LA SCIENZA    DEI    MAGI   魔術師の科学



対話編






Giuliano Kremmerz vs. uno scienziato   ジュリアーノ・クレンメルツ 対 科学者



ご自由にお持ちかえりください。






































































対話 その3/9


--- 対話の要約 ---

先祖の霊 マニ ―― 古代ギリシアのオルフェウス密教と祖先霊の召喚 ―― 亡霊 死者の霊 怪物たち ―― 死者への信仰と盲信 ―― 冥界の神々 ―― 死後生命への信仰 ―― マホメットの死後世界 ―― キリスト教の天国 ―― エジプト人と死者の書 ―― 人は眠りこけ夢を見ている ―― ギリシア人の冥界 ―― 死者の住む暗黒界エレボスとタタール人 ―― ヘブライ イスラム教徒 ゾロアスター教 キリスト教の地獄 ―― 様々な宗教の天国・楽園 ―― ピンダロ ホメロス ヴェルギリウスの楽園 ―― 宇宙生命とその楽園の在り処 ―― パラダイスは私たちの内に ―― 「全ては私と共に運ばれる」 --- 精神の病と神聖医療 --- 精神科学はいまだ幼児期にある ―― 精神分析 ―― 苦悩と煉獄 ―― オイディプスとスフィンクスの謎 ―― 人間はミクロコスモス ―― 魔術師と魔術 ―― 魔術概念と科学教育 --- 魔術の適用と科学教育 --- 素晴らしい生命魔術の応用 ―― それは友愛 ―― 人類の統合性と秘められた能力 ―― 思考という解釈 ―― 人間の超越性とその可能性 ―― 神秘の精神/プシュケー ―― 人のオーラ ―― オーラの流れと浸透性 ―― 真の活動力としての意識 ―― 人間の無意識性 ―― フロイトと精神分析 ―― 人の情感 ―― 生まれ変わり ―― 誕生の神秘 ―― 魂の輪廻 ―― ヘルメス学派の教え ―― オリジンへの回帰 ―― 自己の内部を照らし出す

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科学者
さあ約束の時間になりました、このあなた方が示された多くのスーパーな神さまたちにはちょっとすっきりしませんが、思い返してみるに、あなた方が考える死者や死後については、それが何かを教えていたと思えはしますが…。
ジュリアーノ
それは、私が考えていることじゃなく、人々がそう考えてた、そして他の人たちもそう考えてるってことです。 我々の祖先は、それをマニ、先祖や死者の霊と呼んでいました。 どんなスピリトか? 生きながらにして飛ぶことのできる超越存在の様な死者の体ってとこでしょうか? それは祖先たち皆が一般的に理解し言っていた霊魂でしょうか? 誰もそれを正確に言うことはできないでしょう。 ベルギーの考古学者フランツ キュモン(1868 - 1947)は、古代ローマ人がどのように祈っていたかさえ私たちは、知らないと主張している。 キリスト教徒の無知の波はローマや多くの場所を覆い、黒板に描かれたチョーク画の重要な点をこの様に濡れたスポンジで洗い流していった。 これら先祖や死者の霊マニの特徴についての研究探求は、すべての国の博識な人々によってなされてきました。 私はその意味が正確ではないと言いましたが、実際それら祖先たちの死者の霊や不死と化した人たちについては、本当にその家族の守護をする血筋の人であると考えられていた可能性があります。 ですからそのような古代の人たちに限らず、この信仰は現代でも、人々のその感覚をよく特定してるのです。 魂というものは、身体と別なのか? 内なる神あるいは冥界の人たち、はたまたあの世の守護親族たちとはいったい? この様な恵みを与える本質的実体とは、人々の幸福に関心があり、愛や血縁に結びついたものなのでしょうか? オルフェウス密教は、生きている人たちの魂を奮い立たせる方法を持っていたようには思える、それが先祖の霊や生きている人たちを守護し見守る人たち、オルフェウス密教は、この宗教的秘法に実際これを導入した、それがギリシア神話、冥界から毒蛇にかまれ亡くなったオルフェウスの妻エウリュディケの亡霊を呼び戻そうとし夢破れたオルフェウスの名前が由来です。 その古代ギリシアは、この崇拝様式の広がりを見た、オルフェウスを真似てエウリュディケの亡霊の命を、彼の心の闇へと召喚したのだった。 この様に私たちは、常にこの罪深き不備ある決して自由にはなり得ない輪の中をぐるぐると回り続けている:この死者の魂あるいは精神(風や大気また息)という想像力は全ての時の中に生き続け、人を生かしているのだ、と。 そんな古代ギリシアの祖先の戦士の死者たちの墓からは、野蛮だと思われていたペルシア人たちと戦っていた亡霊たちが突如として姿を現し、戦いの叫びや悲鳴が感じられ、そこからぎょっとするほどの恐怖が受け継がれてきている。 イタリアにおいても古代ギリシア同様死者の霊たちの神への祈りは、他の地域と同様に犠牲と共に与えられていた、それらの性格は誠に墓の守り神、その収穫物を略奪しようとする者に対抗しようとするその土地土地の小さな神さまを創造しわずかながらの畑の見守り役とさえなっていた。 そんな埋葬所の墓石の碑文にはこの様な守護の言葉が刻まれていました:ディイス マニブス(Diis Manibus : 神に召された人 )。 それは一種の崇拝であった、すぐにそれはローマから国境を越え様々な国々へと波及していった。 この親愛なるそして動物学的に完璧化された被造物自体は、人間と呼ばれ、心には常に大きな弱点を抱えていました、それは死後の生命に何が創造されるのかについてです。 それは墓から出て来た亡霊(ばけものや怨霊)の怪しい何ものかでした、それらは地上の闇夜に眠る人類のどこかの家々を貫き現れてはぎょっとさせ、怖がり屋の心を混乱に陥れていたのです。 今日の心霊論は、酒の神バッカスのような一種の陶酔状態のような精神状態を暗示させます。 それは狂気に取りつかれたラルヴァトゥスと呼ばれる;言い換えればラルヴァ(亡霊)が肉体に入り厄介と不条理を生み出した。 それらはラミア(*訳注* ラミア:ギリシア神話の怪物女. 頭と胸は女性で胴体は蛇. 吸血鬼. )の霊や愛に献身する亡霊であり、若者たちに付きまとうむさぼりの心であった… 例えれば:吸血鬼や闇夜に血をすする巨大な恐ろしいコウモリとして現れ、夜行性のラルヴァや恐怖と身の毛もよだつ感覚の幻影へと変貌していた。
 哲学者詩人にとって、マネス(*訳注* マネス:古代ローマで神として祭った先祖の霊という言葉は、この下界全ての苦悩や災難、死者や亡くなった人たちの地下世界と理解しえるのかもしれません。 その意味するところ、最も博識なイタリアのラテン語学者パルロ・パスカルは言います、それはキリスト教でも続いたと、なぜなら、キリスト教徒の墓石にも二つの文字が掘り込まれているのが見つかっているからである:D.M.(Diis Manibus/ディイス・マニブス/神に召された人)、と。
 「この死者への迷信的崇拝は、はるか昔の祖先の起源にまでさかのぼります。 つまり死者への愛着は、その人の先祖の霊への愛着であり、要するに両親のことを意味し、その人の命となり吸収された精霊や遺伝的気風、魂でありその生命力なのです。」
 精霊か、気風か、神々か? これら死者の霊魂は誰にとっても、善であれ邪悪なものであれ、その気風は神々となるように思えたのです。 あるいはまた、小さかろうと大きかろうと怖がりやの人間の虚飾やうぬぼれの空虚感なのです! 冥界の神々、でありまた、常に神々なるもの。 当時の降霊術師(*訳注* 交霊術師:negromanti :シャーマン まじない師 呪術師 妖術師 )たちは、実際不可解な方法で使死者たちの墓から先祖の霊を呼び出していました、そしてもしも刺激され墓場から現れたなら、まずささげものと神聖儀式で鎮魂され、生きている人たちを苦しめているこの世界のために当事者たちが導かれるようにしていました。
科学者
いいでしょう。 我々ローマの祖先たちは、このようにしっかりと、そして分別を持って死者たちを信仰していた!
ジュリアーノ
それは信仰しているということでしょうか? 今日の信仰について私たちは理解していません、古代ローマのラテン人たちの信じることに一致するのかどうか…。 あなた方は常に思い出す必要があります、2000 年間当初からのラテンの国々にはこの何かが入り込んでいたことをキリスト教は多くの意味で変質したのです、古代ラテンのその信仰は私達のものとは異なり、もう確かでよく理解しているものではないということです墓の向こうの命! 人間は、地上での人生が終わると、二度目の人生が始まると常に信じてきました。 原始から今日まで、それはまったく同じです。 キリスト教、カトリックのキリスト教徒においても死後の生命について語っているのです。 微妙ですか? 注意深くしないとですか? でもそこには、道徳が入り込んでる:この地上に生きている反逆者や邪悪な者たちを理性で変えることはできないと、人は死後に彼らをぎょっとさせようと考えたのでした。 もしあなたが、悪い事をすれば悪しき報いを得る。 こうして現れたイデア、罪や過ち犯罪は、私たちがこの世の偽善的振る舞いで死ぬとすぐに、天秤を持ったミカエルに見つかり、魂が量られ、悪い行いの量に応じて、魂を野蛮人たちの地または地獄へ、あるいはまたエリュシオンや楽園の道へと振り分けるという考えが方が生まれた。 地獄では何が行われ、天国での生活はどのようなものなのか? この様に人種や民族の違いから、つまり人々は互いを悪人の、また善人の幸福な種族であると見ていたのです。 ムハンマド(*訳注* ムハンマド:マホメット. イスラム教の創始者)のパラダイスの女性はみな美しくキリスト教徒の天国は聖者たちで満ちあふれ、人々は崇拝する神さまと楽しんでますが、神さまはさぞかしうんざりしていることでしょう様々な目に見えない領域を通過して行く魂の旅路は、古代エジプトにおいては、壮大なるストーリーとなっていました死者の書には、当時の彼らの様子が描かれています、それは絵画的手法で綴られ、どんなに小さな嘘や詐欺であろうと神々から問い正され裁かれた、と。 もし絶滅したまた今も健在な宗教の全てをしっかり調査してみれば、これは人類の幻想で、いかに死者の命についての発想や様式が貧弱か分かるでしょう。 これには多くの可能性がありますが、それが何か分かる人はひとりもいません:人は全ての肉の端から端、骨の髄までが完全に分解するまで、眠って眠って眠って夢を見ている。 それから眠って眠って、骨が灰になるまで夢を見ている。 それは、生きている人たちが受け入れる考え方ではない。 傲慢(ごうまん)な人間には意味のないことのようにも思える、死んであの世へと塵(ちり)になる、またその魂は息であり、消えてなくなり息をするこの地上の大気、空気と混ざりあう。 私は、純粋に物質主義の教授たちが教壇から人の命が終わると何もなくなると説いていたのを見たし知っていました、しかし家族の誰かが亡くなると彼らもベッドわきに司祭を呼ぼうとするのではないでしょうか?神さまや見えぬ聖者たちと死に行く人との和解をとりもってもらうためにです。
科学者
もしも死後に疑念があっても、そこに優れた考え方の人々が確かにいるなら、つまりそれは神さまとごちゃ混ぜになっている、そんなことはないでしょう。 あなたの解釈では古代エジプト人たちの教えでは、神々は神秘的などっちともとれるような神さまということになり、現在のエジプト人たちがお守りや護符やらをミイラにくるんでいっぱい詰め込み過酷な裁きの危険に予防措置をしてなんとかパスしようとしているようなものです。 そんなひげもじゃの聖職者たちは、どれほど知恵を絞ったことでしょう! 私が言いたいのは、人は想像力に乏しく、人類が野獣で盗人(ぬすっと)で殺し屋だと知りたがらないってことです。
ジュリアーノ
地獄というものが、そこに存在するのか、しないのか? そこは熱いのか寒いのか? そこには光があるのか、闇に包まれているのか? しかし、古代ギリシャ人たちにとって最も重要なことはミノスの審判でした。(*訳注* ミノス:ギリシア神話 クレタ島の王. 法を制定し善政をしき 死後冥府の裁判官となった. ) アイアコスとラダマンテュスも。(*訳注* アイアコスとラダマンテュス:アイアコスはアイギーナ島の王で冥界の審判官のひとり. ラダマンテュスはミノスの弟で 優れた立法を行った為 死後に冥府の審判者としてエリュシオンの管理人に起用されたという. ) プルートー(〔英〕Pluto:冥王星)は、冥府の審判長でした。 底知れぬ闇と空間、泥の湖に吐き気を催すような匂いと蒸気、火の川と大釜、化け物どもと復讐の女神たち。 古代ギリシア神話には地獄へと向かうための様々な門がありました。 そこにヘラクレスがオルフェウスが降り立ち、複雑に絡み合い、真実と誠の迷宮への道が現れたのでした。(*訳注* ヘラクレス:はギリシア神話最大の英雄. 難問を解決し 死後天上に迎えられ神になったという. オルフェウス:は第一話でも述べられているが 詩人にして音楽家竪琴の名手オルフェウスは 死んだ妻エウリュディケを連れ戻そうと冥界に下ったが 冥界の王ハデスとの約束に反し 後ろを振り向いて妻を見たため 望みを果たせなかった. 死後彼の竪琴は天に上り星座になったという. ) 地下を流れるストュクス大河の沼地、そこは冥界への入り口だった:そこはたぶん腐敗し有害であるがゆえ死者たちには危険で、そこで行く手を阻まれていた。 死者の住む冥界エレボスは、控えの間であった。 闇夜の家、眠りの家、冥界門の三つの頭をもつ番犬ケルベロス、餓えた怪鳥ハルピュイア、死の王国;そこにあったのは暗黒であった、当時の作家たちは述べている、それは百年も続き、最悪なことに死者たちは埋葬されることすらなかった、と。 オドュッセウス(*訳注* オドュッセウス:ギリシア神話 イカタ島の王. 知勇兼備の名将でギリシア軍を勝利に導く. ユリシーズ. )が死者たちを召喚した時、現れ出たのは冥界エレボスからの霊だけだった。 さらにその向こうは、凶悪の地獄、刑罰と苦痛の叫び、良心の呵責にさいなまれ、罪深き魂は鞭を打たれ刑罰を受ける。 そして暗闇の彼らは、戦士として民たちの支配者として、多くの責め苦にさいなまれていた生きている人たちだった。 彼らは、煉獄の炎から凍りつくような情念までひとつまたひとつと経験していたのです。 そのさらに奥深くの日のささない暗黒の冥界タルタロスのそこには、太古の人たちが天の神々から追放され青銅の壁の中に閉じ込められていた。 この天からの太古の神々の追放、地獄のまっただ中、到達不可能なそんな場所への流刑という存在が、思い出させるのは、私が述べた大天使とそれに続く戦争の憂鬱の結果のことです、たとえ天上においてもまた神々においても、その様なことがあり太古から争いは繰り返され存在していたのです。 良からぬ多くの例が、天界から人類へともたらされたようです。 現在人間は、似たもの同士で争わないよう、もっと改めていこうとしています。 そして、私たちはそこから抜け出せるかどうかも分からないのです! 恐るべきこの冥界タルタロスタルタロスという言葉はフェニキア語のタラクが語源だと言われている、タラクは不快で住みにくい場所、苦痛の国だと言える。 語源学的にこの言葉は、ラテン語のカルデア(*訳注* カルデア:古代バビロニア南部をさす地域名. 旧約聖書ではバビロニアど同義に用いている. )語から来ているとも言われ、pracmonitum 注意や教えさとすこと を意味する。 この意味するところは気づき、冥界タルタロスのおぞましきもの、殺し屋や犯罪者に聖職者が与えたところのおそらくの意味であった。 そのほか、サンスクリット語の Ar Er も奥深さの根源を意味していた;この様に、tar tar という繰り返しは、その最も奥深き深淵を意味していました。 この様にその多くが商人であったヘブライ(ユダヤ)人たちは、死後の地獄での裁きという概念を持つようになっていったのでした(*訳注* 古代ユダヤ人たちがバビロン捕囚となった歴史的幻影は 現に今のこの世界にも影響を及ぼし続けているのかもしれない…. ) それは正しいのでも邪悪なのでもない者たち、彼らは全く正しいのでも全く邪悪なのでもない、魂には半々の色合いがあるのです原初の命から、永遠の命へと魂は運命づけられた。 それは、邪悪な者たちが投げ込まれ煉獄の炎で焼かれるゲヘナの谷底深くの深淵。(*訳注* ゲヘナ:エルサレム 現イスラエルの首都南西の Hinnom の谷:子供が生贄にされ偶像崇拝が行われた地. 転じて死後悪人が罰せられるところ;地獄 苦難の地. なおエルサレムは現在ユダヤ教 キリスト教 イスラム教の聖地. ) 彼らは肉でも魚でもないが、来る日も来る日もその肉体の地獄を、行きつ戻りつ泣き暮らし続けていたに違いないのです。 イスラム教の地獄には7つの門と7つの領域がありますが、興味深いことに、敵対するこの宗教の中にも、それは区別され整理されていたのです。 例えば、キリスト教徒が陥ったのがひとつ、ヘブライ人たちもそのひとつ、カルデア人たちはみっつ目、偶像崇拝者達がよっつ目といった具合。 要するに地獄というものがどこであれ:どの宗教信者にも地獄の概念はあるのです。 ですから他民族の地獄について語っても意味がなく;それぞれの宗教には独自の地獄がある;この様に人の想像力は貧しく、地獄の責め苦が同様に私たちにあっても何の役にもたたない、この地上の肉体の中に魂たちが生きていたとしてもです。 私たちは常に、この体や死後のことについては無感覚です、人は、いないところを感じることはできません。 ゾロアスター教徒たちは、例えばそこにある種の情念の炎のようなものを思い描いている、それは罪人たちをじりじりと燃やし続けはするが決して燃やし尽くすような火ではない。 キリスト教徒たちも、まあ、似たようなことを思いつきます。
科学者
>ほんとにそうです:死んでも人は生きていると思われてる、あたかも依然五感を持った肉体であるかのように、完全な五感と共に生き感じることができる、と。 そしてそれって、悪魔なのでは? 私は古代の石版画を思い出します、それは死にゆく人が鞘(さや)から抜かれた剣を持った天使たちや聖者たちの一団に付き添われている場面で、皆ひざまずきその威嚇の前に大いに混乱し悪霊や悪魔、魔女たちがベッド下に逃げている様子です。 この種の姿や描写から、幾世代にもわたる毒が盛られ悪魔どもの攻撃にさらされ続け、そして死に行く人々は天使と聖人を雇い入れて来た、敵の魔の手から彼らの取るに足らないその魂を救いにきてくれるのだと。 また聖女バルバラは、砲兵を爆弾で援護し、同様に死にゆく人たちを苦しませることなく導いた!
(*訳注* 聖女バルバラ:鉱山や火を扱うなど危険な場所で働く人々の守護聖人 イタリアやスペインでは船や砦の弾薬庫での暴発事故を避けるため 聖女バルバラの像をおき 弾薬庫自体を聖女にちなんで サンタバルバラ と呼んだ. wikipedia )
ジュリアーノ
魂の歓喜という空間概念においても、人は非常にみすぼらしい詩人であると感じていたのです。
地獄の苦しみの内にあると人は考えているということ…。
人はその貧しき魂で、心地よい居場所の住人としての喜びの何を感じることができるというのでしょう?
その展望が見えますか?
三日後には、この地上世界の最も美しいすべてのパノラマは、日常の基本となるのです。
そこで、踊り、美しい女性と愛情を共にしますか?
マホメットは望まれている大いなる喜びを知っていて、アラブの民の全ての生けるものたちはこれで良いと考えた…。
しかし死者の魂が、印象や感覚を持つ人の様で永遠のおくつろぎの空間に置かれているのなら、それは多くの静寂によって断ち切られているあこがれとして感じるものであるに違いないだろう…。
ほんのちょっとの苦痛や我慢、そんなものが欲求するものだろうか?
多分それはノミがそこに食いついてるってこと、蚊がそこで血を吸ってるってこと、それは詩人がそんな愚かな獣の様な行いを唄にしているってことでしょう?
東洋の人たちのニルヴァーナ/天国、彼らは幸福であるという感覚を持ち創造主との一体化を原理としている。
それは獣になるってことですか?
そんなのは馬鹿げてます、もっと近いのは、ニルヴァーナの喜びです。
それは無心になるということ、またこの宇宙の何物にもとらわれない広大なる本当の思考とひとつになること、それに等しい…。
この地上でどれ程それが真実なのか、この様に抜けていることこそ、その理想の喜びに最も近 いのです!
古代ギリシアの哲学者プルタルコスは、詩人ピンダロを引用し、極楽エリュシオンは、幸運によって隔離されているとした:…
闇夜のベールなき日々、海風い出るところ、様々な草花の香りでそこは満たされている、と。
そのピンダロの抒情的想像力はかわいらしいものです。
古代ギリシア詩人ホメロス(*訳注* 前8世紀のギリシア詩人)は、言っている…、それらの闇は、あなた方を静寂と甘美の命へ導く、と:…
その辺ぴな場所は雨雪なきふるさと、もっとも純粋清浄な空気で息をするところ。
ホメロスの見方、それは何も目新しいことではなかったのです。
詩人ウェルギリウスは断言する、極楽エリュシオンは特徴的なキラ星たちで満ちている、と…。
森々、庭園、噴水、純粋清浄な空気、甘美な光で…。
それらはあなたの内に充満し、舞踊り、歌い、ある種の体の動きを創り出している:
走り、投げ、運動をしている。
アポロンの聖職者は、その霊感を歌っている。
ギリシア語では、エリュシオンは死後地下世界のひとつの地域であった。
普通、春の王国、漂う花々の香り、咲き誇るバラ、赤いバラの小さな森、…黄泉(よみ)の国にレテ川は流れ、その水で過去の苦悩の忘却を望む者たちのその記憶を永遠に消し去る…。
私はもうその王国については話さない、それを人はパラダイスと捉えている…。
キリスト教徒は天にあるというが、しかし、少しづつ天も飛行船や飛行機によって調査されている。
私は、人類の観測というものが物的肉体とともに高みへと登り、その楽園パラダイスもさらにずっと遠くの高みへと上って行ったのだと思う。
あなたが捜し求める天上の人はそこには見えない、そして、あなたのすぐそばに駆け寄っても、あなたの前に現れることもない。
宇宙の壮大なる生命は、その正反対のものを貫いていた:…
それゆえ、人は地上のその半分は我々のものとして存在し得ることが理解できなかった、この様に、宇宙の大生命という考え方は対象外となっている。
ローマ帝国期の詩人ルカーノが信じていた楽園エリュシオンは、月にあるとした;しかし、今日、月の地形図の紙の上には、このパラダイスはまったく見出せないのです。
いったいどこに?
私は、もっとも確かなこととして、地理学的にそれは骨の球体である人体脳にしっかりと配置されしまい込まれていると思うのです:…
目を閉じて、信頼を持って、それほど多くの詩に当たらずとも、その楽園は「私たち」の中にあるのです
もし私たちが、その内に含まれちょっぴりと切望し、愛し愛されているなら、もし似た者同士で争うことがなければ、もし人族の機能すべてをトータルに完成させ自分たちには限界がないと感じるのなら、そして、心からその命の喜びを味わっているのなら、それは人が、その不完全な存在という現実その貧しさという何かにそれを制限しているということであり、その楽園は人の内側にあり、つまりその恵みを味わっているということ…。
科学者
これがあなた方が人をミクロコズモと言う理由なんですね:…
それは私たちの精神であり肉体を統合している五感…、本質的実体に含まれるもの、そこには喜びや苦しみがある…、それら全てがこの偉大な宇宙である…。
あなた方の魔術師の科学のそれら本質要素には、それを読み解く人たちがそこに留まらない多くの注意点があります…
なぜなら、普通それは深掘りはされない事柄だからです。
私はあなた方の大衆化された全ての著作を注意深く読み、すぐにあなた方との最初の対話をすることにしました。
それらの著作を読むと、あなた方が信じているそれらのイデアはよりはっきりより理解できるシンプルで良い感じで満たされたものとして私に届きました…
そのイマジネーション能力は画的で豊かな表現に満ちた私たちの中の何かであり、その卓越した感覚には神の多彩な能力が含まれ全ての物事を創造できる…。
この目を閉じ、私たちの様々なイデア/理想によって創造される幸福と共に生きることで、心象はより適合したものとなり心の静寂として生かされる…、それは自律的構造の私たちの幸せというものである…。
それは、Omnia mecum porto (*訳注* ラテン語:全ては私と共に運ばれる)、と解釈できる…、これは創造の絶対感覚・愚直なまでの忍耐と精進を伴う見方であり、どんなに精神を病んだ者であってもこの力を失うこともその理性の価値が失われることもなく他の人たちへのヒントとなる…。
そんな精神的病を持つ人たちは、この治癒的領域へと至るのです。
ジュリアーノ
ええ、神聖な医療の…。
心理学の研究は、現在大いに進んでいます;…
精神医学では、理論的にいくつかの成果をあげ驚嘆すべき領域に達しています。
しかし、実践的で確実な方法という点で、私たちは、人間精神や心の科学の基本原理、関係する治療法にはまだ至ってはいません。
科学者
精神分析のある原理は、フロイトとその後継者たちにより見いだされました。
ジュリアーノ
真の原理また実際に治療する心的気質が脆弱であることは決してない。
精神分析は始まったばかりで、生ける魂という要素に科学的熟慮を取り入れた科学ではあるが、かと言って物理学や物的にコントロールできる何かでも全くなく、今まで受け入れられようもなかった…。
それどころか二番手であった…、なぜなら、その最初のステップはシャルコー(*訳注* フロイトはパリ留学時にJ.M.シャルコーに精神療法の指導を受けている)、そして、ソルボンヌとナンシーの大学のバラドゥッチ(*訳注* フランスの超心理学者 1850-1909)によってそれは築かれていたからです…。
その科学は生命「化学」の古めかしいものであり、人間という被造物の真実を代弁しているかのようである…
それは、強固な城であり、生ける人間精神の科学がそこにはあるが、ながく一筋縄では行かない忍耐なくして立ち入ることはできない…。
これ(*訳注* 対話者たちや読者/私たちが課題として考えようとしていること)は、実験的探求の最初であり、パラケルサス(*訳注*1493-1541 スイス出身の医師・化学者・錬金術師・神秘思想家)から私たちへと伝えられた神聖領域、医者ややぶ医たちが、大気空気に配した乱用哲学の雑談、そして、記憶に留まるものには、アリストテレス(注9)の「意識に上らないもの」、そして痩せこけたかかしの様な大学の最も造詣深い賢人の仲間たちも…。
これらは、およそ進歩した新たな課題だと言えるが、それら精神分析家たちが関与する発展のステップ、その公式科学が認める可能性のカテゴリーへと至ろうとする「動物磁気」は、催眠術へと歩を進めた日々のそれで、当初、メスメル(*訳注* 英語の「催眠術を掛ける mesmerize 」の由来となった人物)やデュ・ポテの時代へと、信用を失って行くのは確かなことの様に思えた…。
(*訳注* デュ・ポテはフランスの神秘家、メスメルの時代の動物磁気の実践家)

(注9)

科学者
わかります。
忍耐づよく、ともに歩む姿勢が必要です。
これを、あなた方は、新たな理想や観念への苦悩だと言っている…。
物事は全て少しづつ進んでいるということ。
ジュリアーノ
そして、人は理解する、なぜその苦悩が地獄と天国に存在するのかと…;
それは、あのタタール人についての著述や地理に、暗に示されていたことである…、私はそう見ています…。
そこには自滅した者たちの魂があった、軍人戦士たち・そんな感情の犠牲者・いけにえとなり正気を失った者たち、そのような時の人々が…。
このようにして、けっしてやましさや過失はないという考えが持ち込まれ、人は中間的表現をイメージし、苦悩の状況に対処しようとした…
この彼らが生きた世界のある種刑罰法典的なものによって対処しようとした…。
キリスト教では、地獄や煉獄に炎が存在する。
ある種の悪魔を焼き尽くし、他の人たちには柔和な種のもの、実のところ、私には表現できないのですが…。
私は、神学の仕事をしている者ではありません。
これは、マルティーノ・デル・リオ(*訳注* 1551-1608 彼はイエズス会の神学者・魔女学者で、16世紀末に魔女研究書を発表して魔女狩りの理論的支援を行ったとされている人物、彼自身は静かに神学者としてブリュッセルで生涯を終えている)の”感じ”を呼び出す必要があるような、つまり取り調べ官全てがその魂の出所を鑑定していたかのよう…。
私の定義は平易なものではない、また異なる宗教・教会の見解を比較してもいる、そして、その浄化浄罪という考えの中には、全ての儀礼風習や信条が持ち込まれ、この世界・ここでのその課題をモデル化しているということ;…
この悲劇の王は、多くの後の世代に影響を与え、また、難題や不可解事を次々と解き明かしたひとりの王として表現された…
しかしそれでもあなた方が、確かだとしているのは、この途方もない謎のミステリー全ては、あなた方に提供された(*訳注* 古代ギリシアの都市国家の)テーベのオイディプス王(*訳注* 古代ギリシア悲劇のエディプス王)の中で解決していると考えているということ…。
フロイトは、そこにも目を向け精神分析し、近親相関や身内同士での争いの原理を表すものと解釈した…
それは多くの徳目を持つ力の進歩した栄誉ある学識深い人たちの間でも…。
したがって、オイディプス(エディプス)を、彼はその謎の真実を解決する象徴と捉えた;それが人であるということであり、そして、守護/神聖の象徴としてのテーベ(*訳注*こちらのテーベは古代エジプトの都市)のスフィンクスは落ちぶれ色あせた…
(*訳注* 精神分析学者フロイトの主張するエディプスコンプレックスなどのこと:人の内には様々なコンプレックスや矛盾が存在し、それが、人の能力解放の妨げになっているとする主張.ここでのスフィンクスは神聖さの見守り役を象徴している)。
ヘルメティズムや魔術のミステリー・謎は、収束強化され、この小宇宙の内に恐ろしいほどの単純な全能性として存在している。
今日、私がもしも、ヘルメティズムについての話をすると、平均的教養の方々は、私の話を理解することができず、また、もしももっと人目を引く段階の魔術についての話しをすると、そんなことは時代錯誤と考え、聴衆の笑いは軽蔑へと変わってしまう。
今日、私は魔術師というのは人類すべての能力の可能性を結びつけるものであると言っています…
そしてその私の主張は、始まったばかりだと思われます…
魔術という言葉は現代的ではなく、古めかしいもので、それは、時々の一連の伝説・言い伝えとともにその意味が変性した科学である…。
魔術師というのは奇跡とも思えることを成し遂げるための秘密を持っていた者だったのです、それから変化し、ペテン師やいかさま師と同義語になった…。
この様に、それは、知恵の目であり、発明者の目、発見の目、その最も新しい応用は、その自然の力である…
それは、お感じのように風刺的なことには成りえない、…私が言いたいのは、それら(いにしえ)の言葉に再び能力を与えること、庶民の中にあの知的階層の何かを提供し、その全てに百科全書的で容易に信じれる明快な答を与えることです。
笑わないでください、私はそこに新しい言葉が必要だとは思っていません…、そこその時/そのことについては、古の言葉、それで十全なのです、またそれは、光を統括する明けの明星ルシファー(*訳注* 苦悩によって革新をもたらす反逆の堕天使)のすばらしい科学として、比類なきその可能性を示しているのです。
キリスト教徒は、その魔術の歴史の中で述べています…、そこには、夢あるいは明晰な人間精神の夢遊症なるものがある…、その歩みを通して人は、星の世界の秘密の知識に達する、またそれは、人間メルクリウス(*訳注* 神々のメッセンジャー役)の最も卓越した領域なのです、と。
つまりは、無限の知恵、あなた方の知らない本当の知識、実行されてない自然界の物事の本質、真の姿の根底にあるもの、それが魔術なのです。
おそらく、キリスト教の魔術師は、自己催眠術のひとつの段階に通じる、あるいは、人類の明晰さ洞察力を超えた状態に置かれることに一致している、それらが繰り返し働くことで意志となる。
魔術師は魔術の英知に通じた者です。
私たちは矛盾に満ちた存在である…。
こんな科学は、全く受け入れられるものではありません…、それは自明の論理的帰結のひとつ、それらの一つ一つは他の人たちにとってはもっと矛盾に満ちたものとなります。
正しい知恵をよくよく与えられた読者は、そんなことは否定し続けるだろうし、もしこの魔術を嘲笑するようなら、その基本原理を述べることはなかったことだろう。
これら重大な判断、その真実を私が、もしも感じてなかったなら、私はまったくもってお人よし、それゆえ、私はあなた方に忠告し、ヘルメスの扉の中に何があるのか、もっと良く明らかにしようとしているのですが、魔術概念と世の中の科学教育、それら人間の思考の両相の間にはとんでもない隔たりがある;…
それを統合する魔術は、永遠の知恵その最高質のものを提供する…
過去現在来たるべき未来へと;
そして現代の探求、大学の知識というものは、その進歩がゆっくりなばかりでなく、正当とは言えないもの…、これは名も無き未知のもの・誰も予測できない何かへと向かう…、そして、おそらく明日には今日の理論と共に否定されるだろうということ…。
よく見てください、でないと忍耐強い友よ、魔術というものも、私が確かに言うように、矛盾したものとして提供されてしまいます
うぬぼれない、高慢にならない、威圧的にならない:(いにしえ)の魔術は、文字としてはこの壮麗な表現と共にある…
それは最も慎み深く上品なものだということ、もしもその分別/良心や自覚というものが、神聖な知恵であるとするなら、それは本当に壮大偉大なものです。
実際の人類、その命をどのように深くポジティブに考察するのか…
この途方も無い現実を、理論的あるいは深く学問的に冷静に、また理解できるようにと、私は問い続けている:…
一方で、あなた方の魔術は何のためで、何をしたいのでしょうか

私は全てにお答えしました…。
それぞれの現実化/実現にとって存在しえる道筋の基本原理は、魔術的なのです:…
そして、あらゆる物ごとは、その普通ではない魔術理論を基礎として説明される、ということ…。 

研究の源としての現代心理学、そして、人間精神の新しい調査研究、それらは、自然と人間本質についての最先端理論の最前線…
そこにあるのは、自然界と人間の本質、一体化や社会との関わりとは別の理論として捉えられていたもの…
つまりは大衆を見守り、熱意を持って歩み行き、大胆に指揮し導き何度も何度も光明を与えたもの…、その最終到達点へと向かう明かり取りの窓/ルシファー…、言い換えれば、整然と身につけられた解決策/解決法、人間社会に存在する人の良識や自覚である。 

1898年、私は著名な方から尋ねられました:仮に私がちょっとその気になって、その秘密の教理を公にすれば、詩的で魅惑的なイメージの形而上学の再開花が無駄になり、目ざましい現実的成果という希望がたわごとにされてしまいかねないのでは、と。 
…日常の生活へと応用できない理論が、何の役に立つのでしょうか? 
人類に必要とされる永続的現実に対し、実を結ぶことなき無益な理論に何の価値があるのでしょうか?

ヘルメティズム、あるいは、理想的完全なる科学としての魔術、それは実現をもたらすものです:…

1° 宗教において(組織共同体の良心を統治するもの)
2° 政治において(民族や国の関心事を統治するもの)
3° 家族や一族において(構成員の基礎としての倫理道徳)
人間の内側にある謎としてのスフィンクス(*訳注* 神聖さ健全性の見守り役)、一般大衆の知恵

宗教や政治において、獲得される秩序に影響を与え、最終的に広範囲に及び、それは現実を変化させている…
古代ギリシアからの民間伝承、民衆の歴史、手に負えない難問との格闘、また人類平和の神聖なる真実、その闇に潜む敵を貫き、また、優れた類まれなる働き・労働の手、そして人類脳を貫いている気高きもの。
家族内の、と言うより、活動的役割の、表面には現れない控えめな、ただ単にその
父親役としての、つまり、対抗策を講じ、光り輝く目標へとメンバーを教え導くそのリーダー;
父親役、小さな要素でありながら、大衆社会を代弁するもの。

宗教・政治・家族は、国を構成する要素ですが、それらは、哲学的構成の組み換えという試み、第一義的で基本的実践のフィールドを創造するものではない。 
私たちのこのヘルメスの研究学は、未来科学の基本原理を世に広める大胆なミッションであり、到来の英知です…
なぜなら、それは、古くて忘れられたもの、人間の精神・生きている人間の本質そのものだからです。

それは古代イタリアとラテンの労働また働き、すばらしいヴィジョンと共にある「スフィンクス」の繰り返される進歩発展であり、そこ森羅万象の内には知恵や英知というものがある…
それは世界の命の源、そして最終目的でもあるです。 

ほとんど何の能力も無いか弱きよちよち歩きの幼児の想い、私たちはその種をまき、迷いコンプレックスを感じながら満々とたたえられた英知へと至る…
それは私たちの分別や自覚/良識にある命の透明性へと向かう根本要素として手中にできるものであった…。

その渦中には、絶えずらせんを描き熱を帯びながら打ち震え渇望する様々な嫌悪や痛みがある。 
そして、それは、私たちの学び舎が持っている訓練の場で実践されていたこと、私たちの中に目覚める力の基本原理の最初の芽生え、その本当の機能や働きは、効果的で実践的な実現化のフィールドにこそある…
35年前にそれは、
友愛組織ミリアム(*訳注* ミリアム:聖書/神の伝令役とされた女性の名前)で始まった
ひとつのシンボルのもと、その集会にユニークな精神的能力の研究者たちが集まり、たいへん多くの病を抱えた人々に影響を与えつつ、私たちはお互い触れ合い、治療や改善を、また、様々な苦痛や精神的苦悩を和らげる試みをしている…。

科学者
これぞまさにです…
それは、ひとつになること・直接的な応用、興味深い原理の内にある何か、それが少しでも解明したいこと…。
なぜ、あなた方は、友愛組織ミリアムと名づけ、この様な集団構成で独立的研究を提供し集まっているのですか?
それら潜在的な力は、助けを望む病に苦しむ人々の生ける肉体組織を改善させることができるのですか?
ジュリアーノ
私達は、兄弟姉妹親密な関係、 みな同じ探究・研究・理想に従っています。
修道院的秩序の外でも、過去においてこの世に散らばっていったカバリスト、錬金術師、そして、ヘルメティスト達、人間本性の大いなる謎を調査研究する人達全て、彼らは、自分達を兄弟と言っていた…。
言いかえれば、決して私たちが、そこに居合わせていなくても、私たちが知り合うのでも知り合いにならなかったとしても、です。
その困難な研究の進歩は、彼らの純粋さの中にある…それは私達も同じ、けがれなき純真な感覚、神との絆を求める忍耐力や意志が必要であり、忍耐を伴う宗教的な意志と言える…
日々の生活で次々に沸き起こる心の乱れに耐えぬくこと。
そこには信頼が必要であり、それを作りまた獲得すること…
そのまさに全幅の信頼というものが、科学の探求が本物になるということ、それが学説というものであり、その人の歩みであり研究をする場に流れる実りの時間である…。
私たち自身の中にあるその信頼は、その神秘的信頼と同じもの…
それは、自分自身のための壮大なる行い労働と共にあり、また他者のためでもある…
そしてあなた方は、それを思い出す…私たちは、自身と他者のために労働を共にしているのだと;…
そのカトリック的ユニバーサルな治療的創造的な働きは人類すべてのためであり、犠牲や忍耐をともなうもの、個人的には、広大無辺な段階に達しようとして、苦難の魂と傷ついた肉体のためにそれを提供する…。
すばらしい業績というものは、内なる理想と信頼たる先導役なくしてはありえない…
もしもそれが目的でその人が、自らをさし出しているのであるなら、それは光り輝く貴いものである。
あなた方はいつも思い出すのです…
イタリアは、幾世代何世紀にもわたり常に信仰信頼へと回帰しそれを獲得し続けてきたということ…
それは、ラテンの思想を統率する何かであり、ラテン・古代イタリアやローマ帝国の思想を常に一新して来たであろうこと…
そして、そのローマ都市の勝利のワシは、私たちすべての運命と任務のため、未開に対抗する新たなる文明のためにと世界へと舞い上がり、輝かしき太陽たるわが種族は、常に新しく生き生きとした世代へと向かうことでしょう…。
科学者
やっと今、私たちは、物質主義に抱かれた後、神秘的で柔らかな母の母乳のようなものにたどり着いた…。
そうですね?
ジュリアーノ
すべての理想は、神秘的神聖な領域に属しています。
愛は神秘的なもの、それは原因物質から生じます。
この神秘的概念は、唯物論で、人間の生体組織とその中身全ては物質もしくは物質の状態、光のような、活発な電気、地球の磁気機能のようなものです。
それは、自然界の歴史として語られて来たものです。
一方で、その物的材質の研究・検査・分析が完成された時、それは人間の理想となる機能や働きとして理解される、それら多くの詩的情緒は、私達のみすぼらしさを忘れさせてくれる…
そして、ある身体領域や影響圏のよりピュアーより軽快より高度な卓越した大気層へとそれは達する…。
その人間の互助的連帯共鳴の印象や感覚は、私達同類へと思いをはせる時、私たちの眼前へと現れ、その分かち合いは、人々によって徹底究明され集積獲得された恩恵となるのです。
もしも明日、ある人が3日で結核を治療する確かな方法を発見したなら、多くの人が望まぬ死から救われるかもしれないと考え、ホメロス、ウェルギリウス、そして、ダンテごとくの偉大な詩人だと感じれるかもしれない;
その神秘的詩情は地上の至福・かの楽園エリュシオンの豊かな実りをその人にもたらすかもしれない…。
これが、理想のマリアでありミリアム、…ユダヤのカバラ的教え・神秘で、すでに述べたこと;
それは果てなく膨大な数の兄弟たち・親密な集まりでその母性、その同じ乳を人々は吸いながら、宇宙の中に自然の大いなる謎を捜し求めさ迷った…。
日を改めてまたこのことについてはお話ししましょう。
多くのことをあなた方に明らかにする時ではない…
それには誰にも有益とは言い切れない多くのことがあり、もしもあなた方が、まずそれら可能な要素を理解し自分のものにすることができないなら、その何かは、私たちの生体組織に隠れた様々な能力の統合にとって必要ではあるが、その自然のもつこれら力とあなた方は関係しないということなのです。
科学者
私は、役立たないまたは早まった説明を望んではいません。
はっきりした、明確な考えを学び理解したいと思っています。
あなた方が理解している何かを私は感じている…その話の秘められ隠れた様々な能力は、進歩していないし知らない何かだということ。
この側面から多くの解説と説明が必要であるということです。
ジュリアーノ

明らかとなるよう私は慎重でありたい、ですから、私が明かす全てのことに疑問がないように、そして、私達の考えが思い違い誤解されないようにしたいのです。
課題点が正確であるよう、その解明にもっと近づき正確な意味を持つようにしたいのです。

ですから、私は人間の心身の組成が何なのかを申し上げている…
それは、肉体と知性という異なる状態の能力に渡っていて、そして、あなた方はそれを自分たちの中に、そして、全ての人々の中にその類似点として再認識しているのです。

肉体的強さ、身体的姿勢や態度、身体の抵抗力、精神および知性の機能や能力、そこから、理解や他の人々への反応という何か、色々な思考が表現されるということ…。
これらは、普通の能力です…注意してください、それらは色々なトーン・グラデーションで伝わる…
目的を持った身体的行為によってこつこつトントンと(*訳注* 肉体という)彫像を叩き刻む…、それは可能性のことであり、その精神的で知的な行為から言葉というものが発せられ、その理解へと至り、もっと多くの言葉が発生する。
しかし、私が言っているのは、これらの能力がすでに述べたように、異なるグラデーションを持つということ…。 

つまり、あなた方がそのハンマーのこつこつトントンで40キログラムの重さを持ち上げることができる一方で、アスリートは200キログラムを支えることができるということ;…
あなた方の誰かが、うっとりするような非常に美しいモダンな10曲を奏でる方法を習得していても、他の人たちには、助けをかりながら10回繰り返したとしても、まったく同様にできる能力はないのです。

今あなた方は、私が言っている人類の生体組織と精神の能力というものを知りました…
それは、すべての人たちに様々なトーン音色・グラデーションで結びつき、そして様々な可能性を持つものとして見ることができる。 

これらの人間という存在を二つのカテゴリーに分けてみましょう:
最も少ない能力の人たち、そして、進歩発達した熟練した人たち;20キロを持ち上げる人たちと、200キロに耐えうる人たち;
こうなるととたんに口ごもり口数が少なくなってしまう…、それは、”方言”での表現であり、人々は、多様な言語でしゃべっているということなのです…
詩や美しいイメージを描く、ピアノを奏でる、惑星の軌道という課題を球面三角測定法でひも解く、などです…。
私たちは、その段階の中に常にあり、その明らかになった人類の知識で、すべての人たちとコミュニケーションしているのです。

非常に進歩的な人に対しては、誰もが驚嘆します:
”私という者”は、その程度に達する可能性があります。

しかし、さらにもっと進歩した領域の存在、あるいは、媒介し仲立ちをする領域、その誰も考えもしない進歩した段階の内的能力の領域は、すべての精神的・知的・意志の可能性を超えた並外れた人間として現れ出てくる…、そのような人たちは、すでに考察したように、そのインテリジェンスや知識の最先端を象徴しているのです。

例えば:未開封で、箱も中の封筒も開けることなく、手紙を読む人。
もしもこの人が例外的なこのような行為を成し遂げたなら、他の人達はそれをすることができないということを意味する、それは:

1° 彼の生体は進化していて、箱の木材を通過して内容を読むことができる能力がある
2° 先天的にそのような隠れた生体能力が彼にはあり、それが具体的に現れた
3° 結果的に何か、彼は他の人たちと同様、動物的なある種の能力・その長所を持っているが、他の人達は持たないが彼にはそう見えるであろう何かのその様な生体組織があり、その木材をすり抜けて彼がその様に見ている…それが、その様に適合し可能性を磨いたのか・・・調和適合したのかもしれない、そのような素質や経路で繰り返し探りを入れたのかもしれないということ。

私たちが、実際実験的に得た成果は、お互いが触れ合うことであり、観念どうしの共有一体化・同時発生性、その一連の過程です…
それは、情愛・二人の実験者間の本当の親密性であり、お互いに求め合い才能や素質の可能性が交錯し合うこと…
普段人間の生体組織ではありえないことで、入れ替わり・感化を定めるもの…
私は、二人の本質的共通項共有項目に生じる何かで、一方の人には発達していないが、他方には良く機能している本質だと言っている…。
その媒体による命の一体化、感じることができる媒体、そして人は肉体的属性を持たない人はいないということ、あるいは超自然的な精神という属性を持っているということ…
それは精神的影響というこの感化をナチュラルに引き起こす…鉄が磁石に吸い寄せられくっ付き、その引き寄せる性質を自らに得る様なものなのです。
命ある存在どうしがひとつになろうとする法則があり、それは、その進展段階の痕跡を残しながら進歩し前進する、その欠陥や不備を補いつつ、その能力や効力は、その影響による感化へと向かう。
学校やクラスにおいて、常に生活を共にする生徒と先生の間では、その子供たちの影響は、精神的成果、また教え子たちのモラルによって決まります。
学校で共感をしめす先生は、若者たちのグループを感化し好意的で暖かい雰囲気を放ち刺激する…、その中心的立場を得て、彼の方法で彼らとコミュニケートする、それは彼の精神的ならわしであり、彼という存在の声のトーンそのものです。
もっと広いフィールド、人間社会、人の集団、スポーツ界、政治団体、特別あるいは特殊な性格のグループは、様々な人達によって構成され、社会化され効果的な方向性で導かれている。
国家(政治的社会)においては、そうした人達は、運命をともに、まれに政府を統治する指標ともなる…
さらに多く、ほとんど常にと言えるかもしれないが、彼らはお互いを反映しながら皆、その様にモデルに忠実な生きた例となる…
人間の慣わし習慣また同意によって結びつくどのような小さな集まりでも、その集合的特徴は、その中心に磁化された人、光を放つ太陽によって限定される。
この様なものに、良くも悪くも、欠陥や悪癖、そして徳や価値、何もしない怠惰、また職務への意欲がある。
美しい芸術・音楽・絵画・彫刻・彫像術でも、科学的研究家の人生同様、またマイナーで世俗的な芸術の教育や実践にも、この法則が存在する…
そのどれもまだ影響が計測され確定されているものではないのです。
そして、この様な例が増えることは有益ではない。
確かに私たちの存在をそのような手法で感じること、また、その影響の感化力、それから他の人たちからのコミュニケーションのもっと強い活動的影響等から受動されるものという点においては、妨害的なものや加担(かたん)というものがあり、それは私たちが何かを知るということではない…、それは、その時々によって様々なのです。
それらは、何度も一日のうちに訪れる個人的現象で、全ての人たちに来る知的理解、メンタリティーに本来的にしっかり備わっている何かであり、他の日他の瞬間には、可能ではなかったもの:…
ひとりの人間の内に明白な直感的思考と共に訪れる…
それが、この近くあるいは遠くのしゃべられることのなかったこと…
それが、ほとんど全ての人たちに理解されていること・愛情や利することを受け入れる状態の中にあるものですが、この現象は意志で再現できるものではなく、また、皆が皆ではなく、全ての瞬間にナチュラルに起こることでもないのです…。
著述家たちは、他人の考えを読むこの能力について”だけ”に気を奪われているが、それはテレパシーと呼ばれているもの…。
それでもしもそれが、存在する私たちの隠れたある種の何らかの性質、例外的で並外れた、また、スプラッシュアウトし私たちの中に示されている何かなら、私たちのつぶやき/その思考を読み取るという様式における何かには、論駁できない食い違いやその矛盾というものがあり、それは言外に現れるもので、その力は、隠れたまた無自覚で無意識的な何らかの方法で開拓され得られるものかもしれない…
また現実的にそれは、私たちの隠された手つかずの美徳や長所、そしてまた、ある種の予想もしなかった意外なものとして存在しているのかもしれない…
私はわかりやすく話し、あなた方が理解するようにお示ししたい…。
普通にそれは、私たちの知覚の中に展望や想像・景色・ヴィジョンの媒体を通って入ってくるもので、つまりは視覚に関するもの;…
その目、それは生体組織の器官です。
見ること、両肉眼ではなく機能の中に入ってくるもの、”秘密の手紙”であり日常を超えた作用、普通にやって来るそのヴィジョンの様式と共にあるもので、コントラスト明暗の差には大きな違いがある。
パリ国際超心理研究所での、私たちの医師ロッコ・サントリキド、リシェ博士、ゲーリー博士、オスティー博士と、その他の我慢強い検査官たちの身体現象と知力また有機生体系能力の超常的現象についてのケースでは、それはこの目的とともにあり、人間についての現象という科学を資料で裏付けることであり、共有される様々な日常性を導き出すことです。
科学者
よく分かります。
その超常性は、私たち個人の生体組織の能力であり、例外的なものでありながら、ある種のつながりをもって系統的普通性としてこの同じ現象の中に現れる。
それは、それまで示したことのない能力として思いがけなく不意に現れるもの、そして無意識的である。
それは、五感覚として人が持ち表現している現象にちがいなく、まだ私たちが気づいていないメカニズムを通って現れ、他人の考えを読んでいるに違いない…。
ジュリアーノ
…そしてその他多くの現象が、いまだ国際超心理研究所の調査対象外なのです。
距離を隔てた意志的行為、事実としてやってくる直感的予告、夢のヴィジョン、テレパシーによって生じる物事、あるいは神様のお告げ、その意志作用の領域、刺激され活気を得た対象、あるいは意志無きもの、言葉として発せられた表現、また、考えやアイデアが言葉となりそこに投げ掛けられ湧き上がってくる未知なるもの…
私たちの存在の奥底から湧き出ていつの間にか立ち現れるもっと素晴らしいもの、その探り探索打診というものは、自覚無く無意識的な精神状態の直感へと至り、それが訪れたことの無い悩める者たちへと至る…
それら改良改善的な流れの線にそって走り伝わる個人個人のオーラや霊気雰囲気へと至り、その他の数え切れないケースへと至る…、それは私たちが魅了される研究課題なのです。
科学者
わかります、まさにそれは歩を進め、領域は拡大していく…
そして、それらの進展領域に知らされ前もって推測される…
提示された問題を経てそれらの現象は、確認された事実へと至る…。
ジュリアーノ
友であり兄弟の親愛なる人よ、この小さな人間という動物は、不可解な謎であり奇跡なのです。
悲劇の王オイディプスは、指摘している問題を解決してはいなかったということ…。
先に進みましょう…
分析吟味中のそれらの力には、未知の基本要素の動きがある…何かが、それを動かし爆発させ影響を与え燃え上がらせ滞留という池に留まらせ続けている。
私たちは、そのプシュケー(呼吸・いのち・心、魂…)に目を向けている…
古代ギリシアの言葉で表現しようと、もつれにもつれたそれを知り信じようとしている…そしてその全ては誰も知らないということ…。
私たちは、そのたびごとに言葉を推測から考案し、それについての知識を作り上げてきてはいるが、それは私たちの無知である…。
医療がたどり着いた所は、病や疾患と呼ばれるものを作ったということ、人はそれを信じ治療し無くすことに成功していると信じている…。
パリとベルリンで研究していたある中国の医者は、私に言った、中国の方法によれば、もっと多くの呼び名が考案され、もっと多くの悪霊が作られている、そして、その複数の呼び名で悪しきものをさらに増やしている、…なぜなら、そうした名前が、生命とそのフォームを悪しきものと解釈し攻撃し、彼らの父なる神に無礼な態度をとる、そこには豊かな学識と創造というものがあるのに…、と。
人間とは、親愛なる兄弟の友人よ、それはあふれほとばしり出る嵐のセンター、また、それは自身を定義し、この世界の様々な感知認識に行き渡り、人を取り巻いている何か、そしてその心の扉をノックしている何か。
また、この知覚は、不安や苦悩の感情でノックされてもいて、先祖代々のあるいは本能によって支配され、選択によって身につく…。
それは聖母マリアのもとおだやかにねむる天使のようであり、また、抗争を夢想する獣・大殺戮をもイメージさせる…そして、その気ままな歩みの周囲や後には、痕跡や匂い足跡が残る…
それは獣たちのような勢いある成長する何か…、その何かが密集した樹海をうろつくが如しである…。
身体的にすべての人間は、気配オーラを発していて、それと接する人たちにしばしば感じられる。
その特殊な匂いは、人体の生体組織から発散し、そこを取り巻くオーラの一部となる。
それらは様々な印象であり、動物身体から発散され大気と一体化した物質であり思考の如きもの…。
犬は、微妙な嗅覚でそこにいる人のにおいを感じる:…
この人のにおいは、これを発散する生体の分子によって形成されている。
その犬は、ご主人様をかぎ分ける…。
人は、犬のような臭覚を持たないし、生体組織から発せられる匂いに敏感ではない…
それはこのオーラが、すごく濃縮されている、または特に注意を払っている時だけである。
ある女性たちはすっぱい放射物を感じ、別の人たちは花の香りを、また別の人は、周囲の魚のにおいに無頓着…。
人類は非常に清潔で、毎朝トイレに行き、不快なものを排泄する、それはすっぱい蒸発物でもなく胃の調子の悪いときに立ち上る臭いでもない、特に何ということは無いが、その健康状態を調べに行っているのかもしれない、いずれにしろ、ほんとに嫌な臭いが残る…
そんな人々は自動的にその何かから遠ざかり、何かに近づこうとしている…。
それは、女性のオーラであり人はその何か、有害なる毒を愛する…それがあなた達の心と感覚を奪ってしまう。
その女性のオーラは、彼がほんとに愛する何かであり、愛される何かではない…彼はその刺激を敏感に感じ、彼の生体組織すべてはあれこれの思案で取り囲まれるのです。
したがって、それらの分子・私たちの生体の見えない部分、人はこれによって他者から分離していて、近くで生活する誰かとのコンタクトに入って行く。
さらにこの何かの力は多様に、人間の生体組織の物質を揮発し、これら多くの微粒子を放出、人の軽い霧や蒸気として濃密化される。
これらは自然の本質なのか?…
少数の人のみがそれらの研究課題を注意深く見ていて、その実験課題は本物となっていく…。
このオーラは、すでに述べましたが、磁気論者たちは人からの流れ出るものあるいは磁気化するものと表現した、後のデュ・ポテとメスメルの信じたものであり、この磁気的流れ、この効能が伝わったもの、放射され同化吸収される最も微妙な状態の何かなのです。
実際、日常生活であらゆる種類の人で隣り合うふたりのオーラは、互いに交錯しひとつになり、ふたりが扱う物事の結果について前もって手はずを整えている、それは関心ごとであり、学究的議論、重要事項の決定である
その共感的オーラを与えられた人たちは、すべての物事でお互い受け入れられやすく相通じる;…
ある種の説得弁舌はオーラを放射し行きわたる何かであり、その声は浸透する…そのイントネーションは多少なりとも音楽的・優雅な話し方、それを聞く聴衆を徐々に惹きつけ最後にはひとつになりたいと思わせる…それは、まるでその人々が、それに聞き入り寄り添っていたかのようである。
知的段階において人には、それぞれの能力に応じ、脳にその特定野というものがある…それは生理学的に考えられた思考のそれぞれの働きのセンターであると考えられている。
ですからそれは、この点からその何かの力が外側へと放射され、語り掛けている様なもので、その様な全ての何かが理性に働き、人の様々な行為また人類へと機能していて、その何かが、かかる事柄を支えているに違いない…。
それらを託され旅をするもの、その取引の仲介役、店の売り子、そのおしゃべり屋さんたち、それらあれやこれやの大口上は、これらを適合させる指南役なのです。
それらは本能的鋭敏な直観力を持っていて、それらのおしゃべりを効果的に利用する…。
その働きは、ほぼ自動的で、長い古くからの習慣、人の全ての動きや身体行為を成していて、その思考や自覚された意志によって直接的に導かれている; 言い換えれば、その働きはそれらの行為を成しつつあるものと言え、人はそれを知っている、何を欲し何をしているのかと…
つまり、人の行動やそれに応答しえる何かの意識です。
また一方、私たちの中には、クラシカルな慣習での決定に付随し、はっきりしないことも存在します:
守り蓄えられてきた感覚や印象、事実であり、別の機会や瞬間には、私たちに申し分のない知覚意識を与えていた、つまりそう望んでいた、または、なんとかがまん忍耐していたその感情や情緒であった…
それらをコントロールし味わいつつ、楽しいのか苦しいのか、うれしいのか悲しいのか、そしてその後、それらは、私たちの記憶からゆっくりと消えていったということ…。
それらは、ある時には流れるイデア(思考・観念)や印象であり、そしてまたゆっくりと化石化する…、それ自身の程度/重みであのレテ(忘却の川)の奥深くへと沈み、そこでそのイデアや情感は、生きている宇宙の流れへと埋没する…。
私があなた方に言っているこれらの一言たりとも忘れないようにしてください:…
私は、今日の科学的心理学のこの困難な思索的見解をあなた方に提供している中で、他の人に遅れをとっているとは思っていません…
イタリアのヘルメス学分野に生える草木という哲学のえさをあなた方は、食べ過ぎないように、そして私がイタリアのと言う時、それは、魅力的独創的なと言っているのであり、より高度な意味のこと、この宇宙の知性、そのバランスの事を言っているのです。
科学者
それは、イタリア民族と呼ばれる血統内の何か、後のラテン民族の中に波及していったもの、栄光のその澄み渡った精神であり、曇りなき形而上学である!
(*訳注* 形而上学:現象界を超えた絶対存在についての学)
ジュリアーノ
そう、ですから、私の話を聞いてください。
 
 DNAや生命物質と人間、万物はどの様に関係しているのか
これらの考え、イデア、行為、事実、印象、情感は、他のケースにおいても私達の状態であり、破壊されることなき記憶の地へと立ち去ったもの…
それは、本当に消え去ったのではなく、ただ没入した忘我専心の未知の深淵へ沈み行き、忘却のあの川の水で満々と満たされたその奥底に受け入れられ守り置かれているということ…。
次から次へと、事あるごとにそれは受け入れられるが、私たちはそのどんなメカニズムも理解してはいない…
それら水面下の(思考、イデア、感覚、行為)ひとつに私たちは関心を寄せる…それは、この未知の深淵から泡となって再び現れたもの、したがって、私たちの自覚の部分や私たちが対処できるかどうかに関係なく、生き生きとした観念や行為としてそれは影響を与えることになる…。
これらの保存され見えなくなっているイデア、忘却の行為は、私たちの第二の意識、気づかぬ意識であり、それは人の無意識、あるいは、人の無自覚・自覚していないことを成しているものです。
古代魔術はそれを人のアストラル(星的な性質を持つもの/幽玄界)と言っていた…
光のないその領域、照らし出されていないもの、そこから姿無きものが閃光を発する…
それは私たちの内なる歴史であり、そして、何度も何度も繰り返されるGenio ジェニオ:天啓・心の内奥至聖所・精霊・神聖なる英知の言葉である。
多分その最初の着想はグノーシス(神智)派の邪悪の天使、またはダイモン(導きの霊・守護霊・悪魔)のもので、それは私たち自身の中に隠されているもの…
その神学的に階層がごちゃまぜになったものは、人間の無意識の深層からの恐怖を持ち合わせていた…
不覚にも病的な精神が頭をもたげ現れた ―― 病的なものはキリスト教会へと向かい、すべての儀式と魔よけはその醜い獣に敵対した…
これらは様々に散って行きその形跡を残した…それらの無自覚的イデアが、信仰的自覚とふるまいの層の下にあるのです。
したがって、それらの行動は物質的な肉体が成したもの、私たちの覚醒した知性インテリジェンスによってコントロールされなかったものです
これらの行動は、自動的ではなく簡単に定義できるものでもない…
なぜならそれは、私たちが知らないメカニズムで覚醒されるもので、その無意識性に従うものだからです。
精神分析の創始者であるフロイトが、付与したその保存場所にあるそれらのイデアは、その無意識の中・人の子宮の命にずっとあり、またその感覚は、母体から出たものであり、再度その無意識に返されたもの…
それが、非常に無秩序な神経の根本原因…、また、精神や心の病や不備でもある…
それには、シンプルな感覚論的あるいはイマジネイティブな感受性からの偏執症、そして狂気にまで及ぶものがある…。
その精神分析学者が示す新たなその場所は、精神病質的無秩序の忘却を原因とする領域である、と基礎づけられた…。
無意識の中に埋没した様々なイデアを呼び覚ますことは、またその同じ無意識自体の表れとしての夢を理解することである、と…
科学者
そのような精神分析の論評は読んだことがあります…
ジュリアーノ
そこに人は、先導点としての新たな人間存在についての前衛科学を見る以外ない…
その中には人の執着が示されている…欲望と苦悩の無秩序があるということ…。
古代イタリアのヘルメス学派は、マグナ・グレーチア(*訳注* マグナ・グレーチア Magna Graecia は 古代ギリシア人が植民した南イタリアおよびシチリア島一帯を指す名前)の時代、またもっと古代の源からインスピレーションを得て哲学研究の地となっていた、それは文字としても華麗なる教義としても残されることなく、人のアストラルあるいは無意識内のイデア・印象・前概念的命の記憶にと探求されたもので、つまりそれは生前ではなく子宮内の命、フロイトやその後継者たちが探し求めたもの…
(*訳注* ヘルメス辞典のアストラルについての概念を第9対話に記した. 仏教唯識論の阿頼耶識(あらやしき)の概念に近いかもしれない)
科学者
あなた方が言わんとしている学派の教えは、無意識を成しているもの・私たちの命に先だつものの歴史を探求しているということでしょうか?
あなた方が受け入れているのは、要するに生まれ変わり以前の概念…、それが科学であり、原始的民衆の信仰と同時に生まれた野性などでもなく、真の個人にとってそれは知りえないことで、死後には何もないと断念することですか?
ジュリアーノ
断念されそのままにされ受け入れられていること、ある種の科学者たちの規定する宣言というものは、全くもっての空論、古臭く、彼らは60年前から依然そのメンタリティーで生きている…、それは誤解です。
それも、確かな教義理論意見として受け入れられるものではなく、あまり研究されてはいない…、先入観なく吟味された帰結でもない…。
私たちは、毎回毎回作り変えられ提供される空虚な新品のタバコケースではなく、また、科学の変わりゆく知識で満たされる存在として準備されているのでもない…、それは常に前進し続けるものなんです。
それら魂の概念というものは、ひとつまたひとつと神聖な製造センターで生成される…
それには他を寄せ付けないところがあり、少々愚かで馬鹿げたところもある…。
人の息づかい・整形され構築されたその苦労に価値はないのかもしれないが、欠乏や不備に満ちた私たち存在の年月の一時を耐えぬくこと、そしてその後へとそれが続かぬよう仕上げることは、人が成したその経験という利益利点をそこに与える。
私が言っているのは、シンプルなこと、着想の愚かさのことであり、それらはそっとそこに横たわっている…
過ぎたる考えをしないということであり、それらすべては、生まれ変わり主義者のものではないのです…。
そして、この愚かさが受け継がれてしまうことは、宗教的なイデアの宣教に違いなかった、…それが地上に幸せをもたらすことはけっしてないのです…。
その天国天空というものは死した魂たちで満ち満ちた大きな鶏小屋(ごたごたした場所)に違いないのかもしれない…。
まさにその天国天空というものは、世俗的にはその様に理解されていた、そんな知性の一般庶民はそのように想像し、また理解している…
しかし、ラテン語での天国(*訳注* coelum)は coelare(ケラーレ ”空にする”.*訳注* 現イタリア語では celare チェラーレ 主に抽象的なことに関して 隠す.… ?(くう)?…)から来ていて、隠すこと・ベールで包み隠すから来ている。
神々はみな天国天空の中にいる…、そこは、地平の境界線から・私たちの記憶からは語られないところ…
そして始まる驚異の鉱山未知の宝庫、今日それは、当初から存在した私たちの命と私たちの息づかい…
科学者
しかし、私たちは、どの程度検討し、言及していたのか…
人間の精神とは何なのか、息・風・呼吸ではない何か、人としてそれは自分自身へとつながることができるのかもしれないが、もしもそのアニマ魂(息・風)が、肉体から出ていくなら、それは、呼吸できる空気とで混乱をまねくことになり、そして地球大気の懐深くへと散り消えていくのか?…
ジュリアーノ
それは私が説明し、また私たちが検討したこと…、アニマやスピリトという言葉の意味は一般感覚での心的輝きの価値のことで、つまりその本来からのものでない意味も与えられている、実際これは言われているものではなく、そんなものも言葉も存在していないし現実的に存在していない。
この概念、個人のアニマあるいはスピリトは、死の瞬間肉体から立ち去り、透明な新たなる活発な見えない存在という身体にと解放され、さ迷い生まれ変わる(*訳注* 生まれ変わる reincarnazione : re- 再び- incarnazione 具体化する)可能性はあるかもしれない…、これが現代スピリティズムのイデアである…。
古代イデアのそれはピタゴラスから来ていて、信仰としての殿堂へと取り入れられ彼らの知るべき教えとなった、その何か命に先だつものへと持ち込まれ、そして与えられた信仰としてのミネルバ神(*訳注* 知恵と(わざ)・医学・戦いのローマ神話の女神)への捧げもの…、もっともそれは作られたもので説明されているものではなく、別の何ものか、そこから新たなる何かの実体(*訳注* 何かの実体:原文では corpo コルポ;肉体,ボディー,物質,死体,存在,…)へと至る…。
その肉体的な肉の重さから解放され出て行くこと、これは固形物としての組成体としては現れるものではないし弁護されるべき器ではない、それはまず第一に開放されるものであり、それ以上にこの背後に隠れていて概念としてはっきりせず”闇の中”…、この中に展開され、ある種の新たな素材/要素が編み込まれている有機的なもので、扱いとしては多分シンボリックで現象として示されるトランスミューテーション(*訳注* 変換、変質、転化、変転、…)である…、目に見える以前に精神的なもので全くもってそれらは庶民の有象無象…。
そして、親愛なる友よ、もしやその通り道はひとりの母親の体の子宮と直接的関係があったのか?…
そして、もしもひとりの魂の代わりに、通俗的にそれが、人の呼吸で生命エネルギーを結果としてもたらす作用と理解されるなら、精子や胚・原子以外のミステリアスな何かがやって来ていて、一生を終えた生命の全ての経験をまとめていたのか?…
そしてこの芽生え発生へと、その利点を保持しながら、自らが結びつき、受精受胎に始まり、そこに存在するある種の物的な命の高まりとして養われていたのか?…
そして、もしもこの芽生えが、その能力…昏睡冬眠の様な状態に落ち込む力を持っていて、例外的特殊な枯渇乾燥によって保存され、思考を伴わない休息状態の中、何かをあるいは受精受胎の声を我々が召還しているなら、ひとつに結合する行為で、それが肉体的愛官能のその深みへと引き付け再覚醒させ、そして、自発自動的創造の完成へと向かう元/原因となるのか…、そこは深い暗闇の光なき巣窟(住処/すみか)・懐、血の浴室なのか?
そして、もしもその自然の本質そのものである種子精子(*訳注* 現在の表現で言えば生物圏のDNA群か?)が、生き残りをかけじっと耐え、立ち向かうは、最終的に消滅しないこと…
任務はその重大事を生き延び、新たな受胎卵子に取り付く、あるいは繁殖力のあるある種の下等な動物たち、犬・馬・羊子などか?…
科学者
たぶんそれは、ピタゴラスのイデアで移住越境(転生)というもの、人の肉体の中のアニマ魂、多かれ少なかれより自分の種に近い動物たちの魂の輪廻というもの、これが起源なのでは?
ジュリアーノ
歴史的また哲学的に私が信じるものはそこには無く、容認できるものではありません。
私たちの学舎の真の学徒たらんとする者は、課題に自ら対面しそれらを解決しなければなりません…
なぜならそのヘルメティズムは教え(られ)るものではなく、ある種の求道的経験をもって為されるものだからです
私は何回もこのタイプの無益な教えについて説きました、何千人もの群集に向けて魔術の不思議や聖詩歌集をくり返すなどはできるのですが:彼らには、耳はあっても聞かない、目があっても見ない、舌はあるのにしゃべらないということがある…。
探究の芽ばえの内的静けさ、非常に精細な哲学の豊かなその思索、cum grano salis クム グラノ サリス ひとつまみの塩で、よくよく考え良識を持って見るということ、それは、魔術の斬新さを創造しスタートさせ、そして、宇宙の新しいヴィジョン/展望、これをはっきりと描き出すものです。
私があなた方に言っている肯定的なことというのは:このようでありそれ以外ではないということ
あなた方は、その個人的な見解に多くの重きは置かないでしょうし、また、私の意見は、どこかの雑貨屋さんの推理と同じでしょうが、それはいまだ関心を持たれたことなきことで、実を結ぶことのなかったあの不妊不毛の誰しもが決して関係したことがないこと…
小銭入れのような何かで、あらゆる普通の人々がすでに関係し持っているのみならず、死後の何かにも及んでいることなのです。
私はあなた方に、友人ピタゴラスが正しかったのか、はたまた、ある種の確かな真実を言ったのかどうかを言うことはできません。
代わりに、それらの可能性を列挙すること、また問題解決への課題を提議することはできます。
まず第一に、それは発生の初期段階・その根源・ルーツのことであり、あえて何かを引き受けること、それが影響を及ぼし受け入れられること、ある種の覚醒…、私たちはそれを命と言い、ある種の状態・性愛の官能(愛)、ふたりの生ける存在のものだとしている…、言い換えてそれがこの胚(*訳注* 卵内のある発生初期の生体)という何かであり、ひとつのその成熟へと訪れた…、官能の熱情過程へと入り込み、つまり原因の愛でありそれ自身を肉体化させ続けるようかき立てているということなのか?
科学者
あなた方は、不確かな可能性という条件下での物ごとを明らかにしていると信じている…
しかし、あなた方のこの説明は熟慮されてはいないし、私を混乱させます。
私たちは、そのように適応し、そのようなバラの花の小さなベッドに身をまかせている、…考えているのは、死後どう神々に対処するかということ…
それは、ただひとりでそこに私たちが置かれている宿命的状況をあれこれと想像しているということ、それは及んで私たちの根源の本性そのもののこと…
私たちは成熟していない…セイヨウカリンの実のよう…
(キリストの)復活または新たな肉体を作り直すようで、私は空虚さの中に投げ込まれた感じです。
(*訳注* セイヨウカリン:果実は硬く酸味が強いので食べる前に霜に当てたり長期間貯蔵したり熟成させる必要がある、古代ギリシアから中世では重要な果物だったが、その後はあまり省みられていない)
ジュリアーノ
最愛の友よ、かの詩人たち(*訳注* ヘルメティストたちを遠回しに言った表現)は、イメージしたイデアで人々を不安がらせたりびっくりさせようとしているのでも、その言葉で甘美な世界に(いざな)おうとしているのでもない…、彼らはその喜びのハーモニーを響かせている…。
一方で私のこの意見はあなた方を混乱させている:…
私はあなた方夢想家の記憶を想像することはできないでしょうが、その無意識には、夜間あなた方以前の生命の輪廻のようなものがその心を動かしているとは夢にも感じていない…、私が言っているのは、つまりそこであなたはその瞬間現実的落胆の憂鬱に感化されているということ、そしてそれは…一種のトランス/催眠状態/恍惚状態であり心の奥深くの記憶が無理にそうなってしまっているというそんな形式なのではないですか?
はっきりとさせて下さい、そして何も言わなくで結構です、まず深く考えない人は誰もいませんし、それは人々が恐れているその亡霊/幻覚のイメージ…、私がほのめかしたこの様なものは存在していないということ。
それは甚だしい間違いでしょう、なぜならそれがあなた方の前に立ちはだかりそんな問いかけで尋問されているってこと…(*訳注* 甚だしい:はなはだしい間違い errore(エラー) madornale の madoranale には、はなはだしい という意味と 古語としての 母方の~ という意味がある.したがってここでは原因としての当初からの間違いという意味が込められていることになる)。
それが人間というものである、とはいえそこに潜んでいる自分自身には新たなやっかいな困惑の何かが置かれ、形成された見解の全てと向き合っている…、ちょうどある種新参者の犬が加わった群れのようなもの…、お互い単純に拒絶するわけにはいかないということ、そしてそれが、ヘルメス学派というものであり、拒絶そのものに向き合っている…。
全ての拒絶、全ての拒絶に対してです。
…除外されるものは何ひとつありません。
たくましく良識を持ったローマ人たちは、ローマで東洋宗教に熱中する人たちを見ていた時、彼らはある形式で高度な神秘的舞踏曲を熱狂的に踊り歓喜し、それはさらに拡大していった…
それで、彼らは終息することもなく、はっきりとしない神聖さという誉れに落ち着くこともなかった…
私たちの長老たちは、そのような熱狂人たちの(精神的重苦しい)重圧を哀れに思い笑っていたのです。
人間本質の神秘は、その実在・真の性質の中にあり、その存在しているものは自然の中に、そして、種族の能力の中にあるのです;…
残りは脳内の言葉の土壌(*訳注* 言語野のことか)に育つチコリ(* 訳注* 脳の変化を言語野に育つ野菜のチコリで表現しているのか?)であり、ちょっと酸っぱい(鋭い機知の)宗教的哲学の原型となるものです。
人は生きている物質から抽出されて、そのような本質的精神の中に慰めを求める…
それが物質的身体から何かを分けているのだろうが、思考の生命にとってそれは絶対必要な状態だということ…
なぜならその生ける肉体・血・胃なくしてあなた方は、考え哲学することはないし、羽ばたく天使を感じ、そして精神化空気化された個人をあらゆる神聖なる存在”感”へと至らしめることにははるかに及ばないし、その喜びを味わおうと試みることもないのですから…
科学者
ご説明ありがとうございます; しかし、あなた方が提示してくれたものは、私たちの戸惑いを解消するには充分ではなく、新しい熟慮や表現以前に、私たちの習慣として作られたものでかき乱されてます…、そしてそれが疑念となり、何か弱々しくはっきりしない意識が、ある種の苦痛や不安になっています。
ジュリアーノ
フロイト派の精神分析者たちが理解していた神経症の治療法は、理性的な分析に人を導き、記憶にあるその真の原因へと立ち戻らせ、そしてそれが特定され告白されること…。
それは治療的なある種の衝動を経て回復へと向かう…
なぜなら全ての神経的精神的不調の根底には常に不可解な何らかのアンバランスがあるからで、それは脳から発して全ての神経システムに及び、より敏感な生殖領域に達する…、そこに留まりそれらの力は変質し、私たちの資質・私たち存在が地上で背負う欠損・シンプルかつ複雑なものとなる…。
私たちの学派、そのフロイトの精神分析の始め、そこで助言されるのは、心の内を明かす場合、非常識でない原因/不和なき原因へと回帰し続ける…、あなた方自身の中で、あなた方自身に対して、びっくりすることが何もないということ、です。
社会的教育、家族の宗教の教えのことであり、あなた方の命に関係し学習されたこと…モデル化された習慣のことであり、そこにある偽りや事実でないつじつま合わせ的なものそのように思えるもののこと、つまり外見上そう思われること、そのように見えるもの、そこに具現化するある種の形式で接触してくる全ての人たちに受け入れられているもので、真実ではなく誠実でないもののことです。
その生き方が表現されたもので、本来の思考、様々な価値観や感情感覚が隠れ潜んでいるもの…、人格の顔のようなもの、ここでは洗練されていない、言うなれば、あまり効力のない実り少ないもののこと、うわべをつくろう漆喰(しっくい)のような頑固な虚飾であり、何か「自由で本源的な」あなた方の良心的自覚/良識を覆い隠した状態にしているもののことです;…
多くがそしてこのように長い間その習慣の状態にあり、あなた方は、それ以上の状態に達することがなく、打ちのめされることでのみ自分自身を知ることになる…
あなた方は、その起源原因の内に存在していたのです…。
私たちは、私たちの学徒と友人に、自身のそして周囲の人たちのため、自分を詳しく点検してみるよう願っています。
自分の衣服を脱ぎ去ること、それは教育養育であり自身に成すこと、殻を打ち破り脱皮すること、その人にとっては善意のことで最も身近な指導役、彼を取り巻き包み込んでいる諸々のもの、そして、ヴォルテール(*訳注* フランスの啓蒙思想家)の小説カンディード(*訳注* 不幸の果ての希望を象徴:純白/無邪気/悪意のなさ/素直)のように…、裸で洗礼されること自らを清めること、シクトゥ・エラトゥ・イン・プリンキピオ 始めに在ったように(*訳注* ラテン語 sicut erat in principio)…。
その時、あなた方はあれこれ考え、訳が分からず怖いのか、あるいは新たな光にシンプルに純化を感じ、それ(怖さ)をシャットアウトするのか?…
もしもそのすべてが、神学者が神学生に言う事の始まりの始まり(*訳注* ラテン語 :incipit ab ovo インチピット・アブ・オーヴォ:元々の卵という表現)なら、つまり、それはコロンブスの卵(*訳注*簡単なことでも前例のないことをするのは難しい)が、それだろうか…
科学者
カンディードのように自分を裸にすること、対して社会的見せ掛けの奥に潜むもの、そこには真意本心があり、それは本当の思いやりでなければならない。
そして、人はこのように裸になることができるのか?…
ジュリアーノ
それは簡単なことではなく、それがふさわしい、なぜならその外的な動きに対する傾向として、人は精神的粘り強さで応じることで、対置され裸にされていくからです。
夢遊病を発症した女性や少女たち(愛する人たち)、その カリオストロ(*訳注* 少年少女を霊媒に公開の交霊術を施したとされる)の時代、露呈し露わになったもの…、そこには、人間の中の眠った人格、つまり人のアニマの本性や能力・その意味を喚起するその単純さがあった…。
科学者
いま、私の興味は大きくなり、それで分からないのは…
ジュリアーノ
夕暮れの光も色あせ、そして、もう地平線はふたつの様相を呈しています…
それは、四つの翼をもつイドゥリエル(*訳注* イドゥリエル 原文 Idriel という言葉は存在しない ― ジュリアーノの造語か?― が、idr-i-a は”古代”ギリシア・ローマの水がめ・転じてみずがめ座か?、idra はギリシア神話のヘラクレスが退治した九つの頭をもつ海の大蛇・手に負えない難問の意も、idola イドラ(偶像)(盲目的あこがれ・幻想・熱狂)参照、…)のよう…
あの峻厳なサトゥルヌス神のメッセンジャーで、神聖なるネボ山では優しさと言えるものではなかったが、それはメルクリウス…、”時”は喜びや好意を得ようともだえ苦しんでいた…。
(*訳注* ネボ山は、ユダヤ教キリスト教イスラーム教共通の聖人で約束の地へと向かうモーセが、亡くなった所とされる.ちなみに idola はアイドル idol の語源である.)
科学者
このサトゥルヌス神は、いつも何かをぶち壊すためにやって来て、しつこくて迷惑…。
ジュリアーノ
そして、私の話は続き、その日は、太陽と共にヴィーナスに捧げられるでしょう(*訳注* 金曜日にお話ししましょう:ビーナスの日という言い方は金曜日を意味している)。
というわけで、もっと美しい日に、ヴィーナスと美の荘厳さに、光は目もくらむほどになり、天の王と王女は、錬金術で高位のホルス(*訳注* エジプト神話:天空と太陽の神)、そして下位の権能の創造者メルクリウスを生み出します…、それは、万物宇宙、地(球)そして人間についてです。
科学者
それは、待ち遠しい!


対話その3 完


付記 3

---クレンメルツの後継者たちによるヘルメス辞典より---


以下はジュリアーノ学派が輪廻に言及する部分からの抜粋です。 輪廻が何かを解説するものではありません。

REINCARNAZIONE 輪廻
つまるところその通り道…ひとりの母親の子宮とそれは直接的に関係していたのか?
もしかして、そこに闇から解き放たれ潜り込む最初の存在は、新たな有機物の衣服をまとい、抽象的存在を象徴する様式でそれら有象無象の存在を変化変容という現象としてそこに与え、そして精神の目というものを万人に現在させていたのか?
そしてもしも、と言うよりも魂というものが世間的に生命力と解釈されている機能を実際に与え、人が息をする様になり発生の初期段階で精子や卵子以外のものとなったのか…
神秘的原子という何ものかが、生涯を終えるその経験全てを集約しこの発生へと至ったのか…
その美点や長所は大切に守られ根を張ることとなったのか…
― それが受精受胎の始まり/生ける物体/そこに育まれる存在なのか?…
はたまた、この発生の初期段階/芽生えは、その昏睡冬眠のような状態へと落ち込む生的能力を持ち、並外れた特殊なみずみずしさを失った様な乾燥状態によって守り置かれ、思考を伴わない休息状態となっていたのか…その何かを私たちは呼び起こしその声を受胎連結させ機能させるのか…それが、肉体的性行為に引き寄せられ目を覚まし自動的創造の完結へと限定される光なき暗闇の穴・巣窟、つまり血の浴室なのか?
あなたは引き返すことなく、もしそれがあなたのエーテル/天空の魂であるなら、それは、堕落のぬかるみの様な悪臭を放つあなたの肉体という形の物体かもしれない…。
…人の肉体の中で純真なる存在と化し天使となるもの…。
けだものの様になり、うじ虫の様にもがき…。
その輪廻/サイクルは、情け容赦のない死の法則。
ひとりの魂、その何かは肉体から遊離する…エーテルがどれ程かでそれらの昇華物としての要素は維持され、人の物的肉体が保たれている…
つまり心的精神的にその出来事の全ては潜在記憶として貯蔵される…その何かは肉体のセンサー/感覚(器)へと解き放たれる。
この人の輪廻というものは、上位の相性や身体的特徴との共鳴共感によって決定されるだろうこと…つまり両親の心身からのものと推定され、何かを選び取る、あるいは何かと互いにしっかり結合すること…。
その両親から血を引くものは、確かに大好きなもの、それらの存在同士で心理的により似通ったもの ― 。
一個人、あるいは同一独立のグループやファミリーの輪廻的プロセスでは、その身体的形や特徴、特異的な振る舞いは再現され続ける。
理由は、精神/スピリトの影響にとそれは探求されて行ったこと…、それはそれ自体のスピリトが肉体として形成され続けること…、その様に説明されてはいる…、呼吸言い換えると息を吐いた後の体内の残留物として組み込まれたその形のことであり、その人の能力である特徴や性質・主人としての統治能力に反応するに違いないからである。
これは、ヘルメス学派で言われていること、世の科学界では受け入れられていないし証明されてもいない…
しかしこのヘルメティズムでは、その多くの何かが示されその物的身体に重きが置かれ、メンタリティーの本質(インテリジェンスや考え・情感)とされていて、まさにそれが、それらの形式がどれ程受け入れられていなかったかということ…
何かを調和的にあなた方は創造するというのが、その原理である。
それら輪廻して来た何かは、素質や才能あるいは欠陥や悪癖・不徳として現れ出て来たもの…、同じ環境に再生する時に繰り返し認識することになる。
先祖返りや形質を受け継ぐことがそれで、死の輪廻においても…、まだ現代科学で観察され受け入れられているものではない。
それらの物質的欠陥性の特徴については多くの研究が必要であり、忍耐強い研究が続いている。
誰が、その繰り返し、世に存在する多くの人の輪廻というものを受け入れ、その焼き直しを安易に説明しているのか…
それは、嫌悪や憎しみであり、また先祖たち生体組織の記憶に潜む愛である(人の歴史や本能を観察してください)。
それは輪廻信仰の闇の部分であり、人類普遍の現生命には誰もその記憶を保持し持っていないのであり、それはより高次の生命の状態という何かである(忘却と記憶の呼び出しに関係する)。
私たちにとってその輪廻は、単純に偶発的な出来事であり、途方もない量の格闘・また目には見えない生命の存在を目の前にする事なのです…、そしてそのアニマ/魂スピリト/心や精神の原理は、内に秘めたインテリジェンスの現れとして取り入れられたもの・またその物質がどの位かの量による。
したがって、輪廻として受け入れているものは整然としたモラルというものでも規律や仕組みでもない…
相対的な概念の人のモラルといった性質のものであるが、その相通じる法則は血でありその相続である。
全ての宗教はそのドグマ教義に輪廻を含んでいて、キリスト教カトリックでも日常の儀式として聖職者たちが行っていること…
それは記憶を呼び覚ますためであり秘かに続いていること。
仏教の輪廻は、宿命や運命人知を超えた力の働きである。
人はその≪物質の≫指示あるいは≪スピリトの≫指示に従うことができる、言い換えればその仲立ち的指示(方向づけ)…。
まず最初にそれは、スピリトとして肉体の中にある種のレベルの物質的なものとして直接取り込まれ根を下ろし、物質的死の法則に従う:
腐敗の法則という”生理的(自然界の物的)‐サイコ的(心的精神的霊的)”融合として…。
第三に、それらはまず残存・生き残りへと及び、次にそれは、それゆえ巡り合わせとして愛するものとの接触一体化というその機能に従う…
それが、輪廻と呼ばれるものである…
さらにもっとそれらがその状態(ペリスピリト/周囲のスピリト・星界的身体星界的物質群アストラル・変化変容するもの)中に存続する時、それが人の命として何度も繰り返され意識として浮かび上がる。
第二に、それらは他の生存体に対し意志を持って対処し続け途切れることがない意識で在り続ける…つまりそれでそれらが存在する、それゆえそれらは不死の存在である。
第三のケース、それは最も頻繁に繰り返されるもので、それが、運/巡り合わせ・介在するもの、人間である;
これが今まで繰り返され続けた人間たちの輪廻、一人の精神的円熟へとそれは向かい貫かれふさわしい者へと徐々に準備される…第二のケースでの意志/望まれる状況の展開への現実化・成就である(アストラルの流れや介在と死)。



第9話までご紹介してまいります。

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