LA SCIENZA    DEI    MAGI   魔術師の科学


対話編






Giuliano Kremmerz vs. uno scienziato   ジュリアーノ・クレンメルツ 対 科学者



ご自由にお持ちかえりください。
















































コズミック・ヴァイブレーションと身体感覚


YouTubeより 音楽


太古から続くこの惑星とその生命、そこには宇宙万物の、そしてあらゆる”いのち”の形と営みがあった…
古代ギリシアに始まる学問や哲学もその営みの一つに過ぎない…
ピタゴラスは音楽や幾何学、哲学的疑問をひも解いていた…

それが彼に始まったものか彼もその営みの一部だったのか、それも彼には定かではなかったこと…
がしかし、その疑問からつながるその”ひも”は、今も私たちのあらゆる存在へとつながっている。
それらは幾世紀の時空を越え、今もあらゆる存在と相互に結び付いている…
そのほんの一部分に触れてみることにしよう…。

例えば、正三角形・正方形、また正五角形と円、それぞれ相互に納まるこれらの形、その各々には特有の角度があり相互関係がある…。
たとえば三角形、内角の総和は常に180度、四角形は360度、円は一回りで360度、五角形では540度、さらに6角形の内角総和は720度である。

例えば、これらの角度の数を音のヴァイブレーションに変換すると180Hz、360Hz、540Hz、720Hzとなる。
それぞれの音階は:…F#、オクターブアップのF#、C#、オクターブアップのC#となる。
(*訳注* 現在の国際音階はピタゴラス音階の周波数の数値とは多少ずれがあり異なる参照
さらに7角形の900HzはA#、…。
これら和音は、心地良いヴァイブレーション・サウンドとなる。

これら図形を更に立体にとプラトンは拡張した…。
これも、角度を元に振動のヴァイブレーションサウンドやその動きへと変換してみることができる…。
そしてこれらは、平面から立体、動きの次元存在へと発展し続けていく…。


プラトン立体 Wikipediaより

私たちの肉体も、様々な形の要素とその動きの振動やローテーション、らせん運動などから成り立っています。

それゆえ、…幾何学と振動、地球を含む宇宙の自転公転などの回転運動やスパイラルな動き…、光や電磁気、また重力等の機能や働き、人間の形状やその構成物質を通じた感覚の印象・直観や身体行為、この運動や心的な思考・情動、その根源である時空を超えた宇宙知性としてのエネルギー、そして私たち全生命との間には関係があるのです…。
それは、今とここ・無空の瞬間・自身の(われ, が)という存在、万物に潜む永遠なる無限知性としてのエネルギーとで私たちは相互につながり合い、ひとりの人というかけら、すなわち未完無限の可能性を秘めた存在として、そこに巻き込まれ息をし、この壮大なる宇宙の一員として、創造の交響楽を響かせあっているに違いない!…























対話 その6/9


--- 対話の要約 ---

宇宙エネルギーは私たちの体に影響を与えている --- 人それぞれで異なる磁気的感覚 --- 神経系は心的感受性の骨格 --- 月の様に変化する身体感覚に生命の神秘は存在する --- その働きは人と自然万物とを結び付ける --- 意志と知性としてのこの世界 --- 生きる(かて)としての神 --- 創造のアルファベット --- ”象徴的サインとしての出来事” --- 自然界の知性は死ぬことができない --- 言葉が示すのは類似性 --- 人は自分に必要な宇宙的力を使うことができる --- 人間の弱点や疾患と宇宙的な力には関係性がある --- 分子的オーラ --- 癲癇(てんかん)等の精神異常の原因には磁気が関係する --- 神経の治療と精神医学 --- 物質は宇宙的な何らかの実体と統合されている --- 脳とその機能 --- 思考とその謎 --- 思考は”存在”である --- 中立性は感覚や印象を正しく評価するために必要である --- 歴史としての個人 --- 受け入れられた思考は人の動物としての命を経験しようとする --- ピタゴラスと沈黙 --- 思考には三つのカテゴリーがある --- 平安の中で神意は語られる --- カトリック教会と祈りの魂の絆 --- 集団的信仰は権力となる --- 医術と大学教育 --- 病の人へと魔術的ヘルメティズムはどの様に導入されるのか --- 全ての不健全は脳の不調和や異常が原因 --- 神経センターは苦痛に対し影響を与えることができる --- 力を失った脳はその最後を告げる --- 再び姿を現すサトゥルヌス

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ジュリアーノ
さあ時間きっかりに皆さんお揃いですね。
素晴らしく輝かんばかりの金曜の夕方になりました;…
澄みきった空気ですがすがしい気分です。
透明な空気に音楽のこだまが響き渡っているようです;その光のきらめきは、砂粒の中の砂金のようにきらめき、そわそわと落ち着かない人々の手にもやっと終わりが訪れようとしています…
人々はそれを魂と思考で感じつつあります。
心がうきうきする様な素晴らしい情景、世界のそのイメージには幸福感があります。
今日はそんな日、生き生きとしたその感じは、あなた方の願いに答えようとしています。
それはもしかすると磁気的電気的な力の大気と地球のものかも…、その温かさ・光・音、それらは一致して人体のその命へと展開されているのかもしれません。
科学者
私もこの様な甘美な夕べ、オパールの様な乳白色の日没に夢心地でうっとりし幸せでうれしいです。
今朝から今までこの様な感じで、その太陽も傾きつつあります。
私もその様に終える必要はないですが、地球が与えるエネルギーや力は人間の体に等しく影響しているのでしょうか?
ジュリアーノ
それは私たちの身体的なまた超身体的な普遍的健全性にとってであり、皆にとって等しい影響のエネルギーや力である必要はありません。
第一に、なぜこの力が一定に制限されるのか、それは良い定義ではありません…
結論的にはナチュラルな哲学であるべきで、固定一定的でも常に同じ強さでもない;…
第二に、私たち生体組織のエッセンス・その要素として、私たちは、瞬間瞬間にこの自然の力の影響に、同じ対処・同じ程度で反応しているのでもない。
私たちは、普遍的なそれらエネルギー全ての間で学んでいるのであって、それが地球の磁気、私たちの見える肉体また見えない様々な要素を構成するもので、私たちにとってそれらほとんどは、無声性の言い換えればデリケートすぎる最も不完全な受信装置、そこには自然界の様々な力が集合しているのです。
さらに、実験物理学は教えている…
そこにはある種の多様な実体があり、磁気だけのグループとしてはクラス分けできない何かも存在する、と…。
もしも人と人との間にその磁気的な感度の多様性・その普遍的な世界に由来するエネルギー、このタイプの力だけが私にも及んでいて存在し、その実体言い換えて地球人たちの肉体、そこに地球を構成する様々な物質に対してと同様にそれが存在するのなら、それは最も純粋な相違・多様性と言えるでしょう…。
そこには非常に強い磁気的あるいは強磁性の自然界の性質、鉄の様な常磁性があり、また白金や金・銀・銅の様な反磁性の性質がありそれらは逆向きに磁気を帯び(磁気化され)ていて、これらがひとつのフィールドを構成している(*訳注* 常磁性と反磁性…常磁性は磁場に置かれるとその方向に磁性を帯び、反磁性は反対方向に磁性を帯びる:水は反磁性体、これらには電磁気や量子力学的な働きが深くかかわっている)。
そして、多様なこの磁気の実体は、ひとつには熱的影響として表現され、磁気化の様々な段階へと変移しているかもしれない…。
ですから、その地球を構成する実体としての様々な要素には、その自然の力・受容能力があり、異なる質や段階のグラデーションが存在しています。
人の生体組織には、その感度の違いがあり、それらが普遍的エネルギーの影響であって、ひとつだけでなく多様、地球構成の実体としての様々な金属や有機物質の影響が関係する…
他方で人ひとりを構成する要素としてそこには、これらの圧縮された最も活発で賢明なる力の発露があり、様々な瞬間に様々なグラデーションでいっ時の中、時間に厳格でしかないものもある…。
科学者
実に、私たちの体の中の自然の力、その物理的影響というこの部分は、面白いです。
ジュリアーノ
私もそう思います…
それはコロンブスの卵が何だったのか分かったからではなく、それに私が新たな装いの説明を加えているからです。
太古の著書全て、古代アポロンの蔵書庫に見い出されたそれら500のカバラ書にも、それらは慎重さとシンボルで表現されている。
そのシンボリズムは少々病的で感染症気味、その全ても神秘家たちのものである…。
最初にお話し明らかにした様に、私は新たなその自慢話の旗振り役になることもできるが、しかし現代のスーパーサイエンティストの雰囲気とも馴染めない…。
ひとりの男の中にはその同じ日常が流れている…
もしその人が優れた感覚を受け入れているのなら、その全てには大気の状態、電気の熱や磁気のフィールドを通して何かの光が差し込んで来ている…
そここそ私たちの生活の場である…
状態の変化を人は感じる、そしてその感覚能力の全てがその人という存在;…
私の言っている”存在”、それは彼の生体組織の中に包み込まれているもの…
それはまた、人の実質的精神また人のインテリジェンスと呼ばれる何かでもある。
想像してください、それから、意味や価値としての評価、病んだ生体組織のこの影響や病への推移とはいったい何なのか…
熱・神経等にどんな意味や価値があるべきなのか…
おお神聖なるアポロン(*訳注* 病を払う治療神、太陽神)よ、あなたは愛のアポロン神であった…
あなたはなんぞの偉大な現代の医者の私を受け入れることなどない!
それこそは私たちの神経システム、それはサトゥルヌスのコルポ(*訳注*物質体)が及ぶ所…
月的変化の精神の高揚…
それは骨組みであり精神や心の感覚であり、外的な印象と脳とで通路を形成する:…
脳と外的世界との間で…。
*訳注* これは現代数学のフラクタル幾何学的な考え方:ある図形をどのように拡大縮小しようともそこには同じ形が見いだされるというもの、それを更に発展させた物理のホログラフィ理論がある;フラクタル相似形な波動が宇宙に(あまね)く行き渡り、動的にそれを今とここに私たちは日々の営みとして感じ選択し世界を構築しているというもの…)
人の本質的部分は全てそれなのです…
それが感覚でありこの月的変化変容の物質、メルクリウスの前駆体(*訳注* ある物質生成前にある段階の物質)…
それが私たち自身を構成しているのです。
それは自然界のエネルギーの影響を濾過するフィルターである…。
繊細な選別機であり外的な力による印象を区別する…
その出入り口が脳で、それらの印象を改変している。
全ての人の命そしてそのミステリーは、そこにあります。
あなた方が手足を失い分別を失い、鼻や耳を失いそれでも命を失わなければ、その最後のよりどころは感覚/センシビリティーである。
宇宙自然界のそれらの力の影響は、全てその実質としての印象で、それらは承認受理されそのセンターにあなた方が蒸留しふさわしい形で運び込んだもの…
それらは適度に和らげられ”節度をもって”そのセンターに受け入れられ穏やかになっている…。
それには正しい安定性が必要で、それが外部に表現される前に統合され本当にまとまれば、人体の全ての機能は神経システムの感受性として統一された修正役となるかもしれない…
それを受け入れ理解する力で真剣に取り組み、多くのヘルメティズムを理性的に正しく扱えば、治療的技術としてひとつにまとまり卓越した効果を現わすでしょう。
どんなに愚かな人間であれ、精神的なショック・その場での恐怖や不安は分かる…
人は周囲とのやり取りで内的なそれら機能をかき乱される;…
それは内的激情・肝臓などの臓器の変質とも言える;…
しかし私たちが確かに言えることは、他の印象について…
普遍的な力の働きにより生まれる変化、私たちが生きるその領域を支配している力のこと…
人々は、消化され呼吸により循環し影響を与えている重要なその人の生体組織の経済学を理解しているわけではないですよね?
最後の世界大戦(*訳注* ここでは第一次世界大戦のこと)での医学的経験としての事実、それは数えきれない程の人たちの救助での悲劇、病院や赤十字の援助の最前線でのこと…
それは入念に診断された判断には違いないかもしれないが、そこにあるのは入念な判断だけでもまた大学の医療区分のものでもない…。
それは神経経由の理屈…
例えればそれは、何度も見て念入りに検討する価値があるかもしれないが、その方法で導かれる生命のメカニズム・観察され経験されるものは、シンプルな現象に留まることはないのです。
科学者
一方で私たちは、錬金術で満たされているということですか?
ジュリアーノ
錬金術についてはまた後で考えましょう。
ここでは私たち学派のヘルメス医術の真理を理解することが必要です;…
私はあなた方に、人の身体に必要な理想としてのイデア、世界が持つそのエネルギーの複雑性に相対する場というものを提供しなければなりません。
それは人が確実に理解するべきこと…
私が言っているのは、ちょっと抽象的ですが、代数学の一般算術的なこと、それはまたミクロな宇宙とマクロな宇宙・人と宇宙万物との関係、そこを満たしているものを理解しなければならない、ということ…。
それは類似性、人の統合性と創造主によって創られた偉大なる統合性との関係性、二つの要素の間の共通性、同じ感覚として生成されるもののことです:…
それは精妙星界的/アストラルな身体におけるインテリジェンス/智/知性意志、つまり二つの物理的要素:…
そこを満たすコズミックな力とそれを受け入れる人の受容器、それは一定の影響と力に従い反応するというものではないのです。
科学者
人はその代数学を感じる、ですと!
私が信じているのはこの様な美しき一日、夕暮れまで光に満ちた…、それは明瞭で純粋な子供たちの様な、…
私たちの様にちょっと変なこんなおしゃべりをする私ではなかったはず…
人々を形作るのは、理にかなったイデアでそれがあなた方が私に言っていること…。
今あなた方は結論づけようとそれらの課題を本当の事にしようとしている…
何かが人(ミクロコズモ)とコズミックな自然界、言い換えれば宇宙的世界(マクロコズモ)の間に存在し、共通の働きの四項式を構成している、と;…
合ってますか?
ジュリアーノ
続けてください。
科学者
インテリジェンスと意志、コズミックな力と受容器としての生体組織…。
(*訳注* インテリジェンスには、知性・英知・聡明・理解力・深い知識・霊…などの意味がある)
ジュリアーノ
修正してください:…
インテリジェンスと意志はミクロコズモとマクロコズモの中にあります;…
その力は偉大な統一体の中のコズミックなもの…
その受容装置が人間の生体組織の中にあるのです。
科学者
あなた方は、意志と知性も世界に属すると考えているのですか?
この粗削りの統合体の姿がそのマクロコズモで、あなた方はそれが統一体であると考え、私たちにもそう理解するよう望んでいる…。
ジュリアーノ
シンプルなイデアがあなた方を不安にしている。
私たちはお互いにその宇宙知性の理解で拒絶し合っている…
それが宇宙の意志であるかのように…。
心の(かて)としての神、全ての知性としての神(それはしたがってマクロコズモを意味する)が、七色の声を響かせていた;…
表現されていたのは七つの形式のコンサート・ミュージックのハーモニー、その意志は知性・インテリジェンスとして表現されていた…。
一般向けの評論誌コメンタリウムの中で述べましたが、オッタヴィアーノ氏の様々な濃密なイデア、そこには非常に深く研究された論拠があり生命や科学への一般世俗の理解から秀でた多くの論題がある…。
その万物宇宙のインテリジェンスの性格は、その表現にあり、自然にそこに象徴される心的サインや出来事の意味に依っている…
それがやって来て、そして次なる訪れを予言し、そして隠された遥かなる物事へのベールを取り去る…。
科学者
本当ですか?
ジュリアーノ
人は自分を知性的だと考えているが、多くの場合自分の愚かさを露呈することになる…
それはアルファベットの文字も読めずに創造の物語(文字で象徴される出来事)を理解する様なもの…
そしてその愚行で全ての糧としての神さまを、魂の全てを、インテリジェンス全てを否定するが、それこそがこの宇宙であり意志表現としてのハーモニーであり、人としての理解なのです。
それら物事のサインは言葉であり心の糧としての知や認識を意味し、その真実を打ち明けている…
しかし誰もそれを理解し自分のものにしていない…
なぜなら人の知性は多くの真実としての教えや規律からはずれているからで、それは単純で価値のない邪魔立てで自らを追い払う様な無意味なもの…。
普遍的なそれら力の熱へと、そこにそれは解き放たれ荒れ狂うハリケーンとなる…
その悲惨な破局・激変する自然の力、サイクロン・洪水の中に、その声心の糧は警告する…
そこにその声は現れる…
それが音楽であり、文字であり、それが”出現”なのです。
人は孤独な森へ山へ幾つもの森林の静寂へと逃げこんだ…、そこは真っ暗な洞窟の奥深く…。
キリスト教徒、幸福なる記憶の神々、人々が語っているのは、キリストの勝利の時…それは確かであったと…
それらの海原を行く者たちは、感じている、計り知れない広大なる響きの笑い声を:…
心の糧・それは死の神である!…
何たるたわ言!
それは、自然の知性であり、死ぬことができない:…
一日という何かが終わり、整然とした音楽・ありのままの宇宙のハーモニー、それはカオスの中に沈んでいく…
それは様々な要素が整然さを失っていくかのよう、あるいはまた、命が宇宙の死の中・天空エーテル(注14)の振動と動きに埋没していくかのよう…。
(注14:ヘルメス辞典より) エーテル = 宇宙的本質体 = プラズマ原形質。 原初的な物質で全ての源泉、原型。
ガス状のものと考えられ、永遠の一定性を持ち、3方向へとあふれ出る、あるいは収縮するが、原型的で様々な本質で統一されている。
それは、炎のような性質によって表現される。 ひとつであること。 意志・錬金術・魔術の要素・天空的光・言葉と関係する…
それらは、占い師占星術師やタロットの知識、自然界を理解しようとして得られた知見である。
人間の探求心や知力、偉大なる自然という著作を読んできた太古からの司祭たち聖職者たちのその同じ知識であったに違いない。
太古の占星術、すい星やタロットのシンボルなどが象徴する迷信や本質、それらは人間が何とか克服しようとした課題であり、命にあふれた自然の姿への知力による解釈、形やヴィジョン様々なイデア・物事のインテリジェンス、その素晴らしき(うつ)しなのです。
この様にそれはシンボルであり、全くもってひとつの言葉・技巧というもので表現しきれるものではなく、論理的表現の言葉としては自然の本質そのものということになる…。
セッテアーリ(*訳注* 南イタリアのある会派の修道僧だったらしい)、19世紀初頭の有名なヘルメティスト、彼は、1821年5月5日 数少ないその弟子たちと共にカプリ島の海岸にいた。
弟子のひとりが指さした…
雲の一群のその部分が青く開け、小さな雲たちが一匹のワシを描き出していた。
セッテアーリは言った:ワシは天へと舞い上がった、ナポレオンが死んだ、と。(*訳注* 1821年5月5日 ナポレオン没)
それは自然のテレグラフ、その人間のインテリジェンスは、その知らせ・メッセージを受け取った。
科学者
もしこのセッテアーリが明晰な人物で、ワシが姿を現さずともそれを知ったなら、要はフランスのセントエレナ島(*訳注* ナポレオン幽閉の地)のその皇帝が亡くなったのかどうか…。
ジュリアーノ
私たちの頭脳は、観察される周囲のその様な出来事に気づくことはなく、また手の届かない遠い出来事・お告げの言葉の様なものを知覚することもない…
その私たちの精神は遠くのその何事かを幻視する輝きへと至るのか…。
そしてそれは、ある種の運命!
もし私たちが、遠くと近くの様相・世の中の出来事それら全てを見ていたなら、同時的に発生投影されている何百万もの映画を見て、ついには精神の錯乱状態になってしまうだろう。
遠くのその出来事、それを人は目撃する、それが自然界というもの、そこにはある種のサインが示される…。
私たちのインテリジェンスは、それを読む、つまりそれを解釈し推理し、知る。
そのただひとつの奇跡は、成された:それを語るのがヘルメス…。
この様にその門は閉じられる、それは私たちが興味を抱かない無用なヴィジョン、そして見て観察し平静さへと立ち戻る、全ての人類はこの様に在るのです。
自然の本質としてのサインは、それを読む者にとってはその様に在る…
宇宙のインテリジェンスとしての著者は何かを形成してるということ、それを信じる者は誰もいないが…。
もしも、魔術やヘルメティズムが、マクロコズモ(宇宙)について語るとすれば、それは人間(ミクロコズモ)とお互いに”類似”していて、それら全て・コズモは、知性・印象や感じ・意志であり、人間はそれを持っているということ…。

(注15) COSMO コズモ / 宇宙とは?: 精神と物質の融合体…それは変化の法則にあり、完璧にはならないがより完全なる存在の中、つまり物心両相・下層から上層に一致して等しく存在する原理。

私は他の機会で、人々が日々出くわす出来事、響きわたり広がり続ける山びこの様なこれら事象について強調することはなかった…、それは創造世界全ての中に存在するものなのか?
それには言及しなかったが、人は無知であるということ…
人はその広がりの中に埋没しきっている、それはとてつもない悲劇で行き着く先は戦争、その地平を越えることは、人間の目標なのか?…
様々な宇宙的力は、人間の神経システムに対し同一的作用を与える:…
人々は一群の物的なそれら印象や感情感覚を感じている…
つまり潜在的にそれを流れや発散として受け入れ、完全な動きとして統治し感じている。
その何か宇宙的な力は、質的量的に人の力や機能に普通に正常にバランスされ準備されている様にみえる…。
これこそがあなた方に到来する自我であり、私がヴィーナスの健康美として言及したまさにその理由である…
総合してそれは、幸福で気分が良く健康であること、つまり生命の喜びである;…
私たちはまさにこれ、健康美を享受している…
そこにはバランス・均衡というものが必要で、私たちはそれを相対的な幸福感と感じています…
それはこの地球の命と共に存在しえるものだということ。
エーテルの振動が何かについてちょっと触れます(エーテルという語は科学用語として借用され合意されたものでもあるが、それは的はずれな用法である)…
磁気および電気の様に振動し誘導される振動、それに非常に近く、地球上の非常に高位の振動で、私たちはそれに感応する受容体として編み込まれている…
それは更に体熱液的気質/精神的気質、この様な異質の会話によって調整されているようである…。
人は弱い存在であり、その内側でこの宇宙的な力は、バランスを取り支え、破壊や侵略とは真逆の方向、つまり命を同化統合するようにする。
それが地磁気であり、最も医療的なものがこの力:…
それは量的構造的なばらつきを均等にし、その調子トーンを普段のバランスにと調整するのです。
科学者
それではその地磁気は、全ての患者にとって、見守り役・看護役・治療者ということですか?
ジュリアーノ
多分、私があなた方に想像させるもの以上です!
またそれは、マグネティズム/宇宙エネルギー、地球の神経としてのつながりであるかもしれない…
人体内に相似して循環内包され、多分私たち自身の活動の感覚、その進歩にとって必要なものであるに違いない…。
それら治療役としてのマグネティズム、それを人々は人体磁気の力動物磁気と言っている…
さらにその後、神経の力と呼ぶようになっている…
確かにそれはウナギの様…私たちの生体組織のこの特別な力は、手からするりと抜け出し何と呼べばよいのか分からない。
私はこの力が動物磁気と定義できるとは思いません。
それは、私たち身体の分子的な気配やオーラの放出であり、あるいはその吸収、栄養分を血肉とする事で得る力、地球磁気のむさぼりである。
この形勢によって命の循環回路が形成される:…
文字通りつなぎ合わせようとする回路であり、肉体の本質を保護し形作ろうと睡眠中の人間が、失ったエネルギーをそこに再び与えようとする何かである。
人には弱さというものがある…
生まれ持った遺伝、発育期に引き起こされる神経反応の結果の不安症、あるいはその中核となる生体組織やその秩序の乱れ…
これらは、癲癇(てんかん)や大病・早死に・太古からの意識障害・発作などに準ずる…
それらには、必ず磁気的なものが関係し、その原因となっている。
月的変容の身体にはこれらの弱点、変調というものがあり、地球磁気にある反面としてのその迷走性である。
この概念としての意識障害、それを含むものは、私たちの幻想であって、言い換えれば、科学の偽りへの気づき…
私たちは大きな過ちをしている、と私には思える…
なぜならそれが示しているのは、極めてまれなこと…
現実に一致同調しない何か、肯定的科学や実験での疑問点という何か、それを物語っているからです。
しかしまた、それら神経的な乱れの全て、大脳異常・精神的アンバランス・神経や狂気などには実験科学も関係し、観察することにつながっている…
それは、私たちにはなかったこと…。
治療というものは、1ミリメートルも進んでいなかったのです…
健全性を与える能力も神経的忍耐へ平安を与えることに関しても…
それは、狂うことではなかったのだが…
いずれにせよ、それは今に語られ、何か新しい方法が始まり、精神医学へとつながって来ている…。
学ばれている様に、人は肯定的医療に誰も到達できていないのです!
それには誤った定義の原理があり、神経や精神の不調にそれが関係している…。
その実体というものは、神経系全てを構成している月的変容の基本物質が関係しているのです。
その特別な基本物質によって構成されるものが化学的なものか、また私たちの様々な生体組織の基本要素を常に結び付けているものかどうかなどと私に聞かないでください…
これは理解可能なものではないのです。
多分それは神経細胞の原子の配置と関係があり、神経節・神経線維に関すること:…
それは、非常に繊細に感じることができる、私たちが印象として感じることができる物質的パーツ、構成原子の配置配列による私たちの脳のセンターに外部から神経線維を経由して誘導されるもの…。
ここでは、私たちはヘルメティズムについて考えています…
その常にひとつに結び付いている物質的実体、それがなぜコズミックなものなのか、無生物の組成体なのか、多くの異なる多様性という局面があるのか…
その原子の様々な配置のヴァリエーションを私たちは直感することができない:…
それは確かにヴェールに覆われている、しかし古代ギリシアの哲学者エンペドクレスやロクリ(*訳注* 地名)のティマイオス(*訳注* プラトンの著作に登場する人物名)の哲学の延長線上にもそれはあるのです。
この様に、化学的生理学的なそれぞれの分析的試み、その考え方は、私たちにとっては原子の配置、地球磁気の反射や地球の電気、大気また他のコズミックな力(熱・光・波動の広がり)が、直接的にまた何回もリバウンドして受容されているもの…。
この兆候や気配が及ぶことで、脳内の物質もそのサインを示そうとする…
原子的に(つまり原子の配列として)、それは神経節・神経中枢ごとに様々で異なる…。
人の頭、堂々と直立したもの、硬い骨の入れ物、それは貴重品入れ・宝箱で、そこには多くの宝物がしまい込まれている。
そこに様々な感覚がつながり、微妙なコミュニケーションが完成される…
それは、非常に敏感なと言う以上のもの。
また、この脳の機能は積み重なって作られるのか?
それら印象や感覚は、受け取られるだけでなく、イデアや印象なども私たちから外部へと放たれているのか?
イデアを放出するものを確かに特定できるのか、そして精神は、神経物質の波に形成され生じ、電磁化され大気に放たれているのか…?
それは、私たちの感覚や印象のコントロール下へとやって来ないのか、そこは最終到達点ではないのか?
科学者
この様なことを考えるのは、本当に面白い、なぜなら不思議だからです。
それら全てはちょっと変で、まじめに語られましたが、あなた方が言ったように、おとぎ話のような魅力があります。
それらは何かファンタスティックな概念で、これは大人のためのおとぎ話、へぼな絵・どこかいい加減でありながら自然科学であり生理学である…。
私は気づきました、それはあなた方のヘルメティズムは、問題点を提示しているんだと、疑問点を示しこの様にまた別の方法でも考えている…、いずれにしろ現実には解決していない、問題点も疑問点も;…
ですから大まかに説明してください、その医療についての哲学、古代医術の方法を、パラケルサスの前後について、プラトンやアリストテレスがその手で病にどう対処したのか、またエジプトのミイラにわずかに残されている手がかりを、奇跡そのものの不老長寿の霊薬がどんなものなのかを、ご説明ください…
ジュリアーノ
これらのことを私は提示しています…
それらはおとぎ話の主題などではなく、哲学的課題のヴァリエーションとしては単純でも夢見る空想ではない;…
ヘルメスのあるいは魔術の概念・その基本要素であり、あなた方はより良いものとしてそれを求めている…。
人間には脳があって、そして形ある物質として機能をもつ実体/実質的なものとしてそれは研究されている。
それは生理学では、不可能かもしれない…
飾りで美化された知恵知識・頭巾のたぐいだとすれば、大学講義での開講のごあいさつ、もったいぶった聖職者の教義の様のものにそれはなるだろう…
全て、前もってのお約束事や概略説明の様なもので、つまりは、相対的にはほとんど何も示されていないように見える…。
人の魂とは何か?それについては別の機会で言いましたが;その考え方では、原初的な風や息、ふいごから発せられる空気のようなある種の勢い・力…鍛冶屋職人の加熱炉、その点火された炎…。
言葉として何となく言うとすれば、・生命の力・生きる力
人においては理性を持ったアニマ/魂、あるいは胸の肺で・心臓で・その動脈で・内臓で、人が考え自身のものとして消化していた何かのような…。
思考というものは肉体ではないが、何かとしっかりかみ合っている…、それは生理学…
センシビリティー/相対的に感じる機能をもった脳を、神経系全ての中心として深く研究するも、人がどう考えるのかは正確には分からない;…
それを検討しながら、生理学者は推理し考えるが、なぜ推理しなぜ考えるのかは分からない…
つまるところ何も分からない…
どこでその思考がまとまりその労力苦労というものがどういう様式なのか正確に分からない。
そしてもしも、人間のその推理的思考というものに欠陥があるとすれば、分析し理解し自分のものにし感じることが必要で…、言い換えれば推理することが私たちの生体組織の病的な状態だとすれば、人類全てにとってそれは不幸の原因であり、その境遇にある者はその災難を招き、それを確信するのか、また否定するのか…?
科学者
あなた方はそのおとぎ話をすれすれのところで否定しますが、この何か全ては、人がぎょっとするものだと言うんですね?
ジュリアーノ
これが恐怖するものだという理由が私にはわかりません。
私が言っている人間というものは、科学的肯定的で実験的経験的なもの、それは解剖学的化学的なものでも、脳機能を究明してあなたに何かを産み出せるというたぐいのものでも、どこにその思考役の機械が存在しているのかということでもない…
つまりもしも、これが脳と呼ばれるなら、それがどう働いて影響し、何を産み出し発展するのか…
かの人物たち、ダンテ・アリギエーリの詩歌、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロの様な秀でた才能の人たちの苦労…、それらの結果こそがどうなのかということ…。
私が言っていることに、あなた方は恐怖するようなものを見る必要は全くありません…
私はそれを明らかにしたいと望んでいます…
少なくともあなた方は疑いを持っているので、その人々の努力・究極の真実の探求が何なのか、その何かとは人間の考え・人のエッセンスで知覚の意識を吟味することであって、人々の望みを達成するものでもそれにわずかに触れ何となく示すというものでもない…。
あなた方が知るべきこと…、それは思考であり存在というものです…
つまりそれら全てが何か?…
存在している何かとは?・何が存在したのか?・何が存在するようになるのか?ということ…。
全てのその見えるもの見えないものイメージできるものは、もしあなた方が望むのなら、想像できないものでもあるのでしょうか?…
科学者
しかし、そのあなた方が色々と熟考しているヘルメティズムも否定的と言わざるを得ない、その課題を解決していない。
思考は、全てその存在の程度による…、あなた方はこの様に定義しました。
美しいもの・醜いもの・それら何かは、喜びまた嫌悪をそこに作り出し、私たちはその何かを見つめ憎み愛している、と同時に様々な印象や感覚がその個々の物事へとやって来て、独立した人々の肉体的リアリティーへと改変され愉快不愉快な感覚となっている…
私たちの自覚意識/精神のエッセンス・そのセンターへとそれらはやって来ている…。
ヘルメティズムは、その事実、改変され、ひとりひとりがそれぞれ感じイマジネーションとなったものを識別する…
それによって、有用なオリジナルが形成され、なぜそうなのかの理由が説明されなければならないが…
それについては、この様にして、思考の価値づけがされる様導かれている…、大学の知見でもそれは説明されて来なかった。
あなた方が、まさに別の機会に言ったのは、人体の頭についてで、思考の組織としての脳と捉え直していて、それは写真機の正確性との比較で、私たちがそこで目撃するイメージを肯定すること;…
つまりこれらイメージが薄れて行く時、消え行きつつ深みへと落ち込み無意識の中に貯蔵されるということ。
もしそうだったら、写真機の例えに何があり、見聞きすること全ては一台の写真機の全く公平無私のイメージとして描かれた存在でなければならないし;そしてそれゆえそれらの印象は、同じことを別々の人たちが同じものを見聞きしている時、同一でなければならないが…
時にそれは入れ代わりこの様ではない…。
私が信じるのは、思考役の生体組織が認知した事ではなく、思考というのは結果で、私たちの中にそのたびごとに訪れる印象であり、このヴァリエーションのひとつ、様々なイメージへと結合し非常に変化しやすいことが原因で、異なる主体とは同一でないということ。
この場合のヘルメティズムの哲学的価値は、精緻な方法で示されなければならないでしょう…。
ジュリアーノ
ああ、親愛なる評論家さん…、あなた方は正確なことを言っていません。
工学的に10台の写真機全てが最高のレンズ越しに、同じポイントに向けて設置され、動かぬ対象の像を撮影した…
それらは、同じイメージのものでなければならない。
これは原理で理想として…。
実際には、それは同じではないということ…。
10台の写真機は、同時に同じ位置に設置することはできない、それは動かない対象の形状を表現するためで、物質や肉体の不可侵性という基本原理(*訳注* 同時に同じ位置に存在できないこと)…。
10台が設置され、つまり10の異なる点が、その固定された対象物質のイメージを表現することに関係している。
一通りではない10の差異では、その光線は10通りに変化、それはこの一つしかないモデルを危うくする。
もしそれら写真機10台が同じ焦点を結んでいたなら、同じ画像を撮影し取り込んでいるし、異なる光線のグラデーションを除けば、つまりまだそれらの結果には違い・対象に関する何らかの相違や気づかぬ未知の変動があるかもしれないってこと…。
ですから完璧に調整された機械を使った方法を用い写真をとったとしても、その2台でも一致したものにはならない…。
この考えは、古くから哲学者たちによって定義されて来たもので、知的理解を実際にしてみること…
それはまったく良い定義ではなくどの様にでも解釈できる、これらの言葉では優柔不断と言わざるを得ない;…
それには、何が知的理解/知的能力で、何がこの行使かを前もって知ることが必要でしょう…。
どんな様式においても、定義されていない言葉の思考があるのは確かで、人は感覚的イメージを基にして考えている…
それらの感覚にはあらゆる種類のものが相互に結び付き、目の前に留まり次々に連なり、比較対照されている。
というわけで、もしそれらの印象感覚というものが、様々であるなら二つの機械装置での差異というのはもっと繊細なものであり、さらに人間においては人それぞれでもっと奥深いのです…
その聴覚・手触りである触感・視覚、また匂いに関する感覚、それらは脳へと持ち込まれひとつのまとまった印象/感じ/感情や情熱へと圧縮される…。
人はいまだかつて必要な”中立性”というものを獲得していない…、そこにはその感じへの評価、公平性やはっきりとした価値というものがあるのです
これは教理や原則というものではない
あなた方に示され創造されている大切にすべき何ものかであり、それぞれの物事の基本として信じ行うために、そこに提示されているもの…。
これは確かなものとして表現・表明されたもののことです…
それが何かは、実際にあなた方が自分の中でまた他の人たちの中で試すことができます。
人は、感知能力の及ぶ最高領域の何か、その中で中立的存在であり得る…
その感覚の中の何かについて、私が与えたこの言葉は、自分の中の小さなヘルメスの出入り口
その何かが与えることができるのは、すなわち澄みきった意識/分別自覚の意識(良心)であり、無傷の自然体/自然界の意識…
感覚として分離したもので、損得なしでそれを評価できるもの
それは、人の全ての雑踏のレベルの上10kmにあるのです。
それらの感覚は、私たちの脳へとやって来てその関心事を改めるだけでなく、瞬間的に貫く小さな感情をもふるい分けし、続いて私たちの分別心や私たちが感じる物事の習慣、また私たち個人の歴史的歩みの記憶にさえ及んで行くのです。
科学者
この個人の歴史とは何ですか、私たちの内にあるのですか?
第5のコルポ(物質)ですか?
ジュリアーノ
違います。
もしも”私たち”が再び肉体を持つなら、すなわちそれは死すべき運命にあり、何かが新たな人間という仮面をまとったということ…
それは私が最初にお話しした様に、私たちは心の奥底にそれを持ち込んでいる…
本能的欲求・言いかえれば確たるあるいはもやもやとした記憶として…
つまり無意識の衝動その物語、その特徴の歴史的不変なその何かは、形成されたもので私たちが個人であることの源になっている…。
従って多くの生涯とそれを考えた多くの中心中核的な人達の輪廻の後、それは様々な影響下にあって形成され、抜きん出た特徴の特殊な永続的耐久性を持つモデル/原型となった…
それは、私たちの習わし・思想家たち・私たちが共鳴するものとぴたりと一致するものではない…。
この何ものかが、私が、あるいは歴史的個人と言っているもの、私たちの中に存在しているものです。
つまりそれはカバラ的存在で、過去・現在・未来に存在する何か、永遠の中の私たち自身、人々の命に起こる様々な経験を改善好転しているものです。
この様にそれらの感覚や感情印象等は尊重すべきものとして到来し、私たちに認識されます…
二次的にはそれは思考役である存在、第二の私たちとして同伴しているもの・あるがままの私たちの本質・そこにヒントや助言を提示する瞬間のような存在…。
もしも、それらがあなた方の様にひとりの人、また私が、見た見ている美しく心優しい女性たち、優雅で魅力あるものであるなら…
同様の方法・美的無意識的観点からも、私は、それを見ている…
高みからその底辺へとそれを評価判定し、真価や恵み・ヴィジョンを味わい享受していることになる…。
人々はどこへ向かい何を成し何を考えるのか、その生涯に何をもたらすのか、私にはそれは見えないこと。
しかしもしも私がひとりの女性(*訳注* この場合は、魅力的で引き付けられるもの、という意味)を愛しその魅力に献身し、要するに特別にそれを受けいれるなら、この女性を私は見つめ感じ、他の女性たちに応対する様にはしなかったということ。
私に見えるのは、ある種完璧理想的な何か、全てが満たされ完成されたお気に入りの贈り物…。
私同様あなた方男性は、それを見つめている、他の全ての女性たちにも同様の目を向けているのです。
あなた方には、そんな女性が私に与える何がしかの印象というものは、ないでしょう…
あなた方にとっては通りすがりの他の多くの女性同様、それはひとりの女なのです。
多分他の女性に増してもっと醜い女…。
今は私も同じ、わずかな時の後、もしその魅力が消え去ることになれば、この女性の美しさは少なくなるか醜くなる、つまり興味がなくなるだろう。
ここに示した例には二つの理由がある:…
同じ印象でも、それぞれの男にとっては、それは異なったものだとあなた方に示すこと…
そしてそれぞれの感覚の違いは、同じ男性でも、同じ女性に対し見つめ受け入れている瞬間の心理的な違いもあり得る…
つまりその同一対象には引き付けたり気乗りしない何かがあり、つまりは異なる何かがあるということ。
脳と写真機の仕組みの私の比較、そのイメージについての可能性、つまりそれぞれに統合された印象とそこで認識され明らかにされもの、それには、人の中に受け入れられ評価されたものがあり、異なった様式の何かが作用する可能性、ある種の視覚的機能の構造がある…。
その同じ構造は皆にとっては別々の印象や感覚:…
身体がその構造的火器(*訳注* 銃器、火によって機能する装置)で感じること、人の中で習慣化され武器となって生まれた感覚・ある種の着火装置、それが火をつける;…
恐ろしく後ずさりする様な破局は招かないが何かが…。
その味わいは、オレンジ、顔をしかめさせる刺激的な味、しかし食欲をそそる味わいもあり、それはほんとに爽やか、その香りもまた素晴らしい…。
この様に、その食感・豊かな香り・その他すべてが素晴らしい。
この”豊かさの原理”、何かが私たちの中に在る…
それは、多面的で本質的なある種の感覚や印象にあって評価される部分…、言い換えれば精神的なイメージ、その印象そのものである。
その人に感覚や印象が生じ、特徴的描写として浮かび上がって来る、それが月的変容のコルポ(*訳注* ジュリアーノはこれを分泌系の身体と関連させて表現している/日本語の表現にするには難がある:感覚)である…
多様な形態をとることができ様々に動く、感知能力としてのそれぞれの形によって特徴化されているものです。
その印象や感覚は、理解としては、歴史的人間が、共感あるいは反感というフィルターを通過する本質的なものとして得ているもの、つまり紆余曲折を経て具体的なイメージとして輪郭が浮かび上がり受け入れられたものたちであり、それらは変質したオリジナリティー/その形をもっている。
科学者
本筋からそれてはいませんが…
あなた方にお尋ねします、私が言ったのは、言及されている思考とは何かということ、つまり人はどの様に考えるのかということ…。
ジュリアーノ
ちょっと前のあなた方の批評に戻ります…
おおざっぱな概略・私が全く評価しなかったこと、このおしゃべりでそのことにあなた方が興味を抱いているからです。
あなた方が言うヘルメティズムのことです…
もし本当に考察を加えようとしているのなら、大学における科学や哲学の欠落部分について少しばかり触れ、考えるということまた思考が何なのかを言わなければならないのですが;…
この空白を埋め合わせること、それです…
科学者や哲学者の方々は、最も根源的なものを見落としています…
それは全ての人がつまり暗黙知の上に留まっているということです。
ですからそのヘルメティズムは、はっきりした言葉で示された哲学、言葉の規則としても定義された体系へと収束しなければならないのですが…。
お気楽なあなた方はそれをお忘れです…
私たちの会話には、序論・プロローグ・前置きというものが必要なんです!
私があなた方に言ったヘルメティズムや魔術は、それらと一緒くたの、おしゃべりな人の哲学で満足し矛盾を生じるものとは区別されます…
その全ては学究的な多くの大衆に喜んで受け入れられたもの、見ることそして人々が言い他の人たちが記したそんな批評を、感じることです。
ヘルメティズム、物質主義者の奥深く、そこにあるのは経験に基づく研究です;…
そして書くあるいは話す技術は、最終的な経験ではありません。
ほんの何世紀か前、明らかにされた物質機能の哲学的原理は、様々な論拠を支える試みとして受け入れられるものとなっていた…。
あの愚か者のコロンブスは考える、正に狂気、それは海のその向こうには陸地がある、多分インドの国々・見知らぬ大陸、きっと他の民族の色んな人たちが…。
しかしまあ何という狂気の沙汰!
アリストテレスはこう言った。
プラトンはこれを別の方法でいった。
イブン・シーナー(*訳注* 中世イスラムの大学者、第二のアリストテレスと称された)はこう申しました…
という訳で、新たな陸地・新たな世界、インド諸国への新航路なんてあるわけない、そんなのは幻覚に囚われた人の妄想でしかない!
もうひとりの変人ガリレオ(あなた方が知っているのは星を観察していること・数奇で最悪の運命に終わったこと)、あなた方は向こう見ずという印象をお持ち、それは当たりです。
地球は太陽の周りを回っている…高慢という怪物の狂気;…
聖書はそれを正そうとする!
ヨシュア(モーセの後継者)は敵を打ち負かすまで戦うため太陽を止めはしなかっただろうが、地球は止めたかも…(*訳注* その 聖書にも翻訳や解釈上の間違いがあるとジュリアーノは言いたいのだろう)
そんな訳だからガリレオさんは、あなた方の頭の歯車にちょっと油をさしてる、あなた方が少しばかり飲み込み、太陽の周りを地球が回っているのを見た時、あなた方はそうだったのかと改める!
ヘルメティズムは、他の人たちが言った、あるいは私は断言するとは言いません。
ヘルメティズムは、告げるのです、つまりある事柄を指し示す;…
哲学者や科学者、無学な人たちすべての知識の及ぶ限りのそれは、人のエッセンスのスピリトである…
仮にそれが自立したそのアクションや行為で、人々がどんなにそれを超人的と言おうが、要するにそれは人の生体組織に直接的に従属し、脳から間接的に来ているもの…思いの結果…
人は考えるがなぜ考えるのかは知らない;…
と言うより言葉に遊び/余裕がなく考えていない…
なぜならそれこそが念入りに考えるということ…、それが人々が考えているある種の自己のロジックで経験していること、その肯定であり否定であるから…
言い換えれば、信じはしたが実証されてはいない事柄…。
では、そのヘルメティズムがお尋ねします:…
なぜあなた方は考えるのですか?そしてなぜ自然に行為すると信じ考えているのですか?
あなた方が認識するイデアを練り上げる考えとは何で、その感じの源は何ですか?
そしてあなた方がちょうど考えているその何かを、本当のことあるいはまことしやかなものと信じているのですか?
科学者
あなた方のどんな形式であれ、その会話は多くが何かの満足として続いている…、その考えの検討方法を、あなた方は言える…
そしてその何事かは、二次的なあなた方である。
その考えがどれほど私自身の中で検討されようが、常にそれは演目というものです。
ジュリアーノ
解かります。
それが最も経済的で、関係するのはその脳のエネルギーの習慣的な浪費、他の人たちがまさに話しているその精神的なあれこれの結果としての考え…。
節約すること、あなた方が熟慮しているのはその理屈であり、最小労力の最大効果。
ひとたびその労力(すべての様式の疲労)が示されれば、それはその人を卓越させる
つまりそれは、最高執行役であり、清貧な規律に従う何か、そこから外れるものや様々な幻惑にそれは重なり一つになっている…。
さてもその考えるということは骨の折れること、つらく不便なこと。
私は考える、従って私は生きている
デカルトについて私は繰り返そう…
人々はその思考を人の動物生命のあかしと考えた:…
ある種の降霊術者は、より優れた思考をする死者たち(生きてはいないそれら地上の生命を超える存在)という何かに異議を唱えることもできるだろうが、そこには多数の宝くじが持ち込まれているのも事実…
科学者
その思考の何をあなた方が信じているかを私に言いたいのではないことは、解かる様になってきましたが、実際にどうしたらいいのかの理解、演目とは関係なしに検討している方法やどれ程が私たちの内に示されるのかにはまだ達してはいません。
実際のフィールドのそのヘルメティズムや魔術は、私たちのそんな内面様式にはほとんど知られていないということは重要で、その思考は念入りに作り上げられているに違いない。
私たちはそれがどうなのかを知ることなく考え続けている;…
ヘルメティズムでもそれは同じこと:常に考えるということ、より高き課題や関心事へと力を結集する。
そのすたれた知識は、普段生活のくせや習慣を越えどこへ達するのか…、新旧の科学において何がそこに向かうのか、あなた方は、グノーシス、つまり真実としての認識をどう表現するのですか?
(*訳注* グノーシス:1~3世紀ごろローマ・ギリシア・ユダヤなどで広く行われたキリスト教的主知主義の一派 グノーシス派の説く 最高完全の知識 神智 神秘的直観)
ジュリアーノ
本のタイトルページ(*訳注* 実際思考についての論考)で立ち止まらないでください。
ピタゴラスは、静寂と会話していた…。
静寂は根源的な何かから派生した言葉で、それは運動力を点火しその内省的感覚は静けさとなる…
動き、つまり従って雑音が衰退した静けさとなる…。
その地ブロッツィには、ラテン語の語源の多くの転用例がある…
そこには今は私も思い出せないが、死語も生きている言葉もある。
沈黙(*訳注* 古イタリア語のスィレーレsilere 英語ではsilent, peaceful)は、話さないという意味で、雑音を出さない声を出さないこと;…
一方でそれは雑音や音、そして人の声を感じないことでもある。
そこには論評の必要がない。
マグナグレキア(*訳注* 南イタリアの古代ギリシア植民都市群)のこの古代ギリシア人は、古代イタリア人となり、古代ギリシアの精神は変化へと向かう…
それは特別なことではなかった。
もし当時印刷が発明され出版が実現したなら読み書きは禁止されただろう。
なぜかって?
それは、考えることは三つのカテゴリーと関係し…
科学者
さても、定義なしに、考えることをカテゴリー分けしている
ヘルメスの悪知恵!
ジュリアーノ
そこにあるのはこの様な人の在り様…
それは、人として結実した複雑性・歴史的本質であり、精神・スピリト、その生体組織・印象や感覚として養われたもの、歴史的慣習が無意識の奥深くに貯蔵され、そして再び呼び出されたイデアである…
そして二次的な様式として、そのイデアは思考と交換され暗示される…
その何かを人は、感じ言葉にする…
それは、群衆の雑多な感情と接触した私たちに生じたその結果だということ:…
最終的にそこにあるのが、その思考としての何か、私たちはそれを神聖なるもの(*訳注* 直観的知恵/直観的認識)と呼ぶことができるが、つまりそれが自然の本質である:…
神意として語られている何か・放たれた様々なイデアと形、紡ぎ出され口に出された多面的多角的な様々な言葉…。
何事かを説明するのがその思考、人がどう言うのかということ…
人という形式のそれら生体機能を通して、外的世界の印象を受け取った後、つまりそれら交換され変形変質した後のイデアたち…
しかし何がこの三つのカテゴリーの中のひとつのその思考なのか、何回も何回も何かが思考され、それは更に難しくなる…
なぜって、それらは分析され、どこまでも深くなり、様々に入り組んだイデアは詳細ち密に調べ上げられることになり、毎秒ごとに熱情や関心の必要性のもと突きあわされる…
洪水のようになだれ込んだそれらによってその本来の原型は跡形もなくなる…
更になぜ古代のイデアたちも私たち他者たちの中の私たちの心理状態も、現実の命・そこに変容適合する原理に耐えているのか…
またそれは、自然に私たちが現代人であることにも思える…。
もしピタゴラスが静寂の中で話していたなら、しゃべらない(声を発しない)、また感じない(外的な声や音があなた方に影響しないようにする)ことを望んだかもしれない。
あなた方は、彼のまさにその価値が何なのかを理解し見極めてください、そして静寂の中でそれを理解し見極め自分のものとする…
その地には、あなた方の心の平安を妨げるものは何もないのです。
その山々の地スイス、そこはいつも少し清涼で静かなたたずまい…
人々は、その清らか敏感な気配りでしばしば甘美な晩餐のもてなしをする…
ひとつまたひとつと何かが変更され手直しされる…
彼らは、そのひとりの男を翼をもつ天使へ変えようと望んでいる…
そして、それら群衆の感情は祝福のコーラスに…。
その不思議な清らかさは静かなる平安を求める…
そしてちょっぴり清涼な山々のそのウイリアム・テルの国、彼らは寡黙(かもく)である…。
彼らは、神秘的で言葉を越え雑多な障害を越えて行く。
その神聖な神経の鋭さは、男の魂へと持ち込まれ静寂をもっともっととむさぼり食う…
それはピタゴラス的なものではない。
それは養われたもの、人を静寂へと推し進めそれを心に抱く…
ヘルメティズム、それは話さないこと、そして感じないこと;…
発言の必要性のないことは言わない…
形を成し姿を現そうとしているイデアを身体(個人の身体は仮の姿・仮面・様々な声の拡声器)の外に表現しないこと;…
それはまた、身を引いて物音ひとつしない岩だらけの高所や砂漠の地で孤独に身を置くことでもない。
ピタゴラス派は、町の雑踏のどんな場所や取引場所にも生活し、タラントゥムやブリンディジウム(*訳注* 地名;現イタリアのタラントやブリンディジは古代ローマのギリシア人入植地)の船だまりの近く、その込み入った袋小路や路地の喧騒の中にも彼らはいた。
その大人物、その精神の始まりは現在へと向かい、彼の説論・そのクラシックなあなた方の沈黙の説論は繰り返されている…。
その外的な雑音は聞かれない;…
あなた自身は、雑音の原因ではなくそうはしない、多言・不必要にべらべらしゃべるわけでもない
言葉は創作家、その初めの動き・運動としてのイデア、その何かは反射し広がり思考の波として拡大し、無限に広がりゆく。
私は現在のそのヘルツの発見には無知であるが、多くが普及し今は無線通信の基礎となり、その放射法則の研究を私たちがしているのではないが、人は、思考としてそれが何なのかという疑問・分析に目覚めたということ…
それは人の生体組織、電磁気の集積体として気づかぬうちに神経系に波を生成放射する装置…、そしてそれは言葉を発する…
その力には計り知れないものがある。
冒涜の言葉、それはついつい口にしてしまった粗野な言葉遣いではない…
一方でそれは意図して言葉にされた思考、憎しみといら立ちに囚われた寒々とした呪い叱責の言葉…
その何かは、人間の様々な生体組織から放射され波となり伝わる…
人々はそれを知り経験している、人々はその法則を知ることができる、その方法を正確に知っていて毒のある思考を巧みに敵へと投げつける…
それはまた、純粋なイデアや善意、つまり愛においても同様である…。
ヘルメス的医療に関するこれら私たちの会話に表現された様々な要素は、イデアについての気の遠くなるようなこのコミュニケーションとして幅広く検討されてきました…
その力や問題点、苦痛を癒す善意の鎖、その絆に心を向ける人の上にこそそれはあるのです…。
科学者
問題点のコミュニケーションもですか?
しかしこの鎖は、爆破装置、銃器の様な兵器、射る為の火器装置で、それは石ころを投げつける様なもの・雷の様に恐ろしいもの…
ジュリアーノ
それはまた皮肉な成り行き…
なぜならそれは、日常生活の中で体験する様々なイデアとしてのその様な習慣のことであり、私たちが広く話し合い明らかにしようとしたが忘れてしまった何事か;…
つまり批判的口調で笑っていた皮肉、私が言う何かに成り行きで発言した言い分のことです。
人の生体組織のその価値の根底には、例えば相互に似た関係があると、すでに私がご説明しました…
そしてその積み重なりは人々を結びつける鎖の様なもの、優れたイデア/理想であり善意、そして、我慢や忍耐の苦痛に対し影響を与えることができる…
つまりはそれが、病の原因や悪影響を改善好転させ進化させる土台である…。
あなた方は、すでに話し合った色んな事に結果として異議を唱えることなく従っている。
カトリックの教会(ローマの儀礼的なキリスト教を含み、広い意味での古代都市からのまたグノーシス派の人たちから引き継いだ魔術的要素)は、大衆の祈りの魂の鎖を構成し、特にその不安や恐怖の衝動、あるいは多かれ少なかれ個人的な、更に集団を構成する共同体の関心事などの要素に影響を与えている。
思い出してください、1884年のナポリでのコレラの大流行でそれらの教会が群衆で埋め尽くされたことを…
そしてその権威者たちは、教会とは関係なく節度を持ってそれらの現場へと出入りし進言しているのです。
1631年のベスビオスの火山の大噴火で流れ出る炎を阻止しようと敬虔な聖者たちが列を成したことをあなた方は記憶しているでしょう…
その時その火山は豊かな田園や村々を破壊し、それはナポリの港へも差し迫っていた(*訳注* ヴェスビオス山)。
そこには今もその彫像がある…
守護聖人ジェンナーロ、マッダレーナ橋からその手は伸び、溶岩の破壊から町を守ろうとしている。
(*訳注* 1631年の噴火では死者18000人を出している;ジュリアーノは1861年にナポリ近郊のポルティチで生まれ、この地域の民話や地理学、ラテン語、古代エジプトの知識にも詳しい…またパスカーレなる人物からエジプト秘儀の手ほどきを受けている)
科学者
信仰的行為
ジュリアーノ
大衆においての信仰は、寄り集まり支配的な働きとなる…。
信仰の原因になるものは大衆の中にあり、実際的価値の手腕が産み出され、それらはあらゆる能力に及んでいる。
これが、ヘルメス的また魔術的な働きです。
善意の、あるいはまた邪悪な…。
半分神でありたいと思うその様な人たちは、その生き方について思案するに違いない…
そこではなにが善で何が悪なのかと…、それはニーチェ(*訳注* 1844-1900;ドイツの哲学者)が友とする超人のようなものです。
この信仰は幻想です。
ある種の偉大な善であり、また計り知れない悪である…。
科学はあなた方にそれを気付かせ、幻想を抱かせることは決してありません。
しかし人は、その幻想に対し良識で処する生き方をすることはなく、言うなればこれは大変な苦痛で・深く物事を瞑想することであり、全てこの宇宙の中では惨めさなのです。
この様にその種の信仰は最終的に生き方としてそこに行き着く…、期待し満足を味わい、時にそれは思いや想像力の貧しさであり私たちを魅了することはない、これが現実、そういう事なんです。
愛自体は、ひとつの信仰状態です。
というよりも、幻想を信じた状態そのものです。
これは人間の肉体の健全な状態であり、私たちの意識や知覚の特殊状態にある信仰です…、時にその感覚や印象は私たちの命にあって、生命力の旺盛さそのものです。
要するにあなた方は声高に叫ぶことはないが、信仰における変わらぬ主張、それは私にも当てはまり、私の心の奥深くへと落ちて来る神秘主義 ―― こんな会話で私は変わるわけではないが、おしゃべりのタイミングとしてはよい…。
私は、あなた方にもったいぶって言っているのではありません…
つまりそこに私が示しているのは、私は相当私たちの生き方・この実際のヴィジョンの貧弱さについて、寛大さをもってあたっているということ、そうしている…、実際人々に対し品位を持って処することが必要であり、人はアダムの子孫から命を引き継ぎ様々に変化して来ているということです。
私たちは、多くの時間を割き友人として話し合っていますが、この会話には教義的な押し付けはなく、ある課題から別の課題へと飛び回っています…
ひとつの興味から無惨(むざん)なコメントが、あるいはまた批評としての何かが…、多くの私たちの弱点や欠点も描き出されています。
もしも私がヘルメティズムが何なのかを言ったとすれば、全ての教えとしての魔術を教えた事にはならない…
その根拠は、ひとりのヘルメティストをその本来の姿へと本質的に変化させる方法が何かを示すことで、それを考えとして招き入れること、物事を観察し評価する一般的手法の手本はないからです…
しかし本来の見るという点からその何かは、普通ではないのです…。
私が投げかけた言葉が、もしあなた方の中に種として根付けば、ほんのちょっとでもそれは納得したということ…
その命の景観は様々な点から表現され、そして異なった炎が即座に燃え出しその人間の古さの中に刷新された人を芽生えさせるでしょう…
つまりあなた方の中に、ひとつの生き方、俗世的で普通の習慣的様式から異質精神的なるものが始まるでしょう。
始まり、これは原因である…
つまりそれが発端となるということ。
ダンテの詩文集「La Vita Nova 新生」 、著作「La Divina Commedia 神曲」、これら著作によって、人間に潜む喜劇のあの分析が始まった…
何かが総合され聖なるものの訪れが可能となる…
この地上のどこであろうと、人は食べ・飲み・我慢し・分け与え・愛し、そして死ぬ ――
どこの誰であろうと、なぜ私たちはここに到達したのか知らない…、そしてこれが、自然の性質に従って生きる必要がないという事なのか…、必要悪を甘く扱いながら、つまり兄弟・同じ母親の子供たちのように私たちは愛し合っているのか…。
(*訳注* ダンテ;1265-1321詩人・政治家 は、 若くして亡くなったフィレンツェ生まれの恋人ベアトリーチェへの愛を終生の詩作の源泉とした;叙情詩「新生」、叙事詩「神曲」などを創作する原動力となった;彼の文体はルネッサンス文学の先駆けとして後の時代に多大な影響を与えた、政治家であった彼は、政変により追放され放浪のうちに著作を続けた、論文には「俗語論」「饗宴」「帝政論」などがある)
科学者
これは神聖な話です!
兄弟の様に愛し合うこと。
カインとアベルは兄弟だった、そしてロモルスとレムスも…
(*訳注* 聖書中のカインとアベルはアダムとイブの子供、ロモルスとレムスはローマ建国伝説上の兄弟でオオカミに育てられたとされる、いずれも兄弟仲は悪くなる)
ジュリアーノ
そんな笑いの種にしないでください、それは大変な誤解ですよ。
ヘルメス哲学は、そんなとんでもない気休めの幻想を抱かせるものではないし、人類が目指すものです。
宗教的には人々が直観する夢であり、その様な実現可能性のこと:…
それは物質・原子や分子、自分の中で平和裏に生きているものではありません…、なぜならそれは和合的秩序であり物質の中にあるもの・自然界では死となるかもしれないもの…、要するにそれについては私がすでに言ったことで、糧としての神で死者/死のことではありません…
科学者
私を混乱させないでください。
この哲学の初めであなた方は言いました…
人は、人間の喜劇の批評に着手し総合的神聖に達する、そこであなた方は、果敢にその課題の理解にいどんでいると…
それが人々の中の平和・静寂であると…
そのすぐ後で、そのあなた方が知る全てに対し矛盾したことを言ってのける…
言おうとしているその様な例は、動き続けること…、そしてその刷新は不意に始まる心の働きや情動である、と、―― それは「不和」というもの ―― その問題の何かは、人の巧みさというもの・最終的な心の平安や静寂、つまり統合ということにはならないでしょう…
それらはまるで仮面劇の茶番です…。
ジュリアーノ
ほら、そこ普段のメンタリティーの中に「新しいもの」が…。
そこに沈着したもの、そのある種の神秘を説明するものはじっくりと観察されていない:…
それは、ひとつの目的でやっとの思いでたどり着いている、言い換えれば結果としては本物らしくないもの…
その何かが、努力という緻密な精神的苦痛を伴う忍耐の状況にとその人を置く。
それこそが、あなた方が呼び込み直観している「不和」というもので、そこには集団化された働きや動きのコズミックなマテリア(*訳注* マテリアには、物質や集合体という意味と題材/ここでの問題点というふたつの意味あいが込められている)があり、私はそれを静寂や平安の中に生きることではないと定義し説明しました…
もしあなた方が、以前の私との会話の本筋からそれたその話のことを思い出すなら、大文字AのAmoreアモーレのことを言っているとおわかりでしょう…。
(*訳注* 大文字のA、ここでは、全ての創造の”始まり”をアルファベットのAに例え、Amore/愛から全てがスタートする…、転じて科学者は”始まり/スタート地点・原因”に立っているということ)
それらの融合形式の全ては、コンビネーションであり、物理的に化学的に浸透したもの、分子的で原子的なもの、それは静寂・平安・静まり返った状態ではなく、かと言って、「不和/格闘のもめ事」でもない( 、、)のです。
愛は、”熱”情である…
心をどれだけ砕いているか、その苦労のこと。
思いやり・理解する力・包み込む力、「化学反応」のことです。
(*訳注* 歌でいっぷく!
あなた方は、それをみて確認しているのです…
この体験は人間社会の日常生活、その人類の愛の中にあります。
熱情と融和、そしてその後に平安や静寂が訪れる;…
それが語らんとすることは、自分の中ですでに融合し報われたふたつの要素にはもう欲はないということ。
残念ながら私は、この人類の課題/問題点で立ち止まるわけにはいきません…
つまりこれは、人を補い正す自然の本質であり、課題としてのその何かは、生きることの根拠と欲望に潜む争いや矛盾・葛藤の原因、そのモラル/倫理に触れること…
またそれを完成されたものにすることです。
この様なおしゃべりの多くは、その課題から私たちを遠ざけています…
と言うのは、それらのおしゃべりはおいしい果実の様なもので、もぎ取ろうとしているがその近くには灌木のとげやら枯葉やら根っこやらが複雑に絡まっている。
私が望んでいるのは、あなた方がその見方を失わないこと…、私と話し合い何かにたどり着いたのなら、それが批判的な哲学でないこと、言い換えればソクラテスに対する判決のようにならない、つまりそれ以外の哲学になることです。
(*訳注* ➀ソクラテスの弁明 ②ソクラテス 参照)
私たちが話し合っているのは、あなた方が理解する為です、もっとはっきり言えばヘルメス医療を成しているこれらの分析的基本要素が可能かどうか、つまりもっと完全な人というものを構築し続けるその可能性の魔術的ヘルメティズムの理解です…、それは超人を成すインスピレーションとともにあるもの…。
分かりますか、そして同意していただけますか?
科学者
完全にではないです。
.なぜならそれは、あなた方があげた成果の哲学的項目であり、興味を引きこの話を続けたいと思わせるものだからです。
あなた方は、それに触れてもすぐにそれを捨て去ることがお好きの様で、この基本的主題からそれを遠ざけてしまう…、私はと言えばそれをお見事とは言えません…。.
この主題は人と人の間の愛情や思いやりであり、最重要だが判然としない、それは今に至るまで世界の謎であることは確かで、あなた方はと言えば要約してしまって…、そしてヘルメティックという大枠でくくって過ぎてしまう…
ジュリアーノ
私はあなた方が興味を抱く知識や教養を理解してはいますが、人が話す時そこに与えられる課題への感性全て、奇異なその考え方を明らかにすることは、通常様式の物事の見方で討議し一致をみるものではないんです…
つまりそれを理解することは、論戦を交わしあれこれと話し合い優れた”中立性”にとあなた方が至った後そこに現れるもので、お行儀よく対話を続けるというものでもなく、その状況やトーンは変化し、そこで扱われている何かは一致しないかもしれない…、この見方は最も根本的なところから変転してくるものなんです。
そこにはどんなヘルメティックな策略もありません…、たとえすぐにそのヘルメス医療にまた登場してもらったとしてもです。
医者は患者のベッドサイドに呼ばれたとしても、ほんのわずかな事しか()ないのです…、そしてこれは、大学教育での学びという点から来るものです。
その医者は、病に耐えている患者の内側・その組織の状態を診ているのではなく、それは人の症状、苦痛や体温、それらには微生物感染・その炎症による損傷が悪影響している可能性もあり、寒気や熱として伝わって来るもの、悪寒発熱…、つまりそれらは、化学的要素であり、過度に失われたものを補うためのものです。
もしこの原因についてモラルとして話す必要があるとするなら、これは起こること…、コックが食べ物に塩で味付けをするようなことに例えられます。(*訳注* 塩:ひとつまみの塩、分別や自覚・良識的判断をすることを意味している)
医者も人間であるということ…、知るべきは、人の魂を確かな印象として感じることであって、それで元気を与えれる、あるいは皆にとっては数限りない不幸の原因にもなっている。
大切な人の死は、大変な不安感を伴い、当事者を悩ます…
最愛の人/愛を失うということは、生体組織器官の混乱の原因にもなる…。
人は問いかけるかもしれない…、それは頭の中のその何事かを納得する為、そこには驚きがあり、そしてそれは残された人の物的身体への影響という様式の動揺である…。
そのマテリアリズムの医師の彼が受け入れている何か、それがモラル(人々はこれをこう呼びます)、これは物理的に影響し、つまりそこに横滑りして来る、しかし彼はその心理的分析を長引かせることはない…、これがある種の原因・確認事実として形成される…。
仮に前もって説明すると、それはまたある種素晴らしい特別な何かで、過剰な薬学にバランスを与えるといったようなことで、そのことでそこに電気的な光/啓示が与えられ、つまりそれは何か・善や悪が創造されるということではない ―― あるいはそれはある種のアンバランスで悪さをする細菌など撲滅しなければならない何か ―― はたまた化学的生成物の何かで、化学的に病んだ組織の化学的変質物の場所に置かれ影響を与えなければならないもの…。
それが魔術的ヘルメティズム、病身前の人のそれが、療養中の現状の混乱の中枢部、その原因を診察し始める…
そして痛み(抽象化された情報)というこの印象や他の全てを理解する…
それは脳の座のそれぞれのどこかに在り、状況が確認される…
言い換えればコントラストとして色んな感覚が届き、その人が持つパーソナリティー/印象として響いてくる…。
つまりもしその状態が普通ではなく、痛みのない熱・衰弱・発作だとすれば、センシビリティーの本源、その能力の半分は脳にあると診る…、その衰弱はその人独自に起こった反応ではないのかと…。
科学者
全ての疾患の原因その他には脳が関係する…
全く現実的ではありません…
喜劇の中の想像上の患者みたいで、誰かが奏でた退屈な音楽みたいな話で私にはさっぱりでした!
この様に確定された第一原理、それは病根なのか健全さなのかお尋ねしたいのですが、そのお医者さんは、にどんな意味の豪華な味付けをなさったんでございましょう!
ジュリアーノ
その様な批評は失礼ですよ。
全ての持病や疾患に先だつのは、無規律や混乱また異常や例外、一時的に規則から外れている事、脳がどの様にも矯正しうる余裕/自由性、遊びでもある。
私は以前言ったことがあります…
どの話し合いだったかわかりませんが、どんな疾患にも寛容で包容力ある何かが予兆する方向転換の感覚…、何かが薄れる感覚、つまり放棄し身を委ねる感覚です…。
私はあなた方に細菌感染の例を提示しましたが、そこで私がお答えしたのは細菌に対する私たちの見方です。
しかしそれは、ある状態その印象、普通ではないという感覚(脳の感覚)それにつきます…
ある種の病や弱点が何かということを明らかにしようとしましたが、その実体とはいったい何なのか…
ですから、その中枢部の混乱、普通ではないという人間の感覚や印象のことです。
あなた方は複雑で重い病の経験はないかもしれませんが、その重篤(じゅうとく)さについて考えてみると、どんなひっかき傷もどれ程重篤かを天秤にかけているのはあなた方のセンシビリティーの感覚や印象なんです;…
つまりほんのちょっとでもすごく敏感、神経の印象感知が繊細であれば、幼児の手によるそのあごのひっかき傷はあなた方にとってはその様な関心事の出来事となる…。
私の言うことをよく理解してください。
科学者
この印象の例、神経におけるこの小さな事件(人が言う一般例)、言い換えれば色んな感覚は、あなた方が言った良い例の、色々に感じるデリケートな受容組織…
それは、正しいです。
その様に日常生活の赤ん坊を考えてみると、ひっかき傷やちょっとの出血、ワーワーと泣きわめくってことは、世の終わりの様に感じてるわけで…
ジュリアーノ
そして赤ん坊のその例には、議論の余地はなく明白、声を発するというその能力(様々に関連付けられた音として表現されるイデア)、その中枢部の感覚器には、嫌な感覚や印象また痛みが引き起こされるが:…
充分泣けばそれで終わり、お母ちゃんの笑顔あるいは養い手があやしてくれる…
なんのこっちゃない、そして世の終わりは、笑顔に落ち着く。
おとなにおいて、時にそれはもっと特徴的、同様の困難で我慢する新たな要素となった…、つまりそれは子供の時にはなかった意志で外的に暗示される重要な物事への信頼を拒絶することに…。
いずれにしろ、もしこの世界を敵対的な原理と取り違えてしまうと、正しい議論の重要な原理は、病みそれでよいと思い込んでしまう、つまりそれが自身の最初の痛みや苦悩の感覚となり、自分を過小評価し見失わせてしまうことに…。
坐骨神経痛を病んだある男性は、夜眠ることができなかった。
彼の医者はそのことで頭を抱えていた…
その男性にはモルフィネ以外のあらん限りの種類の睡眠薬が投与されていた…。
医者は多くのことに気づいた、そして恐れていた…
その患者はその薬を正しく服用したのか…、と。
その患者には、とうとうモルフィネを準備しなければならないのかと悩んだ…
つまりそれが、坐骨神経痛の本当の治療法だったのか…。
私は何日も祈ったことがなかったが:…
私と彼(*訳注* その医者のこと)とは友人同士、気にも留めていなかったしその親交を疑ってもいなかった;…
まあ…、それで行動を共にした。
私たちは彼の母親の墓前で誓った…
彼は医者としては神にその心を告白しはしなかったが…
私が彼に持たせた日本製のそのモルフィネの糖衣錠材は、毎夜もし2錠以上服用したら危険極まりないもの。
彼は誓った、そして彼にそれを小瓶に入れて持たせた…
変わった形の…1ダースの赤色の砂糖菓子を…
それは、私がお菓子屋さんでわずかなお金で買ったもの。
最初の夜、ほとんど効果がなかった。
二日目の夜は、誓いもむなしく、ひそかにそれは3錠服用された。
その朝男性はまだ目覚めていなかった。
私に男性は恐る恐る告白した…
違反が行われたそのことを…。
私は、それを患者に毎晩2錠ずつ持たせた、それから1錠と…
彼は眠った、そして治った。
科学者
なんと斬新なやり方!
ジュリアーノ
斬新なその何かのことをあなた方は言っているんでしょうが、それは、脳の中枢センター・自らが受け入れていること…
人が、眠りや痛みに命じたこと。
というわけで、私に言わせれば、ヘルメティストは、それぞれの患者の脳内の異常なその現われを取り除いているということ…
その意味は、センシビリティー・センター内の対抗的印象/感覚を刺激しているだけ…。
それらの生体器官やその流れ(*訳注* 生体電気や分子、エネルギーなどの流れのことか)は、人体を養い健康を取り戻すことを可能にしている。
科学者
つまりそれらの異常状態は、生化学的なものですか?
そしてこれは、生体組織が悪化したということですか?
糖尿病のブドウ糖やブライト病のアルブミン(*訳注* 腎臓炎の尿蛋白)など?もしかしてそれらは、同じこと?
ジュリアーノ
全ての疾患、悪化・感染・腐敗です…
分かりますか?
誰もが同じ指揮権に従っているのです。
科学者
それで、死というものは、それとは別なんですか?
ジュリアーノ
それは、逃亡すること…
打ちのめされずたずたにされ散り散りになったものは、知性の力実効支配の力その時の中心へと横滑りし、そして豊かさを産み出す感覚器官としての人は、その力の何百万分の一かを大切に守っている…
それが、能力としての意志…。
除外されたそれら何かは、死というものに服従しその激しさに耐える…
時は、その最後の見せ場、その命は達する…
その脳の指揮指令の潜在能力は脱ぎ捨てられ、そして最後が示される…。
臨終を迎える人は誰もその長い断末魔で、親族たちに囲まれ一瞬目を覚ます…、それは再び急ぎ行くため…
そして何者(なんびと)が告げることか:…
私たちは一緒です!と…
つまり人間は、誰も死ぬのか?
科学者
私も、注目しています…
ジュリアーノ
あなた方は、その窓を開けています…。
私はその窓の向こうの東の方(*訳注* 日の出の方向:転じて太陽・命の起源のことを暗に言っていると思われる)を見ています、それは柔らかな白い光の何かの星、サトゥルヌス(*訳注* 豊穣の神)が姿を現す前触れだってこと!
科学者
神さまたちは、彼サトゥルヌスを地獄へと(つか)わしている。
この神聖というお手本の彼を観察するにつけ、私は攻撃的になってしまう…。
ジュリアーノ
私もそれは残念ですが、至高の神さまたちが望んでいること、それは自らの命の可能性へと復帰再生すること…。


対話その6 完


付記 

---ジュリアーノの後継者たちによるヘルメス辞典より---


MORTE  死
死は、生体の機能の停止と定義されている:…
客観的に人は、循環が途絶えると死に、肉体は分解する;…
主観的にはその分裂の感覚は理解の範囲外、それが死である。
感受性/感覚/感性へのその反応は現象であり、知性の活発性に内通すること…
一方でその感受性は、周辺の現象との反応はなく、それは自分が告げるものであり、表面上は死である。
それは一種の不完全な浄化である…
なぜなら、以前の生涯の記憶を持って芽生える再生をもたらすからである…。
そこからは大いなる魔術の統治が始まるが、それは死と共にある。
死は再び目覚めること;…
自らにそれは始まり、死というものは覚醒への目覚め、そのヴィジョンである。
つまり何かが死を所有している…
それが死者である。
その嘆き悩みの種は芽生え花が咲き、種が地に()かれる…
そしてまた乾き死ぬ。
その種は再び生き返ることはもうないが、実り多き土壌に落ち芽を出し新たな種の命へと変貌し、その種の生と死へと立ち向かう。
知的生体の意識がストップしても、その純粋でシンプルな物質的ヴァイタリティーが終わるわけではない;…
それぞれの組織や細胞は分解を続ける…
そこには生体組織また非生体組織の物質変化としての腐敗があり、それは表面上死へと続き残余の鉱物(*訳注* 土の要素を構成するもの)へと変わる…
他方には命があり、つまりそれは、破片・本質的命の幾千ものかけら、大気を呼吸し燃え尽きた灰(*訳注* 亡骸(なきがら))である。
それは夢、そこからは全く新しい永遠へと続く存在の物語が始まる…。
もしも死が知性の途絶えた限界状態だとすれば、それは支配できないもの…。
それはインテリジェンスの途絶え、あるいはそうではなく、意識への現れが・関係性としての機能が、分断した時でもあるのか…、つまりその現象は外部での分断なのか?― 麻痺的な何かで言葉を発声できず、またその人の持つ動きもすることができない、はたまたそうではなく、それがその人の感覚意識なのか、そしてそれゆえ、それがインテリジェンスで存在なのか、人の死体は別種の感覚の生きたコルポ(*訳注* 物質体/肉体)の被造生命体なのか、なぜならそれが化学的分解であるから…。
この様に下位的階層の生命の機能は、つまり最期の時までその骨が存在する…
それは、地の中でゆっくりと変化する過程と言える。
その意識の問題は、それが残余のインテリジェンスかもしれないが、測量可能なものではないし、なぜなら科学的に誰もコントロールできないことで、その持続性である内的あるいは外的意識の統合性は、くっ付いているにしろ分離しているにせよコルポに至りトランスフォーメーション・変化であろう…。
それが死のミステリー、そこには言葉にある性質としての弊害があり、それで実際の生命に答えようと飛行機でブンブンと飛び回っている。
(*訳注* ライト兄弟の初飛行は1903年、この対話はそれから約30年後)
以前から亡骸について人は言っている:…
あなた方は願っている、その魂は天に舞い上がる、と。
しかし科学者たちやそれに無知な人たちも優れた想像ができている…
死者の意識は肉体の昏睡状態で、何かが化学的に分解している、さもなくば光り輝きもう応答しない何かのコルポへと目覚め、インテリジェントな存在の意志/意欲に成る、と…。
死者たちの亡霊は存在しない。
それは、私たちには霊媒の前に座っている者、その亡霊たちが生き生きと死者たちの扮装をしている。
それは死者の霊を呼び起こす儀礼…。
死は、肉体そしてインテリジェントで見えないコルポとが分かれていることではない;…
ここには死者のスピリト(*訳注* 魂や精神、霊、死者の魂など)は存在しない…
そして死者を実際に呼び出すことはできない…
それは、精神的な呼び出しでもないし、人が信じる様なコミュニケーションの感覚でもない…。
それは枝分かれする樹木、接合面/つなぎ目…
最後にそれは変化し転化する…
死によって制限されその用意された(たね)が向かうは再生/復活…
それは再び別の樹木へと変化し成長へと向かう…
それは上昇し入念に仕上げられた種子/原因…。
人はその衣服を脱ぎ棄て目的とする別の衣服を再び作り上げることはないということ…
その一事において、つまりそれはそこに始まる配慮、完備された発展的転化…
それはこの様に言えるだろう…胎児、その本質はその(たね)にやって来る、それは地(球)に蒔かれ再びその力を手にする…。
初めそれは分離の状態として訪れ、わずかを除き大部分はひとりの中にある知性である…
次はより発展した人格の状態…。
重々しく鈍重な一つの部分が脱ぎ捨てられ、より精緻な一つの物的資質が残る:…
その一つの種は、最初の生き方を忘れる…
なぜならその人としての統合が消えうせたから…。
そこからの歩みの空間は、レテ(*訳注* 対話3 忘却の川レテ 参照 )、そして分け入るは魅惑の国…。
その瞬間はすぐには訪れなかった…
多くの実をつける様々な能力、そのおすそ分けがこの(たね)としての命…
赤子にそれは繰り返され、展開されるはそれまで得た経験を運ぶこと…
それは幼い少年期に現れる自然な傾向、当然ながら彼らは理解できない行動をする(例えば、不思議なまた抜きん出た天才的な少年少女たち)。
それはアモーレ、統合的共感的な様式の斬新でより価値のある愛、人々の必要性によりふさわしく自らその創造者として斬新な真の人間へと変貌すること;…
それは、あなた方が命をすり減らし獲得したよりヘヴィーで重たいそのマテリア(*訳注* 物質、資質、素材、…)へと分裂していく…。
― 死が自然に訪れるその時、その精神的なコルポ(*訳注*生体物質)は、第三の実在へと準備される…。
― 哀れなるかなその者が、探し求めるその鍵は宗教的永遠なおぞましき人の姿(それは死)、烏合の衆…
そこにはその時々とその国々が、死とその理想への様々な分析の慣習があったに違いない…
それは分析と解剖の劇場…誰かがそれを呼吸しひとりの医者となり、人はその(しかばね)を常とする。
それは神秘、ひとつの命が途絶えること…
創造されしもの、見えるもの見えないもの、また思い描かれたもの思い描くことのできるもの全てにとって、それは普通のこと…。
植物たちは死に、鉱物・動物・原子そして惑星たちも;…
それゆえその死というものは人間にとっての特殊な現象ではない:…
それはどこにでも現れる…成熟と適合、その容態の激変である…。
人々は言う…
それは私たちを織り成す細胞が死ぬこと、そしてそれらは絶え間なく新たにされ続ける…。
その私たちの10年前の体、今日私たちは新たにされその物質は同じではない;…
しかしその思考は、何かが経験を通してもっと円熟して行く…
一方、精神的エッセンスの何かが生涯に示され、同一のその生は変わらず元のままに続いていく。


第9話までご紹介してまいります。

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