。
 彼女は突然、この様にひとり森の中で癲癇発作で危険にさらされ見捨てられるのではないかと恐怖を感じ、震えだしたのでした。 その瞬間持っていた私の写真のことが頭に浮かんだ、それをポケットから取り出すと、見つめて言った:「私はあなたが助けてくれると分かってます、危険から守ってくれます」。 危険な発作は起こらなかった。 彼女が家に着くと、夫は彼女の唇の血色が悪いのに気づき、危険にさらされるのを恐れて横になるよう勧めたのでした:「恐れるな」、彼女は言った、「お守りがある、だから守られもう危険はない」、そして彼に私の写真を見せたのでした。 その瞬間から彼女は、常にそれを身につけた、すると癲癇の発作はもう起きなくなりました。 彼女は私の写真で守られていると信じている、ずっと守られ発作はなくなったと。 またしても信仰が彼女を治したのです。
 さらにもうひとつのケースが:
 私が治療しようとしていた多くの患者の中に Kr.D. が治そうとしていた 6-7 歳の女の子がいましたが、全く目が見えませんでした。 彼女はおばあちゃんと一緒に私のところへやって来ました。
 その女の子は私に抱かれにやって来ると言った:「おじさん、私、あなたが治してくださるってわかってる。 イエスさまは病気の人たくさんあなたみたいに治したでしょ、だから私も治るの」。 私もこたえて言った:「そうだよ、お嬢ちゃん、治るって信じてるんなら、今日にもそうなるよ」。 実際、私の治療後すぐに見え始め、言った:「おばあちゃん、もう壁の絵が見える」。 おばあさんはうれし涙を流しました、そして私も。
 もう一例が:
 プラハ近郊に裕福な家族が住んでいましたが、12歳の女の子が6カ月前から病気になっていました。 プラハのふたつの診療所で13人の医者に、また他の医者たちにも診てもらったのでした。
 にもかかわらず彼らの努力は全く実を結んでいませんでした。 医者たちの診断に対する意見は一致、もはや望みはなくその子はもうもちこたえられないかもしれないと思われていました、長患いで衰弱し両脚も腫れてきていました。 それで医者たちは両親と共にこの診断結果に苦悩していました、この12歳の子は亡くなってしまうのではと恐れてもいました。
その夜、土曜日のことでした、ベッドにつくと母親はすがるような思いで、神さまにその子を救う方法をお示しくださいと熱心に祈ったのでした。 日曜日の朝、目が覚めると彼女は、奇妙な声で3回、その名前が繰り返されるのを聞きました、コチ - コチ - コチ。
 ぎくっとして彼女はすぐに何も聞かなかったか夫に尋ねたが、彼はまだ眠っていました。 夫を起こすと、聞いたその声のことを話した。 ふたりともいったいそれが何を意味しているのか考えました、すると夫が思い出した、それは治療に忙しい人の出版社の名前だと。 その翌日の朝1 0 時半 M.K. は私を訪ねて来て、すぐに女の子のところへ行くよう頼んだのでした。
 その医者たちの見解について私が尋ねると、彼は医者たちから腸チフスかパラチフスだと言われたという、が、結局検査結果では確かな事はわからず、何が原因なのか依然はっきりしないらしい。 私は心苦しかったが、訪問は断らなければならない、他の患者たちに伝染病を感染させるわけにはいかないからです、それで子供の写真を持って来るようにと頼んだのでした。
 M.K. にはそれがなかった、そこで私は別の治療手段を頼んだ。 両眼を閉じ、患者の姿を思い描くようお願いしました。 そして彼の右手と左手、私の左手と右手の手のひらどうしを向かい合わせて保ち、患者とつながるようにしました。
 この様にして、離れた場所から精神的治療が行われた、その間 M.K. ははっきりと電流や熱のような感じが流れたと感じていました。
 治療後私は彼に言いました、同時に患者に何が起こり祈りは通じたかすごく知りたいので電話で知らせて欲しいと。
 M.K. はこの要求を受け入れ、婦人が興味深いその事実を教えてくれました、まさにその瞬間、女の子から血液状の内粘膜が出て、それからはとても気分が良くなったのでした。
  その日、 13 時半、私は女の子の写真を手に入れ、次の遠隔治療を実施した。 この2回目では朝と同様な効果が生じました。 夕刻の 8 時 15 分前ごろ3回目の治療を実施。 かかりつけ医であるそのD.博士は、その時患者に付き添っていましたが、奇跡が起こりその子は治ったと認めざるを得ませんでした。 博士はこの知らせを担当医たちのひとりと話し合った時、M.K.家の女の子のケースは、科学的医学では分からない永遠の謎だと言ったのでした。
 3回目の治療前の夕刻 7 時ごろでした、M.K.家にはかかりつけ医も同席し、M.K.さんはもうすぐ私が再治療をする時間だと考えていたのでした。 まさにその時になろうとしていました、ベッドの足元の鉄枠にしがみつき、話すことも身動もできずにみな固まったままでいたのでした。 婦人と立ち合った医師、看護師もそれを見守っていましたが、そこで何が起こっていたのか分からず、 M.K.さんも何もできず、ただ見守るしかありませんでした。 できることはなく 8 時 15 分前ごろのことでした、患者の写真を手に私は準備し、治療を開始すると女の子のすべての症状は消え両脚の腫れもひき始めたのでした。
 医者は M.K. に尋ねた、催眠術か何かで暗示を与えられていたのだろうかと。 「全くそういうことはありません」彼はそう答えると、「でも今わかりました、医療科学が全く分からないとしても、神は私たちを助けお救いくださると。 ですから娘が治った暁(あかつき)には、お医者さん、ご報告いたします、そうなるはずですから」。
 この出来事が 10 月 22 日で、11 月 15 日には、患者はまず馬車に乗りました。 現在彼女は完全に治り、勉強に励んでいます。 ここに挙げたのは疑いの余地のない奇跡的ケースで、揺るぎのない純粋な信仰と神の力こそが、それを生み出すと分かる例です。
 次の例です:
 ある日モラヴィアの P. で大勢の患者の治療に私はてんやわんやでした。 その中にひとりのポーランド人の女性がいましたが、強い胃の痛みに耐えていました、胃潰瘍か何かができていたらしい。 たいへんな数の患者がいるのを見て彼女は思った:「この人たちは私なんかより重い病気に打ちひしがれこうして来ているのだから、私は遠慮して譲り、みんなが治療できるようにした方がいい」。 彼女は他の人たちのために身をひいた、そして代わりに大きな報酬を得たのでした。
 この出来事の夜、彼女は夢を見た、森の中をさ迷っていると、切り株の上に腰を掛け休んでいる私を見たのでした。 そうして休んでいる私を見ると、近づき言いました:「すみません、けさ大勢の患者さんに取り囲まれていたあなたを見てたいへんだなあと思いました、それで私もあの待っていた人たちみなの何か助けになれないかと思いました、それからここであなたにまたお目にかかりました。 でも今、こうしてふたりだけでお会いしていると、私はあなたに治して欲しいと思わずにはいられないのです」。 こう言うと、私が立ち上がり、神に癒しを乞い、その両手で彼女に触れるのでした。
 目覚めると容態はたいへん良く、起き上がると彼女は、病気が完全に治っていることに気づいたのでした。
 このケースでは、信仰と隣人愛がひとつになり、そのことで、この素晴らしい女性は治るしかなかったのです。 私ではない、しかしキリストの愛が、彼女の隣人愛へと報いたのです。
 もうひとつの例を:
 それはZ.B.での講演前のことでした、私は何人かの患者を診ていましたが、ある女性が現れ私にどうしたら良いか分からず言いました。 出産後3-4か月ごとに激しい腹痛に苦しんでいた。 医者は子宮が下垂しているので、もう妊娠はできないだろうと告げていました。 この痛みのたび、彼女は10日間ほど静かにただベッドで横たわっているしかありませんでした。
 私が初めてZ.B.を訪問する15日くらい前のことです、彼女はまたも発症し、ベッドで痛みに耐えていました。
その最初の夜から彼女はうめいていました:『ああ! 何て残念なこと、まだコチさんが、ここに来てないなんて、きっと私の病気を治せてたはずなのに…』。
 その瞬間彼女は意識を失い、同時に彼女のアストラル体がベッドのすぐ脇に抜け出し、そこに横たわる自分の肉体を見ていることに気づいたのでした。 すると彼女の感覚は舞い上がり空を切り裂きすごい勢いで飛びました、そして全く突然、私の存在に気づきました。 ですが私は全く気づいていません、彼女は確かに私を見たと思ったのでした、そして彼女は私にその苦しみから解放されるようにと祈りました。 その私は彼女の願い通りに私の両手を彼女の額に置くとすぐに何事かを祈ったのでした。 それから私は両腕をクロスして胸元に置き彼女の前に身をかがめました。
するとその瞬間彼女は飛んで元に戻ると、ずっと気絶していたベッドの肉体へと戻ったのでした。 彼女のアストラル・コルポは再び本来のあるべき肉体へと戻って来た、意識と共に彼女が戻ってくると、その痛みは消え去っていました。 彼女は起き、すぐに元のように色んな事に精を出せるようになりました。 彼女の全生体組織は、完全な状態へと回復し、その後すぐ妊娠しました。 一年後、その町を訪れていると、彼女がやって来ました、本当にうれしそうに、生まれたばかりの赤ちゃんを見せてくれました、そこにあったのはあふれんばかりの喜びと親御さんたちでした。 もう一度言います、信じるということこそが、この回復を助けたのです。
 この同じ町で、ひとりのご老人が相談にやって来ました。 彼は生まれながら足が悪く松葉杖で歩いていました、それは片脚が不自由でわずかに短かったからです。 診察部屋に入って来ると私は治療しながら告げました:『おじいさん、私は断固信じてます、あなたは治って帰ります』。 彼の反応はそれを確かに受け入れ感謝したようでした、そのことで彼はそれを信じたのです。 こうしてその不自由な脚の治療は始りました。 その第三段階めでそれは起きました、脚の上から下の端まで念入りに治療すると、私の手の中でその短かった脚は伸び、まっすぐに伸び力強くなったよでした、しばらく治療を続けると両脚は同じ長さになった。 彼は何の苦もなく歩き待合室の患者たちの所へ去って行く事ができました。 この回復はその治療が奇跡的成果を収めたとの印象を居合わせた人達に与えたのでした。
 この出来事から何年もたちますが、そのご老人はいつもしっかりと、杖なしでかくしゃくとしていた、そして私がその町を訪れるたびに、人々からこんな言葉を聞かされる:『あのご老人には全く驚いたよ』。
 もう一つ続けさせてください:
 ある先生が田舎からやって来ました、私に語ったところでは、彼の子供は年の最初には、その重篤な病から治っていたはずなのでした…。 彼は私の写真を姉妹から得て、病気の子供のそばへ置き、回復のために、子供は治るはずだと祈っていました。 『ただ今私の子供は病床にあります、私は自分に言い聞かせました、そして、どうしてもプラハに来ようと思い、駆けつけ個人的に祈って助けてもらおうとやって参りました』…。 私はただちに遠隔治療を始めました、その父親の手を取りながら…、そして彼が家に帰るとその子供は治っていたのでした。
 これが何を意味するのかについて私はあなた方に述べなければなりません、それはこの先生のお姉さんのことです、彼女が私の写真を手に入れたその経緯についてです…。
 彼女には6際になる女の子がいましたが、生まれてからこのかた立つことができず、いつも痛みに悩まされていました。 その母親は私の治療の話しを聞き、私に手紙を書き女の子の治療が可能かどうか聞いてきました。 この日、その出会いのその時まで私は思い込んでいたのです、しかし事実は全く違って、この訪問を受けた時の彼女の手紙の内容から、それはすでに奇跡的に治った彼女の子供の本当のところだと知りました。 そのご婦人が私に書いた手紙の内容では、私の返事が郵便配達人によって家に着き、手から手へと受け渡されたその手紙が彼女からその病気の子の部屋にもたらされたのでした。
 そこで、私の名前が口にされた瞬間、その子は叫びました:『おかあさん、私の脚なんともない』。 ベッドから飛び出して、その部屋をうれしそうに走り回ったのでした。 それが11月15日のこと、その瞬間からずっとその子は完全な健康を手にしていました。
 それは翌年の1月10日のことです、その子の母親は夫の書斎をきれいにするため、その部屋に入ると私の書いた手紙を目にしました。 その瞬間までその子が完全に治ったことを信じすぎていたとその後、このコチの治療のことを考え過ぎないようにとその手紙を焼き捨てたのでした。 しかしその手紙が炎で消えうせるとすぐに、その子はひどく苦しみだした…。 その我が子が苦しんでいたのは両脚でまた悪くなり、それ以上良くなることはなかったのでした。
 この母親はこの危険が過ぎ去ればと3日間悲嘆にくれながら待っていましたが、意を決して私に手紙を書くことにしました、助けて欲しい、どうすればよいのかと…。 そして彼女がペンを取った時でした、はっきりと私の名前をその子がベッドから言って叫んだ、するともう痛みはなくなったのでした。 その母親は、ですからこの吉報をその手紙で知らせることができ、そして私の写真を送って欲しいと頼んできました、これで分かること、それはこの写真が以後子供を守っていくだろうこと。 彼女は同時にその子の写真も送って来ました、いつも目のつく所に置いてもらえることを願って。 その願いは満たされました、そしてその子はそれ以来病気になる事はもうありませんでした。
 このケースでのそれは、この様に母親の信仰でした、何かがその幼い子供に回復をもたらした。 しかしその瞬間、彼女はその恩を忘れてしまった、私に頼るのは恥ずかしいとその手紙を焼き捨てた、するとその子はまた病気になったのでした。
 さらに興味深いケースが:
 1925年、色んな新聞が私の治療に言及しました、多くは好意的でしたが、誹謗中傷もありました。 雑誌も私の写真を掲載しましたが、その多くは出来が良くなかった。
 プラハのある事業会計士は、胃潰瘍を患っていました、そこで彼女はこれらの複製写真の一枚を切り取ると布地にくるんで胃の上に当てました。
その翌日、目を覚まし写真を見るとその写真像が完全に消えていることに気づいたのでした、それと共に胃の痛みも消え去っていた。 その日から彼女は治り、そして痛みもなくなりました。 彼女の『不屈の信念』がこの回復を産み出しました。
 次の事例を:
 H. でのある会合でのこと、私は祝福のサインで両手をあげました。 すぐに私は磁気的な流れが発散されるのを感じました。 この事実を確かめようと私は尋ねました、参列者のどなたかが治ったのではないか、と。
 6人の方が一度に手をあげ、治った感じだと言いました。 その内のひとりはユダヤ人少女で体が全く麻痺していました;両手両脚はゆがみ担架に乗せられてやって来ていた。 両手をあげイエスキリストの名前で祝福が述べられるとすぐに彼女は自力で立ち上がった、その両手両足で…。 その瞬間に完全に立ち上がり歩きました。 その病に悩まされていた哀れな少女は、私が祝福を述べたその瞬間に、そのとり付かれていた気持ちを脱ぎ去ったのでした。
 この少女と両親の回復できるんだという信仰は、クリスチャンの雰囲気の中にあり、それが治した…。(この会合とその治療は、コスタンツァ・チェコ団結協会の組織で行われ、この地域の骨格となるものでした)。
(*訳注* ”コスタンツァ”協会:は、聖少女アグネス:若くして殉教した聖少女の霊廟. ”コスタンツァ”はローマ帝国皇帝で初めてキリスト教を公認したコンスタンティヌス1世;在位 306-337 の名前..)
 この会合の翌日、私は90人程が一堂に会した患者たちを治療していました、そこは同じプロテスタント教徒会の司祭館聖堂の内空間でした。 この部会の人ごみの中に、その主治医はいました。 私の治療結果を、特にある盲人の回復例を見て、彼は意を決し夕刻その老女の所へ一緒に訪ねて欲しいと頼むのでした。 老女は、スペイン風邪の発熱後に麻痺が残り7年間出歩くことができなかった。 彼女もユダヤ人で、同様に治療は行われましたが、医者は、イエスキリストの聖名(みな)のもと治療が成功するかどうか不安を感じていました。 そんな不安も晴れたのでした、なぜなら、神の愛はまさにその子供たちを例外にはしておかない、この様に多くのイスラエル人ユダヤ教信者たちも癒すことができたからです。
 そこを訪れ私たちが見たものは、惨めな老女と家族、ベッドでかなり衰弱したその姿でした。
 私は頭から足先へと手当をして行きました、そして3回目の手当で彼女の両脚の爪先を持ち上げました、すると起き上がって座りました。 それから立ってベッドから出るようにとお願いすると、ついに立ち上がりました。 彼女は全くその様にできました。 そこで私は彼女ならできると励ますと、部屋の中を何歩か歩いたのでした。 その間の歓声の響きは窓から外まで感じられる程でした:『またも奇跡だ、すごい見て、おばあさんが歩いた』。
 その医者はあっけにとられ、そして私に尋ねました、そんなことがどうすればできるのかと。 私は答えました、それは私がお願いしたことを、彼女ができる状態になったと示しただけ、と、しかしそれ以上に私はイエスさまにその患者が治るよう祈っていました、その結果私の祈りが聞き入れられたのです、と。
 もう一例:
 U. のその町はプラハからたいへん遠い、そこにもうひとり全身麻痺の女性がいました。 その家族は私にその病を治すために訪問してもらえないか、そのための費用はすべて支払います、と手紙を書きました。 しかし当時少なくとも一日に70~80人というかなりの数の患者が私の治療を待っていました;その人たちみんなをその人のためだけに見捨てるわけにもいかず、また少なくとも4日の旅がそれに必要だった。
 そこで私はこのケースでは遠隔治療すると手紙を書きました、またその患者の為に指定日の夕方7時に私の同封写真を前に集中して祈りをささげましょうと、返事しました。 彼らにそう約束し、手紙で指定したその日その時間に治療を実行に移しました。 15日程するとまさにその患者から手紙を受け取りました、彼女は書いていました:『親愛なる恩人さま、私は何も待つ必要もありませんでした、私への治療のその日もあなた様が指定した時刻も…。 私の娘があなた様の書いた手紙を私に持ってきて読むのを聞いた途端に私は良くなったと感じ、そしてなぜか症状が消えて無くなりました、まさにその瞬間に私は立って歩けるようになりました』と…。
 この女性も、周囲の感情や雰囲気/ある種のスピリトや心情に囚われた状態でさ迷っていた、彼女は自分を見失い、そこに私の手紙と写真が到着したことでその麻痺は解消され、スピリトも本来の状態へと戻った…。
 数知れない私の治療ケースの中でいくつかは何もそれに付け加える必要がない…、それが示すのは信じる能力です。 それでもなおこれは、イエスキリストのみ言葉に尽くされています:『あなたが信じることであなたは救われたのです、その様であってください、もう罪を犯さないでください』。
 本当に私はこの言葉を強調したいと思います、いついかなる場合でもあなた方がそれを思い出せるように。
 しかしイエスキリストは、全ての病める人たちを癒したのではありませんでした。 彼の祖国ではいかなる奇跡も起こさなかったし起こせなかった、なぜならそこの人たちは彼を信じていなかったからです。
 沢山の人たちが私を訪ねてきます、でもみなが良くなるわけではありません。
 私はすでに治療には信じる事が必要だと主張しました。 信じる人には、奇跡というものは存在しません、なぜならもしも信じているのなら、全ては受け入れられると知れるからで、それは何かを要求している状況でそれが確かになること、その人の祈りが叶えられることだからです。 この様な人たちの信仰信頼、それはゆるぎのないもの、これがその人自身の内的な自然の力を操るのです;雨を嵐や暴風雨をやませ、そしてその実りは解き放たれるのです。 しかしこれを為すのに思い上がりや主張があってはなりません、これは自然万物に潜む自身の内面的な力なのです。 それには確かにそうだと気づかなければなりません、それこそが聖なる全能の力への信頼であり奇跡、熟慮の果実を得ることを可能にするものです。 しかしそれは奇跡が存在するということではないのです。
 人類、そのひとりひとりの到来、またその各々の発生事実、この説明不可能な謎こそが、奇跡です。
しかし、人間の精神がこれら謎の認識を得るとすぐに、奇跡は奇跡でなくなります。 (*訳注/別訳①* しかし、この難問である問いに人の心が気づくと、この奇跡は、その奇跡という存在としてとどまることになったのです。 *別訳②* しかし人がスピリト/心を得ると、すぐにこの謎である意識というものを得た、この奇跡は存在という奇跡となった。 …)
 近代の発見、無線通信や電気、自動車、飛行機や潜水艦などは、もはやユートピアの存在ではなくなった。 しかしもしも私たちの祖先が今日生き返ってこの様な物事を見たなら、すべてのこのような物事は確かに奇跡と呼ぶかもしれない。
 あなた方が何かを深く信じ実現することは、『自分ではなく創造主が内在し、そのような超越的事実が生じることです』、皆さんが成せること、それは物質主義から目を覚ますことで:つまりあなた方の時代においてもそれを納得させても物質主義者たちは否定し、そんな事実を否定する方が都合が良いからと言うかもしれません、しかしこれは自らを誠実に真心を持ってそれを探求すること、これが原因となり真実が生まれます。
 あなた方は試み、そこに到達し、この言葉を真実にするのです。

 次のこの講演内容を出版するにあたり、私はこの最後の事例を慎重に述べることを意識しました、それは私が以前の著書では省略していたジュネーブでの講演内容です。 ここで語られるのは広く知られたある家族とその出来事で、今でもなお生々しくそれを補佐してくださった皆様のことが思い出されます。 私はですからこのデリケートな出来事を蒸し返したくはないのですが、その講演の問題の内容を丸ごとここに取り入れることにしました。
 あなた方が実践的に結果を得ることができるよう、私は許される範囲でそのこと、どうすればそれをまさにあなた方が心で治療できるのか、またどの様に影響を与えその完全な健康を自分たちに取り戻せるのかをお話ししなければなりません。
 あなた方が病気になった時には、静かにし反省する、その後お祈りする、隣人には普通に接し、親切にしていただろうか何か思い当たる節はなかっただろうかと。
 誰かを恨んでなかったか問い正しはっきりさせる、心安らかに暮らしていたか、全ての人たちと調和していたかと問うのです。
 天地万物に対し誠実な愛徳を持つこと。 この精神状態に達した時、深い静寂にと心は研ぎ澄まされ、完璧な注意力と共にこれらの言葉が告げられます:

 『全能の神さま、私はこの人の病とその苦しみがふさわしいものだと理解しています、私はその苦しみを共にし、あなたの神聖なる法に背いています。
お願いいたします、私をあなたの神聖なスピリトで照らしてください、そして私どもの苦しみの原因をお示しください。
私はそれがあなたからのものではないと知っています、なぜならあなたは至上の愛、情愛深き父上さま、私どもを罰することは決してないからです。
 私は知っています、自分たち自身がこの様な不義を招いたことを、それは私への誠の裁きとして行われた刑罰です。
しかし全能の神さま、私はあなたとひとつに結ばれることを望んでいます。
いったいどうすればよいでしょうか?
私は罪深き存在だと知りました、それは私の意志がしばしばあなたに背いているからです。
 この瞬間、たった今からその全てを捨て去り、より良い命・気高き寛容・より純粋、そしてもっと愛や思いやりをもって精一杯努力いたします。
どうかこの私たちのこの心の内の敵をお許しください、慎ましく親切であなたを愛する存在でありたいと望んでいます。
このようにあなたとひとつになることを望みます。
どうか私をお許しください、神さま、優しい父上さま、私の本当の心を実現してください、それは私との神聖なる絆です、私はあなたの限りない愛の現れです、私はいつもあなたの中にいます、そしてあなたは私の父上、私を愛しています。
 おお! あなたは私の体を癒しています(この病める命を確かなものにしています)、そのあなたの至上の愛の創造のそしてそれを守る力で影響を与えています。
私は信じます、その力が私を貫くと、すぐ私は完全に癒されると。
私はあなたの崇高な愛をそのまま受け入れます、私の存在全て、魂、体を開いて、そしてすぐにこう祈ります:あなたの愛の力で私を満たしてください。』


 その結果あなた方は、それがどれ程の可能性で満たされ心穏やかであるかでその安堵の静寂を手に入れ、それはあなた方の内側の特殊な熱となって広がり恵みをもたらすのです。
そして即座に以下の言葉と共に感謝の念によって報われるのです:

 『ありがとうございます、素晴らしい神さま、この恵みに感謝致します、あなたは私を受け入れ、その癒しの愛で再び私たちを満たしてくださいました。 完全に治ったと私は信じます、私たちは治ったと信じます、私たちはすっかり治ったと信じます。』

 感謝し返礼する前に、いかなる詮索も疑いもあってはなりません、絶対的な信頼こそが必要です、そこに到達することで揺るぎないものとなり、神への感謝の念があふれ出てくるのです。 そんな人たちは、精神的な暮らし方においてより進歩的であり新たな経験を作り上げていきます。 彼らが理解していることは、私たちは食べ物や呼吸だけで生きているのではないということ。 人は肺で呼吸し生きていることに驚くのです、それは私たちにとっては未知であり、私たちの中で何かが代わって息づいている、つまりこの未知の力こそが精神的な力、私たち命として与えられているものです。
 あなた方は皆精神的治療を実際あなた方自身でする事ができます、そしてもしも私の勧めを確かに観察されれば、あなた方も確実に患者さんを治すことができます。
 これは素晴らしいことです、またこれは私のあなた方への祈り、神聖な愛です、あなた方全ての命を導いていたそれは、あなた方の心をいつも満たしそこにほとばしり出ています、この方法はイエスキリスト以上の後継者へとあなた方が成長するためです。

 このお話しの後、その「心理研究会」の会長は私にお礼を述べこの質問をしました:『もしその本質的な条件や状況のこの治療が信仰の中に構成されるなら、これらの治療はいったいどうしてある種の意識的信仰が欠けている幼く愚か狂った人類に影響を与えることができるのですか?』。
 私は答えた:『私たちは幼い子供であるがゆえはっきりとそれを主張していない、神の使いの天使、純粋な魂であることを。 こうした人たちについてキリストは言われました:その様な子供たちが私の所へ来るようにして下さい、なぜならその天の王国は彼らに目をかけているからです、と…。 私はその様な幼い子供たちが私の所へ訪ねて来るのを見ました、彼らの言い分は単純です:「私はあなたが私を見守っていてくれると信じます」、です…。 彼らは私に純粋に幼子(おさなご)であるよう振る舞った、それは彼らが依然信仰について何も悟っていないということ…。 しかし幼子(おさなご)の為に母親は信じている、つまりこれを通して幼子はまた癒されたのだった、ということ…』と。
 『精神異常のケアについては、家族の中に信頼のおける人信心のある人がいること、この人が家族の実際に気づかずとも私に患者の実状をもたらします、患者は信じる必要はありません。 家族のひとりの信心があれば充分です。 そうではあるのですが、この精神異常の蔓延へと希望の光を与えること、また正しい道を示しイエスキリストの聖名(みな)によってこの患者の心情的実体(アストラル体)を開放することが必要です。 患者は何も知らないし知る必要もありません、要は患者は異常に陥ったのであり、にもかかわらず患者は解放されます。』
 上述の2例には、常に患者が治ると信じる誰かがいることになります、そうでない場合には患者が私のところへ連れてこられたり、患者の写真を私が手にしたりすることはないでしょう。
 スイスでの講演の機会に、私は多くの患者さんを世話し治療しました、そしてその多くの方々や大切な人の病の回復でこれは裏付けられました。 精神治癒の紛れもない証拠として、私が挙げることができる感謝の手紙は数多くありますが、その中で、スイスの家族から届いた手紙を 3 通だけ挙げたいと思います。
 それは若い女の子で、ローザンヌの ラ ソース の診療所で治療され、腸の一部を切除する大手術(腸癌)を受けていました。
 執刀医は、彼女を全く絶望視していました。 当時私はローザンヌにいて、その哀れな少女の父親がその医師に私の精神的ケアを受ける許可を求めたのでした。 彼は、彼女が回復し、生き続けられるという望みをすっかり失っているようだったので、私にやって来てどういう結果になるか見ることに同意し、許可したのでした。 私は診療所におもむきました、そして次の 3 通の手紙のコピーでその後を語ってもらうことにします。

        ローザンヌ 1931年2月4日
     拝啓
 私の娘へのご配慮のことを伺い大変うれしく思います、15日前にあなたがお越しになり、ラ ソース 病院で私たちを受け入れていただけたことは喜びであり特別なことです、娘の健康はすごく良くなっています、ここ何日かはずっとよくなっています、食べ始めていますし、少しずつではありますが元通りになると娘も信じています。 私は神さまの恵みを祈っています、それは私たちの歩みにもたらされました、娘の置かれた状況は大変なものでした、先生方もこの病に対してはなす術もありませんでしたから。 そこにあなたは希望を与えてくださいました、それは信じるということです、あなたは私たちの魂を神さまへと近づけてくださいました、それから神さまは偉大な奇跡を為されたと私どもは納得しました、また願いも聞き入れてくださいました、今私たちの娘は確かに治ったのです。 この様になるなんてなんとありがたいことか、今は本当に幸せです、私たちはイエスさまにならい歩んでまいります。 私たちはこの喜び、娘の完全な回復についてお手紙であなた方にお知らせできるよう努めてまいります。
 ローザンヌでいつの日か喜びと共にお会いできることを望んでいます。
 みなさまに幸あらんことを、心から本当にありがとうございます。 敬具。
                                 A. ザリッリ

        ローザンヌ 1931年4月27日
     拝啓
 私はあなたの事を思い出しています、ローザンヌの ラ ソース 病院をあなたが訪れ、大切な娘が回復した時のその喜びを共にしたいと思います。
 あの日以来あなたに手紙を送り気づいたことがあります、それは最善を尽くしてくださっていたということ、娘は大変な危機にありました、死んでいたかもしれない、でもそれを大きく転換してくださいました、ここに至って私はそれが分かりました、と申しますのも私が受け取った手紙の中、あなたの考えがあの幼い娘の胸の内に絆として結ばれていた、そしてあなたがその精神的な治療を続けていたということ。 何週間も後のこと、それまで娘は栄養食でしたが、また食事を食べ始めました、本当にその時まで医師たちは娘が治るという風には期待していませんでしたし、そう言っていました。 でも私は良く分かっていました、そうならないに違いないと、それから誠の神さまが願いを聞き入れてくださり、我が子が回復するようしてくださっている、だから何の心配もないと。 私が誠の神さまに加護を願うことでそれは私たちの歩むべきその道と日々にもたらされ、あの医師の方々もあなたの祈りに添ってそれを認めることになって行くと。
 神さまは私たちの心の原理であり、愛と喜びの極みの為に人々を見守ってくれています。 娘は月曜からレザンで療養の為の日光浴をして過ごしています、そして元気になると信じています、機能の萎縮もなくなって来ています、破壊された細胞たちも回復するでしょう、完全に再生し回復するでしょう、なぜなら神さまは何でもできるからです。
 ローザンヌでまた喜びと共にあなたにお会いできると期待しています。
 あなたに幸あらんことを、尊敬と真心を込めて。
                                 A.ザリッリ

        ローザンヌ 1931年6月16日
     拝啓
 あなたの手紙を受け取りました、そして愛娘の回復の為に精神的治療を続けてくださっていたこと本当に感謝申し上げます。 あなたのメッセージ、娘への手紙をたった今手にしました、それはローザンヌの病院のある医者を訪問した時受け取ったものです、この回復には本当に驚いた、そして6週間でローザンヌで治った彼女を見たかったと医者は言いました。 そうです、神さまはそれを聞き入れてくださっていた、そしてそのほとんどを私たちは依然知らなかった、それはまさに奇跡でそれが起こった、つまりそれが私たち家族、キリストを信じる一家族を変えてくださったということ。
 ローザンヌでたくさんの患者さん方の喜びと共に、またお会いできる日がまいりますことを心よりお待ちしています。
 あなたに幸せと健康の恵みがありますように、尊敬と真心を込めて。
                                 A.ザリッリ

 

精神的治癒の働き その実体と本質

 長年にわたるこの活動において、私は精神的治療法についていつも質問されました。 私が探していたのはその各々に確かな指標を示すこと、何が私に可能だったのか、その根底にある何がこの力であるのかとの思いでした、そしてそれは神聖な愛とひとつになること、それがとても自然であると思えたのです。 そこに居合わせた人たちは、その私の治療法に興味を持ち科学的な説明を試みました(工学士のムラデク氏やその他の人たち)、しかし誰ひとりそれに成功してはいなかったのです。
 そうでないほんのわずかな人の中、アドリアーノ サンティ氏の記した件(くだり)に私はそれを見い出した:「こうして人は星々とひとつになる」と、私の治療法への自然で確かなひとつの説明、色んな問いかけや推測の全てにそれは答えている。 これこそこの本の「私という自我」の何かが内に放射され、癒しの証拠として、催眠術でも暗示でもましてやただの電磁気的作用でもない何かとして、その道筋を示すその何かであり、私が本書を世に出す理由です。
 アドリアーノ サンティ氏はその記録 『Sic itur ad astra / ラテン語* こうして人は星々とひとつになる』 の記述 177~179ページでこう述べている:
 【 それはヨウ素放射線の様なものか?(*訳注* ヨウ素放射線:原初では raggi Iodici :raggi は放射線や光 の意、Iodico はヨウ素の の意.また Io は 私.自分の意の一人称型、Io dico で私は言う dici になると 君が話す という二人称の意味になる.よって Iodici は 私のつぶやきと 君の心の語り が融合一体化した心の共有や共鳴ということ?か) まず「自我の私」の語りが必要ですが、その私の語りは以下につながります: 私に訪れた直感的なそれは、精神的不安の心理的原因を明らかにすることから始めるという着想の浮上でした。 まずこの原因を探る前に、私は聡明さと心の強さを身につけなければなりません。 治療を始める前には、患者の心理状態をよく把握していなければならない。 私は病の原因を見つけ出さなければならないのです。 患者の心の状態が分かったら、それに対しまず患者に何が起こっているのかわからなくても、つまり患者自身が気づかなくても、私は患者の為になる言葉を見つけ、その人の視線の動きや声を介して、心を勇気づけ治るようエネルギーを与えます。
 私はこの「私という自我」の神聖な愛の原理を強く呼び出します、それは距離に関係なく影響を与えることができる、その媒体は精神的な微細分子(ヨウ素的な波動)です。 なぜならこの放射線は実際に目的の方向に集中され、物質世界の基本要素と接触するからで、それは五感と関係するアストラル界(情感的領域)にあり、それはまた意識や認識という精神的世界を知る主体となるものです、ですから至る所にこの放射線は存在し影響し合い感じられるものです。 これは絆としてのつながり、どこだろうと心理的な障害やその主体の感受性を妨害するものとはなりえないものです。 またこの放射線は有害な様式では決して作用しないので、患者を最悪状態にはさせないのです。 しかしその主体がどこかあっちにそれたのでは、健康をもたらすことはできない、だからそれはある種の命のこの電流として表れ誰にでも生き生きとした流れとして受け取られ、癒し再生し健康や活気を人に与えているわけです。
 そのヨウ素の放射線はスパークし光を発する電磁気的な波、神聖な実体であり、さらには精妙なエーテルなのです。
 これは至高のコズミックな根源であり、至る所、人の純粋性にも存在する、善良、正直で活動的な何かとして神聖な愛の内にその人自身の意思と共に呼び出され、心の奥底その自覚から発散される、つまり外部へと放射されるこの放射線は「宇宙の精華きらめき」なのです。 この人の魂は、神聖で普遍的な法則の徳の力であり、その効力の源である、これらは流動して奉仕し相互に入れ代わり、知覚できる活力として強化することが可能です。 繰り返しますが、その達成はどこかに心理的な障害が見られたり曖昧さや因果の原理が満たされていないばかりか、要するにどこかその神聖なる法則がその患者をまだ解放することを望まず病に忍従するすることで、因果のまさにその法則を経験する状態にあることで良くなる機会を得ているということでもあるのです。 それにもかかわらず、ヨウ素線で病状を軽減できる場合もあります。
 それは神や万物への愛、神聖なる愛にある神聖なるエネルギー、ヨウ素線の波として活動力を与えています。
 最も難しいのは、確かな診断、それが心理的な場合です。 しかしいったん成功すれば、その多くは言葉、ちょっとした診断、心のこもった握手、祝福だけで充分です、なぜならヨウ素波がこれを助けてくれるからです。
 多くの病は、精神的な弱さや不備がその原因です。 そんな魂たちは、不安や狭量さを悟ることを恐れています、それどころかその原因に考えが及ばずその結果を経験したくもない。 これは単に崇高な課題なのです、その結末への苦闘です。
 物事を深く見通し本質をとらえる優れた判断力や見識を持つ人は魔術師ではないのです。 この見識を持つ人が、あらゆる場合に対して癒しをもたらすわけではありません、なぜなら神の法則は充分解明されているわけではないからです。 しかしできるだけ助けたい元気づけたいとは願っている、この様な人こそが、卓越した方法で癒す治療者です。
 私たちは「イリエ(*訳注* 原初では Ilje :旧約聖書のエリアという預言者の名前、ギリシア語の エリア Hλίας やさらにその語源と思われる 水平線から登り来て水平線へと沈みゆく太陽のような存在を意味するものの意もあるらしい)」のこの神聖なる愛の放射を仲立ちとして影響を与えている。 その力を発して満たすのは電気で、私たちはその実体の最高位のエーテルであるコズミックな力を伝えている、それは行為の内に希望へと変性され、魂の放射光となるのです。 きらめく放射光は不純物を取り除くよう働き(しかし影響されることはなく)メンタル体(*訳注* 精神的実体)へと及び、この放射光の性質には4つの本質がありますが、この「偉大な能力」に効力を与えることで私たちが望む恵みがもたらされ可能になります。
 この「自我の私」の光線は、生命エネルギーのヨウ素波動として永続的に創造されています、自然界原理の慈悲、この中心力がつまり精神的感知力です。 それには自分が何なのかを悟る必要があり、要するにその存在の状態を知る必要があるのです。
 全知の精神とともに自らが一体化していると自覚することは、主の純粋な愛への「私の自我」の究極的な光を活気づけることだと知ることを意味します、それはこの世界の創造者の全能の力、自覚の精神、存在を知ること、なぜなら人の「自我という私」は主と一体だからです。】

 私はA. グランネの書巻に、心の治療についての興味深い内容を発見しました、それを以下に引用します:

個人を越えたいのち

理解の鍵、それは心の内の至高生命

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 来たるべき身近な治療 

 【 みなさん、ここで私は、4番目の不思議を告白しなければなりません、それは幸せは他人と比較するものではないということです。 私は幸福であなた方の体を照らし、その他の方々にもその生命力を投げかけ行き渡らせている。 私はあなた方の魂や神経、また他の人たちの体の神経系とも協力し合い、人々の魂を元気づけています、優れた結果になるよう私の意志で効果が及ぶようにしている、あなた方はここではその4番目の秘密の人たちで他の人たちを癒す、それを託されたあなた方は、人々より優れているわけではありませんし、たとえあなたの方が幸せだったとしても、あなたの幸せは人々の不幸より重要なのでもないのです。
 あなたも第4番目の不思議の鍵の持ち主です、私は人々への奉仕の本質について経験を積んできました。 他の人たちは、あなたの様に経験を積んでいるわけではないのです、あなたの助けを待っているのです。 しかしまず何をあなたが私の能力から見つけ、その能力で治癒をもたらすかは、つまりあなたの中で私が確かなその知識を、また私の中であなたが、最初に「私は愛している」と言えること、そして何をあなたが知るかは私の中のあなた次第なのです、それは私がこの話し方をしているということ、あなたは治癒への私の献身を真似する人ではないのです。
 あなたはその時まで私の言っていることを理解することはないでしょう、つまりまさにその私という存在の何をあなたが正しく真似し信じているのかをです、なぜなら私は常に自分の意志を満たす私であり、その意志があなたの体にも流れ何かを完成しているからです。
 あなたは私の熱意や喜びを見て、その時あなたはおよそ私の希望の光を力強く支えているとその目で見ているのかもしれない。
 そして多分あなたは言うでしょう:「それは全て神の御業でした、つまり私は何もしていません」と。
 実際、全てのことをしているのは自分です;あなたは背伸びする必要もなければ何もする必要もありません、これは私の配慮です。
その間、ひとりの人格としてあなたが深く考えられない限りにおいては、自身を私に委ねることになるのです、そして一方で私は他の人たちへと私の愛情を通してあなたの身体へと希望の光を放射し奉仕をしているのです。
 最終的に、誰かの身体へと影響を与えることができる様になるには、ある種の治癒能力と共にあなたは欲望ではなく愛情や慈悲の心を持って親身に接しなければなりません。 他の人たちに私はこの愛徳というものが何なのか、加えて欲望や執着についても公言しています。 このメッセージはある個人や若者たちにはつまり素晴らしいものとなるでしょう、なぜならそれは私の深い幸福からの予兆だからです。
 しかしあなたにとってそれはひとつのメッセージ、その愛徳はもっとも繊細で優しいもの、欲望ではなく執着でもない、お互いの信頼関係です! もしこの段階の繊細柔軟な慈悲や思いやりを私が誰かに、この様な深い幸福感として与えたとして、その事がその人にとって無我の法悦として受け取られることがなければ、それは私が純粋な愛情を注いだということなのでしょうか?
 自分の愛がそれぞれの人へと放射され治癒力があるなら、その人の魂の奥深くへとそれは行き渡る、つまりそれでこそ新たな生命力が芽生えてくる。
 私はあなたがその体で献身し私のようになれる事を期待しています、そして自らの生き方で愛情を与え人々に影響を及ぼさんことを… 。 私はあなたがこの希望を与え、その善悪の自覚で、私のようになるのを待っています。】

 私はこの説明に幾つかの言葉も加えたいと思います。 それは心の静寂と無条件の専念/集中力、各々のケースにはこれが必要です。 私は祈りに集中します、祈り瞑想しながら、患者へのキリストの救いを祈願します。 これが流動体を誘導します、それは私の手から出て、もし私がその手を患者に当てると、この瞬間にその人は例えば特殊な電流や熱の様なものを同時に感じます。
 すべての医学的治療が助けにならないと判明しない限り、患者はこの治療に頼るべきではありません。
 精神治癒の効果を感じるには、揺るぎない信仰が必要です。 なぜなら、「あなたの信仰があなたを救った」というキリストの言葉は常に当てはまります:これらの言葉が科学的医療にも当てはまることには意味があります、ですから、患者が医師に完全な信頼を寄せていれば、つまり処方された治療の効能を信じていれば、より早く回復するでしょう。 しかし、病人の信仰と信頼が欠けていれば、どんなに優秀な医者でも治すことはできません。
 心理治療を受けるには、手紙による事前予約が必要です、それで患者との面談が決まります、プラハへの無用の訪問をしないためです。
 自宅での診察に関しては、例外的な状況でのみ許可されます。 病院への訪問は、管理者または主治医の許可があった場合にのみ行うことができます。 精神病院でもそれは同様です。
 精神異常者に関しては、個人的に治療する必要はありません。 患者の写真を送ってください、それで充分です。 遠隔治療を受けた結果、その後患者が精神病施設から退院できたケースは数多くあります。 癲癇(てんかん)の場合も同様で、それは本人の意志では払いのけることのできない外的観念の存在によって引き起こされます。
 ここでの質問について:この方法でどんな病気が治るのか? 私の答えは、そこにあるのは精神的配慮で治すための病気ではないというのが重要な点です。 そうではなく、すべての人がこの配慮に反応するわけでもなく、アドリアーノ サンティはその記録で述べています。
 この方法で健康を取り戻した患者は、医師のもとへ行き、説明する必要があります、つまりどのように治ったのかをです。
 最近では、このような心理的ケアに興味を持つ医師が多くいます。 したがって、できるだけ多くの事例を研究する機会を与えることが必要です。 もし私が治癒した 23,000 人の病人全員が医師に誠実に告白する勇気を持っていたなら、今日医学は限りなく進歩し、何千人もの人が病気から解放されていたでしょう。
 医師たち自身も確かに心理的配慮に頼るかもしれませんが、それは科学医療がどこか効果を発揮しない時です。 しかしそれにはまずもって、治ったケースの相当量についての気づきが必要です。
 人類が利己的であることをやめ、その生き方を神への献身この隣人への幸福のために捧げることを学んだ時、つまり純粋な生き方を送るようになれば、ほとんどの病気は消え去り、現在の方法に従う医者はおろか、霊的治療師さえももう必要なくなるでしょう。 将来の医師の任務はむしろ、人類をより高貴な生活に向けて教え育み、病気を予防し、その発症を阻止することになるはずです。

B.コチ



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