



--- ジュリアーノ、読者への言葉 ---より(一部)
これらの対話は、数少ない友人たちの手によって出版されました。
私は、それらを再読も練り直しもしていないし、私の研究仲間が、適切に編集したもの、私を煩わすことはなく、また再び感じることのできるものでもない。
それは少なくとも後世の人たちへと伝えることを可能にしたもの、そのおしゃべり、何の評価もされていないし文学的美点も持ち合わせていない。
最愛のそしてヘルメス哲学に魅せられたある信奉者の今は亡き彼は、名もなき”友”とのこの会話が維持された速記をするという困難を引き受けてくれた。
その”友”は、学士号を得た科学者でポジティブな実験者、感じがよくなかなか信じない裁判官のように疑い深く、私の古めかしい提示を習い聞き信じない、それは、私の主義原則に対しても当てはまっていた。
そして今は私たちの考えに転向した。
その友(科学者)は、命の課題と情愛としての人間精神というものを研究している、そしてある見地からそれは大学に属するところの研究ではない。
対話は普及プランに沿い解説しようとすることを除けば良くできている。
また、普及するのは何か?教理か?信心か?新しくされ続ける宗教か?
そして、誰もそれを考えることはなかった。 肯定的にはこれは、探究、リサーチであり研究、イデアや理想というか、意思によって推定されたもの、誰かの中に取り込まれ準備され働き始める、これは飾りではない。
一般大衆は、夢物語が好きであり、その探究調査への苦労というものはない。 好きで魅了される素晴らしいもの、それを感じ話すということ、そのお話のたぐい、それは、幻想力に弾みをつけ、そして動き始める、好きで魅了され希求するもの、その魔法、魔術は、意識的あるいは無意識的なオルフェウス(*訳注* オルフェウス:直下の オルフェウスの冥界下りを参照)性であることと関係する:ひとりの女性に愚かにほれ込むこと、あるいは敵を討つこと、飽くことなき繁栄を手に入れること、病や困難を克服すること、命というものをふくらませること、そこに取り巻きまた献身する全ての人々を専制支配すること。
スピリティズム、霊的主義が好むものは、何物にも囚われず死をも越える確かな命、それは”幻影”であり軽妙で喜びに満ちた、重い物質的肉体の傲慢を必要としないもの、それには働きの限界も煩わしさもない、それは空間から空間へと転移し影響するのです。
オルフェウスの冥界下り ---ウィキペディアより
オルフェウスの妻エウリュディケは、毒蛇にかまれ命を落とす。
悲しんだオルフェウスは、妻を取り戻すため冥界へと下った。
竪琴の名手でもあるオルフェウスの切ないその音色に、冥界へと続くステュクス川の渡し守カロンも、冥界の番犬ケルベロスもおとなしくなり、冥界の人々は皆、魅了され涙を流し聞き入った。
ついにオルフェウスは、冥界の王ハデスとそのきさきペルセポネの王座の前に立ち、竪琴を奏で、エウリュディケを返してほしいと懇願する。
オルフェウスの切ないその音色に涙を流すペルセポネに説得され、ハデスは、「冥界から抜け出すまでは決して、後ろを振り返ってはならない」という条件のもと、エウリュディケをオルフェウスの後に従わせた。
目の前に光が見え、冥界からあと少しで抜け出すというところで、不安に駆られたオルフェウスは、後ろを振り向き妻の姿を見たが、それが最後の別れとなった…
対話 その2/9
--- 対話の要約 ---
見えない存在たち ―― 古代人たちの出来事には神々への信頼とその仲立ちが存在している ―― キリスト教、保護者としての天使 ―― 見えざる守護者への信頼 ―― 争いの不可避性 ―― 天使たちの戦い ―― 大天使ミカエルと堕天使ルシファー ―― 国々や人種民族間の争い ―― ローマ帝国滅亡と中世暗黒期におけるキリスト教の役割 ―― 人間に秘められた能力 ―― 私たち学派の人の成り立ちの概念 ―― 平等性:自分たちをどう理解するか ―― 権利と義務 ―― 人間をひとつにする感動 ―― 苦痛の伝達 ―― 魔術は単純で見えざるものと直感との類似を推理することである ―― 情熱と忍耐 ―― 人類の進歩獲得は魂の苦悩の産物 ―― 魔術哲学と熱望 ―― 白魔術と黒魔術 ―― 私たちの時代への理解 ―― 公平性は偏りのない統一イメージとして完成される ―― 生命の神秘概念 ―― あきらめや失望という病 ―― 限りなき人類の可能性 ―― 全人類が聖フランチェスコのようにしていたなら私たちは何を得ているか ―― 人の内にはルシファーが存在し全ての進歩獲得をおし進めている ―― 死後の課題
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- 科学者
- さあ約束のその日この時となりました、それで、白状しますと、待ちきれませんでした。 私たちはサトゥルヌス神について深掘りしていましたが、どうしてかは分かりませんが、あなた方は話を延期しようと、時刻の進捗を機に佳境になろうとしていた小鳥のお話しやらも中途半端なままでした。
なんとそれは、私たちには見えない人たちの命が、人の生活と偶然にもつながっている可能性があるというお話で、私たちの五感では誰も気づけない;ですからこれは私たちのよりどころとなる生活の様態であり、これら未知の人たちの介在によるもの、そしてそれらの未知の友や敵たちは時の経過の中で私たちの味方になり敵になったりと、言わば子供たちが戯れるスポーツのような存在なのでした。
- 思い返してみるに、私にはこの様な記述はボッリ医師やヴィッラルスたちの記した内容の復刻のように見えますが、そうした人たちの巧みな言葉、北欧神話などの精霊や妖精、サラマンダーなどと関係があるように。
- (*訳注* ボッリ医師やヴィッラルス:ジュリアーノ以前の医師や司祭たちのことを言っているらしい. サラマンダーは伝説で火の中に住む火トカゲ. )
- ジュリアーノ
- あなた方と同様その人たちのことはよく知っていますが、人類はみな普通にこの命を生きています、ご発言の通りに人はロマンスに満ちた人生を生き、見知らぬまた気づかぬ存在と共に生きている可能性はあります。
しかしこの物語という航海が現実の中で、言い換えれば一時的にでも部分的に可能であったなら?… すなわちこれが謎のままに介在し限定的であれ起こったなら、私たち人の生活に偶然ドラマチックに起こっていたんだと思うでしょうか?
もしかすると人はこれらの推理や直感の全てに対し自由に散策し、哲学的対話に大いに専心することで、この不思議とその素晴らしさに達することができ、人類のこれらの能力は普通になっていくのかもしれない。
そんな古代の詩的概念が受容され、そこに介在していたのが万人にとっての神聖であり争い、そして民族間の平和であった;それらはまさに人類であり、地域間の紛争そのもの、つまりそんな地域のまた敵対する地域のそれ、これこそがここそこの神さまの庇護と名誉としての主張となり、人々の無敵で不死身のあるいは決定的な勝利の存在となり人々に報いて来たのかもしれない。
この信仰、あるいはこの様な優れた神聖という見方を仲立ちとしつつも、人はキリスト教の始まりから私たちまで何世紀にも及びそれは引きのばされて来ているのです。
これらキリスト教の争いの伝説、そこには楽園の多くの神々が介在していました、部隊で戦う信仰に厚い者たち、対する異教徒たち、彼らは無数に存在していた;さらに後の宗教戦争の時代にも同様の有り様を繰り返し神話のトロイ戦争の時代のよう、さらに十字軍、近代、そして私たちのただ中においても同じなのです。
つまり人が常に望んだのは、危機にどう対処するかということ、その社会生活を助けるもの、ご利益に天分に恵まれより真実と思える人類にとっての成果を得て、それを可能にする結果を得ることです。
この疑問点は、ですからこれが本当だったかどうか?、それを振り返ってみる人の魂には疑問が不確かなまま残り信じることはできないのではないかということ。
いったいその人は誰なのか、その時の救われた人、勇気づけられた人、どこかの神さまや天使また聖母さまから愛された人のことなど、感じることはないのでは?
それはすごい霊的現象だったということではなく、単純にその人がその状況その特定の困難な瞬間にそう感じたということ、その人にとってはものすごく素晴らしいことで守られ、未知の非常に大きなこの助けが起こったと評価しただけだったのです。 人には心の奥深くに、汲めども尽きないプライドの泉があります。
これが介在し語り掛けてくるもの、その人を守ったり親近感としてやって来る実体であり、好都合だからではなく、本当に守ってくれるもの、言わば天の主や天啓への信頼、まさにその人自身の関心事とでも言えるものだろうか…。
この様に時に困難なあるいは惨めな状況において、人は外的な見知らぬ人からの助力という介在を最も重要で本質的な思考の奇跡と感じる、それは見えない偉大なる導き手からやって来た救いという何ものかである、と言うよりもそれは生きる本質的な生命力、アイオーン(*訳注* アイオーン:至上存在)かもしれない、この世界存在と共に生きている私たちと交わりつつもその接触を感じない何か、介在しながら共感や愛情として、また守り養ってくれるお気に入りの人の様な存在である。
この課題は良く理解して欲しいのですが、我々のヘルメティズムはスコラ学派の魔術で、どの程度信じられているかは大いに重要、そしてそれは死者たちの魂を信じることや墓の向こうの命と結びつき人々には最も自然で素朴なイデア、限られた知識、最もシンプルだが、目をくらますような絶対的なものとまではなっていなかったのです。
これは一面的な見方、スピリティズムでは全く平均的で見えない実体に必要なものだと記されてはいるが、著名偉大で名うての死者のことを記したものでは決してなく、示されているのは人のプライド、また時に肉体とは異なる何かで、決して疑問視されなかった話し相手、師のもとで下働きするような存在だったようです。 あなた自身もそんな何かを普通に受け入れている、と言うよりも目に見えない守護の、聖母や聖人また天使への信頼などを想像することはできる。 とは言ってもキリスト教では、古くから信者にはしっかりとこの魂が刻まれています、誕生において人は守護天使に伴われ、偉大なる父によって悪に結びつく何事にも対抗でき自然に私たちが守られるようにと。 私たちはそれが何かを想像しなければならない、ダイモーンなのか、悪意のアイオーンなのか、見えぬ世界の邪悪な存在なのかと、でなければ人はその隣にいるある種の性質の何かを深く考える必要がある、言い換えればそれは邪悪な天使なのか、もしかすると善良な天使ではなかったのか、自分たちには破滅の可能性もあるのか?と。(*訳注* ダイモーン:古代ギリシアおよびヘレニズムにおける神話 宗教 哲学に登場する 「人間と神々の中間に位置する あるいは善性あるいは悪性の超自然的存在で 下位の神格や死んだ英雄の霊など」を指す wikipedia) この様にして人の信仰は古代から引き継がれ、ふたつの資質、善人とその敵対者との間で対立して来ました;そしてこの様な出来事に人々は自らを省みることになり、善人と悪人とに分け一方を他方のせいにしてきたに違いないのです。
もし警察署長が私たちを見守っていてくれるなら、人生の大道に寄り添い共に歩んでくれるに違いないが、この意味するところは、怪しい姿の人たちがいて武装された警備の守りもなければ、その歩みの曲がり角の私たちは、財布を奪われるか殺害されるということ。
- 科学者
- この守ってくれる天使は、何かその辺の事を考えたいと思わせてくれているのかもしれない、見えない人たちの可能性や、これは真実なのかどうか、と。
- ジュリアーノ
- それはプライド、世界が世界として存在している時から、最も美しいものとして存在していた、死せる惨めな私たちのためと主なる神さまが与えたもう安心、人類がいまだ手にしたことのない平和や安らぎである:男と女は激しく葛藤し誠実にお互いを理解し合い受け入れますが、つまりそれは私たちは仲間だと思い利用することです。
この戦いは、人間の血の中にあります:戦いの犠牲がいったい何を意味するかと言えば、人は内心では周囲からの横暴を望んではいないということ。 争いには情け容赦なき言い分というものがあるが、それは死ぬことでも犠牲になることでもなく、ましてやこの地表から姿を消すことでもない。 人間は、その性格を変える必要がある。 これは天使と大天使の闘争のモデルとして始まる、その時一部の天使たちが天から追放された。 ミカエル対ルシファー、天使たちは激しくやり合ったらしいが、打ちのめされた天使たちのそこには何ひとつ神聖さは表現されていない、そして争いで高きから地に転落した天使たちはずたずたになり、その本来の命を全うすることなく消え去った(*訳注* ミカエル & ルシファー:ミカエルは大天使. ルシファーはサタンと同一視される反逆天使. 明けの明星という意味もある. )。 これは人の高慢が引き起こしている民族的うぬぼれ、そのことをヴィーコは良く理解していました。(*訳注* ジャンバッティスタ ヴィ―コ:はイタリアの哲学者 歴史家. '諸民族の共通性に関する新科学原理 Principi di scienza nuova di Giambattista Vico d'intorno alla comune natura
delle nazioni colla vita dell'autore scritta da lui medesimo' の著者 日本語訳和書名は '新しい学' 正確には 'ジャンバッティスタ ヴィ―コの著者自身の生活と諸国家に共通内在する本質の新科学原理について'
) むさぼりの狼から優しき天使へと人を変えるその役割は、キリスト教へとゆだねられたのでした、それは絶対的な神さまのお告げ、ローマ世界の野蛮な民たちからの勝利、長く暗い中世の夜、狂気と無知に包まれた知性不毛状態の偉大なヨーロッパに、何か秀でた知力のようなものが姿を現そうとしていた。 古代ローマ世界に、ヘブライの勝利が?(*訳注* 一説によればキリストはヘブライ人だったと言われる. ) 全能神エホヴァが我が子に十字架に掛けられ死すことを命じたのは、古代ローマの民たちが奴隷のように扱われていたことに報いるためだったのか?
- 科学者
- 聖ペテロはその鍵のひとりで反戦主義を生み出す、それは誰しもが望んでいた天からの恵み、人がそれを地上に生み出さなければならない、自分自身そして仲間たちの為に。
- ジュリアーノ
- すばらしい!
- 科学者
- しかし現在このキリストによる贖(あがな)いの努力が成し遂げられたことで、人が罪から解放されたのかどうかは私には分かりません。 あなたが一時現実離れした救済についての推測話をした時には、それを理解できませんでしたが…
- ジュリアーノ
- 実際それは推測、疑念や疑い。 と言うよりも、これは真理で人というものがその様で、神々も見えない半神も存在しないとしたなら、要するに何も感知できないのではないのか?そして生ける人間の組織から何かの力が発散放射されたり蒸気のようにその辺りの活動へと無意識的に影響を及ぼし、そしてたびたびそれらが最終目的の活動目標へと示されていたのかもしれないのではないか? このヘルメス哲学は、要するに生きている人間のコントロールされていない能力を真に研究する科学を持ち合わせており、この調査方法で実験し、人間の気づかぬ隠れた能力や実在する力に注目しているのです。 当研究会では、人間を地球に生きる存在として解釈しています:もしも私たちがみな、空気、水、火、土の混合物であるなら;私たちはみな同じ組成で構成されていて、人と人のコミュニケーションのつながりには関係があるのは当然なのかもしれません、思考はヴィジョンであり、感触や聴覚、臭覚でもある、まず思考が行為の内に展開され、そこで外的結果として各々の感覚が感じることができたかどうかチェックされているのかもしれない。 言い換えれば、人々が解釈している領域は、別々の感覚が層のように重なり、それらを人は多様なコミュニケーションとしての積み重ねとして解釈しているのかもしれません。 当研究会の到達点としては、人間性はひとりの人として解釈している、一体化したひとつの集合体 ―― ひとつの合成体、これはひとつの小さなユニットに相当し、集合によって構成された要素が一体化したものだと言っている。
もっと言えば、このコミュニケーションを確立することは、人類全員の間での道理の確立も望まれるが、現状それは無線電信の手段と似ていると言えるかもしれない:神経波の放射、エネルギーとしての思考、その電気的放射だと。
( *訳注* 4要素の 空気 水 火 土に関連して: ―― インド伝来の仏教哲学では人間を構成する5つの要素/5つの動的炎・エネルギーとして、五蘊(ごうん:5つの要素/相の集まり
統合体)という捉え方がある。
色・受・想・行・識の5つの方法論、5つのエネルギーが影響し合い心が生まれるとする説である:
色 material:肉体あるいは物質を含む物的環境、またその働き
受 acceptence:感情や感覚を心が感受する受け入れ作用
想 perception:対象に対し、物事のイメージ/像/印象などを統合する概念作用、統合感覚
行 will:対象に対する意志作用/欲求作用/何かを形成創造しようとする作用/運動作用
識 reasonation:対象を論理や言葉などで識別する作用/認識し判断する作用/reasonation 理由付け/分別思考=主観と客観の分離
これらの5つの炎、動的エネルギーの動きが心を構成するという考え方、この心も自然界の本性の一側面であるとする説
→ 脳外科医浅野孝雄氏の心と脳に関する研究より )
- 科学者
- これこそ人類の友愛という考え方です! しかし私たちはデマの洪水にさらされ、考えることとすれば、人々の権利や義務の平等についてです。
- ジュリアーノ
- 平等、もっとはっきり言えば、同一、原理としては;実際人間は全く誰も同一ではない。 みな同じ肉体を持ち、みな同じ独自の動物種である;しかしその生体はみな実際大きさや体重、じょうぶさや進歩の程度で異なり、獲得能力も違います。
私たちはスコラ学派だと言いましたが、この理解の仕方の利点、それは良識を伴うこと、人間の感覚論は誰にとっても同じだが、感じ方は文字で表現されるものではない。 どんな児童のクラスでも、児童たちはみな未熟な時期であり、どこも同じとは言えない;これは間違いではないかもしれないがクラスという言葉は大いに不適切で、鼻水たらしの集まりでは身体的にも知的にも互いに異なる、それだけでなく身体的特徴、またとりわけ発達に関しては早熟の小さな玉ねぎみたいなおつむでは。
この様な考えが理解できなくても寛大であってください、すぐにそれについて明確に話せるようになります。 ゆっくりと歩を進める必要があります、でないとこの対話が思うほど明確に理解できないことになるかもしれません。
しかし、この事実はもっと注意力散漫な観察者でも確認することはできるのです。 学校の児童たちの集まりにはクラスなどという分類は当てはまりません、しいて言えば各児童には色んな価値があり異なる指標が必要です;先生たちもこの違いの事はよく理解されています。 そして学校のクラスの中と同様、外の大人の世界の違いはより際立っている、カテゴリーや範疇に関するこのクラスという言葉は不適切に使われています。もしもそれぞれの人を具体的数字で表せたとして、何十万人もの人々の内のふたりの全く同一を表す指標を把握し、同じ進歩の、同じ身体的活動や知的な能力の階級を示すなど、ほぼ無理でしょう。 私たちにとってのこの事実は、例えば、指紋が人それぞれで異なり、大多数の内のふたりは同じではなく、物理的に人々をひとまとめにして解釈することはできない証明です、ひとまとめ、人々を同一視すること、これらも数字を
10 に制限するのと同じです。
- 科学者
- つまりあなたの学派は、人類全員の権利や義務の平等という主張を否定し続けるのですか?
- ジュリアーノ
- 先走らないでください。 当ヘルメス学派は、社会の一員として生きている人たちの義務と権利はみな平等だと考えています。 これは原則であって実際は、それ以前に、市民社会に何を与えることができるかと言えば、ミケランジェロ ブオナロッティ(*訳注* 芸術家) や マルコーニ(*訳注* 無線電信発明家)、ジュセッペ ヴェルディ(*訳注* 音楽家)らは祖国に貢献し、対して、役立たずのターレやへたくそメヴィオ、おべっか使いのセンプロニオらは貢献しないし何もできない。 最初の人たちは特別な資質を持っていますが、後(あと)の人たちはそんなことは何も考えない。
ですからこの平等には実際に事実が存在し、それに見合うだけの絶対的価値と、個人の他者に対する肉体的特徴に関する外的な類似相対の何かがありますが、その特徴は他人と同じではないのです。
- 科学者
- これは微妙で神学的だ!
- ジュリアーノ
- では代わりに、具体的な事実確認を! 学校や訓練施設また社会生活の大多数の個人で何が現れてくるか、何で成功し豊かになったか、これらは広い意味での何かの指標を人は常に持っているということ
―― 人は他人の持っていない何かの資質を与えられたのです。 誠実か不誠実か、正当に獲得されたものかどうか、それは本当に価値あるものなのかどうかなどと詮索しないでください。 これらはモラルや正しさの根拠の問題です。 事実がどのようなものなのかシンプルに確認しましょう。
- 科学者
- あなたが言いたいことが分かって来ました:人はみな平等ですが、それは部分的で公共での物的また心的な面でのこと;しかし異なるのはその進歩やこれらの事項自体の日常への適合面、ですから最も進歩した人たちとそれに及ばない人たちの働きや生み出すものは、与えることと受け取ることで同じではない、ここにあるのが権利と義務である。
少しはっきりしてきました。
- ジュリアーノ
- もしそれがよりはっきりしてきたと思えるなら、そいつぁあすごいことになるかもしれんよ ―― でも、君は共同体としての人間どうしの何がその基礎たりえるかもはっきりさせなきゃならん、何が平等を信じさせてるかをね…、そりぁあ
感動だ ―― これをたやすくしてるのが感動で人を思いやる理性だ ―― 異なる程度の中で何が明らかになったか…、それは、ひとりひとりはみな偉大な家族そのものでありその一員だということ。
これは同情、例えば、同情はそれを感じる集団の情動の原因になります。 人に同情することは、この痛みを感じている人と共に耐えることを意味します。 それは一種の感情に基づく感動であり、他人が何かを語る時感じる忍耐力が私たちの中に浸透した状態です。 もしも人が苦しみに耐え苦悩の叫びを発したなら、他の人もみなその叫びから苦痛や苦悩を自分自身に感じ取り、まったく自分のことであるかのようにもだえ苦しむのです。
とあるところとある場所でもしあなたが一匹の犬をたたけば、こいつは苦しみ、周囲の犬たちもみなうなりその犬のように吠えるだろう。 またもしもその傷ついた魂がこの虚空の本質へとそれを放つなら、その受けた傷の痛みは激しい、と、魔術師は言う…、すべての他の生ける魂たちは等しくこの虚空に存在し、この苦痛からの影響を自らの身に受けるに違いない、と。(*訳注* 犬の話は第一対話でも語られた. そこでも犬と飼い主との相互の影響のことが言及されていた. ) 人類はみなこの他者たちの苦痛の影響力を被(こうむ)り感じている、しかしこれらは無意識に侵入してくる、憂鬱になり悲しみ心は動揺する、意気消沈し他にその原因を探し求めるのです。
魔術師は言うのです:君はここ最近の痛ましい戦争、その長く苦しい影響を正確に推測し特定できるか?と、それは人類のまた人格の一体性、そしてヨーロッパ内外の魂となった獣たちのことか?と。
いったい誰が言えよう、そんなものの影響などはなかったはずだがと、それは巨大に積み上がったもだえと苦しみ、ここには 1918 年から今日までの状況を推し計り学ぶための様々な学びがあるのではないだろうか?(*訳注* ジュリアーノは、第一次世界大戦終了の 1918 年後に行なわれたこの対話の時期のことを言っている、彼は 1930 年に亡くなっている、その後の
1939 年に第二次大戦が始まる. 今を生きる私たちにも戦争について考えるこの課題はずっと突き付けられている. ) 誰が確かさを持って言えよう、そんな凶悪な考えの波や中毒を引き起こす大気、叫び、死などないではないかと、そんなものは過ぎ去りこの地上の大気中の大切なものをはるかに越えて行ったはず、我が太陽系の惑星たちに生きるものたちをそんなものがいったい射抜いているんだろうか?と。
ゆえに結局何を誰が明言できよう、そんな何かは悪臭を放つ大気を埋め尽くし、限度を超え行き、他の太陽系へ、だからこの地上の痛みのこだまは天上へともたらされるのだろうか?
今日公になされている文化的な教えは、最も単純な事でさえ理解するところまでには至っていません:ヘルメスの教義(には、だから科学と魔術とが混在していて)、これは、あまりに原初的初歩的であなた方門外漢を回心させるまでには至っていない。 あなた方が充分準備され、そしてよく拒絶しているその発議であるところの新たな哲学というものは、この点で古く子供っぽい、それは古くさいものが寄せ集まったものだからである;人類は万人向けの人間教義に頭でっかちになり過ぎ、気難しい説明をして、この存在に対して手短にすぐに優劣を決めようと狂気に手を染めてしまった。
魔術師は原初の生命を超え、理解可能な事実と本能的直観的物事との間(はざま)の類似概念、その単純性へとたどり着くのです。 ジェームズ フレーザー(*訳注* スコットランドの人類学者で神話や宗教の研究家)は、迷信とまだ進歩していない民間小宗教のその素晴らしい収集作品全てで、あなた方にその広大なる実りを与えています。
- 科学者
- 実際、あなた方のは単純すぎるほど単純です。 あなた方が言ってるヘルメティズムの教義としての単純なものごとについて考えるたびに、ほとんど私は子供になってくような気がします!
- ジュリアーノ
- 本当にそうです:私たちの哲学は物事をシンプルに見ていると思います。 これは神秘主義でなく感覚も現代的、偽善的に人を変えたり原罪に基づく宗教哲学でもない、神にそむく悪魔の巧みさや心あらずの巧みさでもありません。
この哲学に必要なのは、だから苦しみのない熱意です。 女性への熱意、豊かさへの熱意、同様な情熱の中で最もすごいのは? ところで、人間の熱意がなければ世界はどうなるだろうか? パティオル(*訳注* ラテン語の patior )の意味は、私は苦しむ;これはパッションと言えます、苦痛ではなく一種の「感じ」です、これが何かというとこの言葉「パッション」自体は恋い焦がれることを意味します。人類が獲得した小さなものから大きなものまで、全てはそのスピリトである魂の忍耐の結果なのです。 必要性はなくてはならないこと、変わらぬあこがれ、止(や)むことがなく、何かを実行することで完成され幸せによって報われると期待している人間がそれを成し遂げる、これは最も微妙な心の使い方で、それは魂とその聡明さによります。
科学へ献身する人たち、この探求への犠牲や新しい発明へのテストは、為されていなかったか?またその達成への情熱は持っていたか?… またその予想される価値とは? これは野望でその底辺では激しい攻防の戦いが繰り広げられ、それより高度な分野では人類の犠牲と献身の偉大な科学的探究が行われている;癌治療やラジオの応用、航空路開拓の犠牲者たち、これら亡くなった方々の経緯は死をもいとわぬほどの献身によって立証されてきた、その最も卓越した分野や同様な情熱の力は、意志を通じその探求の基礎や本能のままに生きる人たちの力、またその仲間たちによってもいる。
- この魔術哲学が明らかにしているもの、それは、人間存在のある種の状態である、完璧にその人を統合している力、存在のこの状態を呼吸する者からは締め出されている各自の思考、各々にとっての遥かかなたへの大きなあこがれである。 彼ら哲学のこの種の想像力豊かな究極的著作家たちは、白魔術や黒魔術について語っていた。 魔術?宗教か?豪華なお品書きか?金色に輝いてるが、柔らかな生地の手袋で軽く触れて磨いて注意深く見てみれば嘘っぽい、そいつが神に最も近い存在か? またこの仮定は、ただ善だけの唯一の神さまってことか? 善、それは生きている人間が考える優しさの概念です。 寛大ってことだろうか? しかしもしそうなら、地獄の存在など予想しなかったはず;地獄のミカエルは天秤を持っているがそれとて必要なかったはずだ。(*訳注* ミカエル:ミカエルは大天使で キリスト教 ユダヤ教 イスラム教に登場する. 調和を保つための天秤を手にしている. ) 寛大であること寛容とは、犯した全ての罪や過ちを隣人愛や信頼の微笑みとともに洗い流すことを意味する。 では、白魔術はこのような性質の魔法なのか?
これではキリスト教の隣人愛は、頬をいきなり平手打されたら即座に加害者の頬に十倍返しの応酬:もしそれが真理なら、最初の人の忍従は平手を食らった状態、白魔術ではそれは結果で言い換えれば現実、表面的には…、むごい裁きだが確かなことは誰も言っていないし、それは不思議の神さまが命じた奇妙な愛撫。 キ グラディオ フェリト グラディオ ペリト(*訳注* ラテン語 Qui gladio ferit gladio perit):剣で傷つけるものは剣によって死す、剣で殺す者は剣で殺される。 これは宗教的著述。 ユダヤ的精神です。 この掟(おきて)は白魔術のものだろうか? これは宗教魔術の最高神であり、裁判官つまり判決を下す神、原始社会の歯には歯を、そして血には血である:原始的野性的正しさ、ありがたき御達し(おたっし)のどこか残酷で恐怖の神が創(つく)りたもうイデア。
あなた方はこの主張に美しく甘美な言葉でページを飾り、神秘家たちはそれを善意と芸術的な詩で埋めている、そこに散りばめられたものを読めば、そんな想像の詩に意味が生まれ、隣人たちへの理想の愛と喜びとをいくつでも読み取ることができるでしょう。
分析してみてください、そしてこの宗教魔術のイデアの何が奇妙かを見れば、それはおのずと神の現れによって、平手打ちには、多くの報いが伴うことに落ち着きます。
魔術哲学が考えるもの、それは、統合的人間という概念です、つまりそれが魔術師、人には何かの能力があり、進歩的な人たちはその点で隣人たちより優れ、同様にその長所にも制約がなく、闘争的古代ギリシア-ローマ世界の体現者(チャンピオン)としては、未熟なか細い骨格だけでいどむ大それたやつだとの評価だったが、そこにお情けで入場し影響を与えたのが元々のところ。
- 科学者
- これはシンプルな問いで、物事の見方、その論点をどう理解するのか、つまり人々がどうイメージするかです。 20 世紀のキリスト教の人たちの記述に刻まれたヨーロッパ人の魂への思いや神への考え方は、ご主人さま、全くそう考えられ期待されてきた、正餐(せいさん)で仲間たちに期待する教皇のよう、死後私たちは安らぐのかあるいは苦しむのか。
確かにあなた方の神についてのイデアは現代的考え方だし、より受け入れやすい。
- ジュリアーノ
- 人間の力だけで、徳の力を駆使して現実をつくり出すものは、小さかろうが偉大な働きだろうが、人のための善行、高度な魔術、白い純白の魔術で、この力が用いられます。 逆に、黒くすごく黒く、最も黒い煙を吐いている時には、この魔術師が放つ力は結局は自分自身に向かい降りかかるのです。 これこそが最も完璧で公平なイデア、結局はこれが完璧に統合されたイメージとなる;正しき紳士、信じる人たちがイメージする神の分霊、判決を言い渡すもの、華麗なる寄贈者にして素晴らしい贈り物、非凡で巨大な感覚の何かだが、病弱なる人の手でどうにかなるものではない。
- 神さまのようですか? しかし歯には歯をの残酷の神さま、あるいは口先巧みな神のなすがままは放っておくとして、ここは天使たちにお集まりいただきご陳述していただきますか?
ルシファーは魂に光をもたらす、炎の小さな太陽、光を放ち温め霊感を刺激し新たなイデアを獲得させるのだろうか? 単純に国家に価値ある自覚を満たす裁判官のように、何かの様式で善や利益を産みだす者は、願いそして自らその前にひざまずくのでしょうか?
ここに魔術のふたつの考え方があります、それは全ての周囲環境の優位な状態との本質的一体化、それは人間の生存域の半分で、そこにはあらゆる生命体がいて命が芽生え地から徐々に湧きいで、適切な熱情でいっぱいになる、そのいくつかの意味ある苦悩は羨望から悦楽の本質へと到達する。
神秘家は言います:おお、なんと虚しき人間だ!君は。 人は走る機械か、飛ぶ機械か、遠くへ行くためか、そして稲妻の速さの電信で君の考えを伝えてどうする?
人生はつかの間、そんなに急ぐことに何の意味があろう。 飛ぶこととは? でももし君が飛ぶ必要があったなら、創造主は君の両肩に羽をぴったりとくっ付けたかもしれない、鳥のようなすごい羽根をね。
走ることには?… フェスティナ レンテ(*ラテン語* Faestina lente :ゆっくり急げ. 良い結果により早く到るためにはゆっくり行くのがいい という意味)。 ゆったりと急ぐ、どれだけ多くの人たちが競争の犠牲になって亡くなっているか分かりませんか? 癌は治したいでしょう? しかしまあもしそんなものを創造主さまがお与えなすったとして、なぜあなた方はそれを治そうとするんでしょう?
もし望まれれば、あなたの神さまは薬なし切除なしのふさわしい意志の行いでそれを消滅させるでしょう。 医学は人間の一種の思い上がりの現れで、およそ神の力への謀反です。
この世はダイモーンで満ちています。 ルシファーは、あちこちで神の力への謀反をささやいている。 ルシファーこそが人の傲慢をあおっている。 アッシジの聖フランチェスコが、その純朴さで善行を成し、自身の献身を通じて奇跡を起こしたことは分かりますね、そしてこれこそ人類の模範ではないでしょうか?
人のプライドは最も強力な人間の敵である。(*訳注*プライド:orgoglio: 傲慢 誇り 思い上がり プライド. )
- 科学者
- 神秘家たちのこの様な拡大解釈の仕方は、全てある種の精神病質の形成が原因となっていると考えられていますが、私はこれを真理を受け入れようとしない病と呼びたい。 この地上に産まれ、生き、そしてこの地上生命を敬うことから離れること、確かなことはこの地で私たちは命を終え、もっと純粋な領域へと再び始まること、あるいはそこにある状態は神聖な喜びへとつながる実在である。
- ジュリアーノ
- まさにそうです。 しかし人間はその能力が可能性として全くその様に得られるようになるとは思っていないし、その様に話すこともない。 人間はそれで正しいと装っている、またそうした能力は一種の神でもある;何がこの自然の隠されたそれぞれのもっと深い秘密として明かされる可能性なのか、発明や新たな創造、それらが役立つのはそれがひそかな要素で、自然がそれを準備し配置しているからです。
人が宇宙の法則をコントロールすることはできないと言われる、ですから宇宙の物的な変化のサイクロンや地震、嵐や雷などに人は従属している;結局人間の能力はいつも自然や万物の生きた活動力には及ばないのです。
これは、今日多くが語られ、知られているところです。 誰が明日の何を保証するのか?この小さな動物は好きなように天気の良し悪しを決定することはできません。
この不可思議な領域において、多くの人たちのため魔術原理によって、善良な人たちへと雨を降らすことはできないでしょうか? この物的領域では強烈な雹(ひょう)を遠ざけれないのか? これらは小さな始まりですが、より大きな進歩につながるのではないでしょうか? ガソリンで動く車なら、時速200キロで走る、そして、600、1000、1500キロへと達しない理由はないですよね? おとぎ話ですか? 馬鹿げてますか? あなたは考え方で人生を変えることができる、創造主の仲介役となることによって。
- アッシジの聖人フランチェスコ、美しき魂、キリストの生ける模範、彼は詩的にその知性とその良心に触れている、その自覚と獣としての人の魂、そしてこの人物は柔和な情熱と共にその生涯へと自らを捧げ歩みだす、それは、すべて善や愛、幸福へと向けられていく。
- しかしもしもこの聖人の中の大聖人がその人間性をイメージとして創り上げていたなら、つまり実際の人類の多くの同胞たちの中に彼と同じそれが創造されていたなら、今日の人類はどれほど楽しいものになっていることか!
私たちは仲良くセミさんと話し、鳩さん、めんどりさん、オオカミくん、きつねさんたちと話しているでしょう。 それから、航空機は? 自動車、蒸気脱穀機は?
また、無線電信に無線電話はどうだろうか? 人間のプライド、つまり聖フランチェスコは、人間を達成へと駆り立てる原動力である。 確かに私たち全員があなたの様に、大砲や剣、毒ガスを必要としなければ、あの戦争はもっと起こりえなかった、誰もがベッドで亡くなり、ワインを2本ばかり飲んでから仲間をあやめることなど考えもしないだろう。
しかし彼は修道士、私の記憶が正しければ、彼はそのなきがらで何かを発明した、たぶんそれは神が私たちの為に情けを与えるという考え方で、この地上でより良く生きるためだった。
だから愛しているのに罪を犯す人がいるでしょうか? だからこれが続けば動植物の種たちは永続するようになるのか? それを人々の誰もが統計学的に学んだ今となってはどうなのだろう?
人口統計学ではそれは語れないし記せない、だから何がそれを語ろう。 人類はこの世の広大な園で野生動物たちと共に遊び、賢明に働き愛し合い導かれていくだろう。 見ものだが、非常に残酷である。 ルシファーは私たちの中に光をもたらす天使。 その光は消えず偉大な高みへの歩みの道を照らす、が、神への反逆天使が? またこれは人が獲得達成すること、というより魂にとっての偉大な概念、つまりこの世の知性、神の壮大偉大なる概念への回帰である。
確かに神と野生種族との間には、ですからヘブライの全能の神にある多くの行先には、この小さな球体の地球と最も遠いサトゥルヌスの神さまとの間ほどの;全能の神と自由の神との概念の間の計り知れない大きな隔たりほどの啓発精神があり、そこには何にもないのです。
- 科学者
- しかしそれでもあなたが言い陳述したことを理解しても、死後墓の向こうのあの世と一致しない可能性は常に残ります。 もし死後が存在しないなら、宗教やスピリティズムとしてはそれを描けないし、人間社会の中の全てのこの違いにこだわり続けても、これは理屈の話で、この本質の何が重要かは、私たちが実際に試されているということになる。 実際もしも代わりに本当に人格的な御神₍おんかみ₎さまが存在し、魂に息を吹きかけ人間を生み出したなら;何がこの知的動物が生きるのを苦しめ神さまに相対し、この地上でもっと満足する様にしてくださらないのか、であれば私たちの論争は無意味である、なぜなら実際言葉でこれは論破できないからです。
-
- ジュリアーノ
- 否定はしません。 もしも明日その不合理で幸運な証拠がここに現れ出て、私たちが無から誕生して来たと示され、この宇宙の神から(ずっと休むことなく)息を吹き込まれた新参者の住人で、痛みや飢饉に耐え、そして死に永遠に生まれ変わり続けるのだとしたら、私はそんな存在の理性の人間なんかにはなりたくもありません、ですから私はアッシジの聖フランチェスコや聖女キアーラを見習いたいと思います。
ところで時計を見てください。 時刻は夕刻7時になろうとしてます;ウラタペルの時刻、ウラタペルとは大天使メルクリウスの素質でその実体は愛情をまとった姿として現れますが、つまり死者の語りとしてふさわしいものではない、なぜならこれでは魔術の祖としてのサトゥルヌスの怒りをかい、性質が変わってしまうだろうからで、サトゥルヌスは私たちの最初の対話でも私たちをざわつかせました。
代わりに、このサトゥルヌス神の全能の力、そんな本能的食欲を尊重するのがよいでしょう、ここに私たちは至ってこの興味深い課題へと続き、土曜日のその時刻13時に持ち越し、サトゥルヌス神のことからまた続けましょう。(*訳注* 土曜日 satur-day:は安息日を指すヘブライ語 シャバトから イタリア語では sabato. 土星や農耕神 サートゥルヌス
とは関係なく 休むという意味の動詞 シャヴァト に由来. キリスト教でも ギリシア語 に借用され サバト といい さらにヨーロッパと西アジアの多くの言語で土曜日の語源となった.
)
- 科学者
- 私はこの方(かた)に対しては反感を禁じえません、それは、好きに進みたい時に、邪魔しに現れほんとに迷惑って感じです。
対話その2 完
--- ヘルメス哲学の概論より ---
自然の力や法則は、人間と宇宙との関係として見てみると、そのほとんどは未解明で今も手付かずのままであり人類の課題である、科学はそれを解き明かし探求し理解しようとしているが、その目的は実際の応用や適用の可能性、人類への貢献である。
状況として人間存在については、今日次の様に考えられている、これらは自然の力から来ており本質はシンプルだが、人の頭脳の支配が及ぶものではなく、この物的状態をチェックできない限り理解することにはならないだろうということ。
科学的探究は物質の重さを計るだけに集中しなければならないわけではなく、その活力を直接的に最も現代的な技術によってはっきりさせることができるよう課題を分析しテストする最も幅広い感覚の知見で理解されなければならない:物質をひとつにまとめ上げ形成する内的な力とその知性の探求、これは自然の原因となる力であり、この存在状態の理解はこの目的でもある。
物質は研究探求され、その全てでエネルギー活動は不確実性へと収束されて行く可能性があり、そして力学的構成要素の自然のスピリトの命が存在し、またその魂は物質的に形成されるものかもしれない。 これは縮合と昇華における物質の一体化であり、その領域を調査する科学は、この力の質的量的な原因を明らかにしなければならない、この力の影響には調和原理や宇宙の本質的な知性が備わっている。
より微妙な事柄への人間の本質的知性のグラデーションに注意が向き、思考とならなかった無意識へと到達することで、全ての考えは根本的に開かれ、この人間の究極本質へと注意が向けば、その状態は進歩し、心身の知性は改良され、そこには共存がもたらされ、社会的繁栄の黄金期のより調和のとれたふさわしくシンプルで自然な社会が生まれて来るでしょう。
これら社会生活の多大な状況に関する複雑性の究明からもたらされる知を誰も無視することはできないし、その研究には常に多くの問題に新たな解決策が提示されながらも全人類を悩まし続けるでしょう、そしてこれは常に存在していた伝統としての絶対科学であり公的な科学として記録されてきたものではない、なぜならそれ自体は深く考察されることがなかったもので、精神科学として新たにされ続けて行くであろうものだからです、つまりこの様にこれは宗教の絶対信仰論に関するもので科学的なものではなくそれ自体は閉鎖的だが真理と一体化するための科学となりえるものだからです。 今はなき古代文明の司祭やほぼ知られることのなかった人たちは、この元々の英知と共に着想を得て、民衆の権利を統治し、この絶対原理の普遍生命と調和した真理によって奉仕していました。 文明は繰り返し、時間とともに失われ、人命の進歩に関係する進化の法則に従い改新され続けます、つまりそれが人の知恵です。
実際これは神秘的な科学、元々はアラブの不死鳥伝説でもあるが、人々に生き生きと語り継がれてきたものであり、普通の人間についてではなく、世俗の好む情感豊かで色とりどりな話しがこだまの様に伝わってきた伝承を含むものである:サターン-月(*訳注* サターン-月:saturno-luna:サトゥルヌスと同つづりの saturno 土星と月. luna 月は変化の象徴. )についての不思議な想像。 この様な磁気のようにうごめく概念やその束縛から解放されるためには、人間科学には、新たに科学生理学的解釈や探究もなされなければならないでしょう、ある種オカルト的な有機統一的構造に従ったり、自然の力に関係し同調し進歩する重要法則によって影響され増大する生命力などの弱点や変異からも解放され自由になる必要がある。 それが人間の身体であり、生きている組織化された物質の存在状態、コズミックなまた地から湧き上がるこの感応力の印象は受動的で、ずっと見守り続ける自覚や良心としても刻まれ続ける、もしもそれがなければ、人間の知恵は欲に対抗せず、サトゥルヌスの雲によって曖昧になり抵抗される苦境に陥(おちい)るかもしれない。 ただこれが自然の知性であり意識、その力、リズミックな法則の創造である、これが人間には存在し、相対的統合体を可能にする直感として垣間見られる、その存在様式には自然の超エネルギー的な存在の何かが徐々に枝分かれされてゆき、より淡い基本要素が提供され、バイブレーションや意識の相対的な知性に等しい命として発達し、自分自身の内的統一感として包み込まれている。
人間の持つ自然の力や能力はいったん認識されると、意味や価値を持ち拡大され、蓄積されたり善なる目的に向けられ、知的意志を介して広大な活動領域へと適用されます:原理的にそれは治療や物質的人間の生命力を保つそのバランスの回復へと向かいます。
実際現世代の若者たちは、何千年と創り上げられてきた創造概念の鎖から自由になりたいとの明らかな兆候の証拠を示しています、不安定で歪んだ真実を発端とする生命の本質は、自然の法則への無知によって抑圧されています。 これは行動の「自由」を求める開かれた考えで、魂のさらなる進歩を求め獲得すること、存在の拘束されない状態を知ること、最も活動的で、彼らの本質にある精神的なもの、慣例的強制的義務ではないものです。 至る所でその課題に創作の花を咲かせ、進歩した様々な人たちの思考の流れの群れとなり、彼らの活動の中心は強化されて行きます。 しかしそれはその領域に種をまくためではなく、ひとつの伝統の始まり、従属であり、新たな到達点を受け入れること、知る欲求、進化であり、限定された領域に進みその道へと単にステップを経て入ることです。
「ピタゴラス ヘルメス スコラ学派」のジュリアーノ クレンメルツは、オカルト(解明されていない)伝統の原点へと回帰し、すなわち先祖伝来の教えの本体、知の信頼できる出所やその時々の価値や意味を「光を呼吸する者たちへ」と題して著作し、私たちヘルメスの子孫たち素晴らしい意志をもった人類のために実践的主題とともに届けることにした、これは魔術の絆と不可思議な科学、神秘魔術の由来:神秘の光への道案内である。
この真実の光の松明(たいまつ)は常に燃え盛る天の都オリンピコの松明、そこは唯一不滅の情熱のセンターにして神託を告げ燃え盛る太陽のごとし、司祭たちの放つ知恵に見守られる従者たちの拠り所、ミスター ジュリアーノ クレンメルツの「全著作」はその弟子たちによって増刷が繰り返され、ただひとつの目的を訴える人々の集まり「ミリアムの絆」- 本来の自然の力を実践的英知で探求し善良なる意志を求める人たちの集まりとなり、そして聖なる段階へとつながる道に進み、自己の究極たる命の神を目標に理解しようとしている。(*訳注* ミリアムの絆:ジュリアーノの設立したヘルメス治療の研究組織、第3対話の関連個所へ)
彼が記し広めた「全著作」やこの「スコラ学派」の内容には、新たな加入者の課題のための多くの答えが見いだせ、また人の知的概念の未解決問題も現実に存在しているが、もしもこの謎の知恵が糧(かて)となり理解が活発に総合されていけば、知的な愛情が人の心に育まれることになるはずです。
唯一の真理たる黄金のトランペットは、光明の伝道者たる天使たちによって奏でられる決して失われることのない言葉を吹き鳴らし、素朴で純粋な心に栄養を与えその高みへと到達する道を模索する多くの若き魂たちを覚醒させ「共に歩み出そう と呼びかける」、そこに見い出すのはこの「太陽の日」の夜明けを目の前にすること、新たな精神的進歩への軽快なサイクル、これは、「善をなそうと献身するシンプルなスピリトへの呼び声」である。
バーリにて ウーゴ ダニーロ チサーリア 1976 年 11 月
第9話までご紹介してまいります。
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