古代都市ペトラとは?                ネットからの抜粋

ペトラはヨルダンの政治と経済の中心地アンマンから約300kmに位置し、映画「インディージョーンズ・最後の聖戦」の舞台となった冒険心をくすぐる古代隊商都市。
(*訳注* 隊商とは:キャラバンを組んで交易する商人の一団)

大小さまざまな岩山に囲まれた場所にあるペトラは、1812年にスイスの探検家によって発見されました。
ペトラとはギリシャ語で「岩」を意味し岩をくり抜いて創った建物群が印象的です。
2000年もの間、隠され守り続けられたペトラ遺跡は1985年にユネスコ世界遺産に登録されました。

ナバテア人の幻の都、ペトラの始まり

紀元前1200年頃からエドム人が住んでいたのが始まりで、彼らの詳しいことは未だに不明です。
昔からユダヤとの関係は劣悪で、紀元前1000年頃ユダヤの王ダビデに小国エドムが襲われることもたびたび。
絶えず争いが続いていたようです。
紀元前64年頃既にナバテア人もここに住んでいたとの説もあり、ナバテア人が住んでいたことは大ペトラの真北にある小ペトラに痕跡が残っています。
ローマの将軍ポンペイウスがペトラを支配下に置き、自治権は認めていたものの税を課していました。
自治権が許されたのも、ペトラが栄え経済力があったからこそ成しえた事実です。

紀元前8世紀にはユダヤの王アマジアが1万人のエドム人を崖から突き落とし殺したという伝説も残っています。
紀元前6世紀頃からはエドム人たちを南へ追いやり、ナバテア人が移り住み始めました。
この古代都市ペトラを作ったのは、西アラビアからやってきた遊牧民のナバテア人です。
彼らはここで隊商貿易に成功し、巨万の富を得ると遊牧生活を捨てこの地で定住生活を送るようになります。
紀元前312年には、ペトラは10km四方に渡る大都市となり「ナバテア王国」の首都として栄えました。
先住民のエドム人はどうなったかは、残念ながら不明です。

交易の拠点として栄えたペトラ

ペトラが栄えた最大の要因は、東の中国と西のローマを結ぶ交易ルートの中心的存在だったからです。
ペトラに入るには3つの入口があり、その一つは「シーク」という崖の間にある入口でした。
ここを通るキャラバンたちは全長約1.6km、幅3mに満たない細い道を通り抜けなければなりませんでした。
ナバテア人は香料、絹、香辛料など通過する品、全てに税を課し富を得て少しづつ繁栄したのです。
このシークには、地下室があり見張り番もいたようです。
この地を通る人は、結構勇気が要ったのでは?と思ってしまいます。

砂漠の真ん中にあるペトラには既に貯水池があり、水の供給技術が発達していました。
シークの奥には約260㎢の大きな空間があり、ペトラの人々は豊富な水を振る舞い、キャラバンたちにオアシス的な場を提供していたのです。
この供給施設は、大規模な洪水が起こった時に奇跡的に造られたもので、その後の長期間に渡る干ばつもこの給水システムにより危機を乗り越えました。
ペトラ人はアラビア文化の流れを汲み、アラビア語を話しアラム語を書くことが出来ました。
遺跡の岩壁には美しい飾り文字も見られます。
エドム人から引き継いだ陶器製作技術も進化していたようで、3世紀末まで陶器を中心に生産していました。
ワディムサでは窯が発掘されています。

モーセにまつわる遺跡もたくさん残るペトラ

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の聖人であるモーセ。
ペトラの水源アイン・ムーサの杖によって湧き出した泉で、ペトラの入口シークもムーサの杖によってできたとの伝説が残っています。
数キロメートル離れたアイン・ムーサから素焼きの水道管を通して貯水池に水を送っていました。
これにより3万人の生活用水の確保ができたと伝わっています。

ここでも、エドム人から伝わった陶器生産の技術が役立っているのです。
ペトラの街は神域でもありました。
ナバテア人の墳墓も岩壁に彫られています。
この街の高貴な人々の墓所では、美しいナバタイ陶器も出土しています。
古くから作られていた陶器や給水システムなどをみると古代文明を結ぶ要衝として繁栄するとともに、世界最先端の文明を持っていたことに気づかされます。
遊牧生活を送っていたナバテアの人々は、今でもペトラに辿り着くには徒歩か馬に頼るしかない、なぜ辺境の地に都市を築いたのか不思議な話です。
巨万の富を得たナバテア人は強盗や異民族が自分たちの財宝を狙うのではと恐れ、家族と財産を守るために辺鄙な岩山を選んだとの説があります。
ここはナバテアの人々にとって安住の地だったのです。

時代とともに衰退したペトラ王国の最後

ローマ帝国の勢力が強くなるたびに、ますます交戦が激化します。
106年にペトラ王朝はローマ帝国のトラヤヌス帝によって併合され終止符を打ちました。
ローマ帝国は植民都市をペトラに造ります。
列柱通りを中心に、王宮、神殿、市場、劇場、公衆浴場などを建てて街を改築します。
ローマ人が石山を掘って造った遺跡も散見されています。

ペトラにあった遺構も少しずつ減り、かつての栄華は見る影もなくなっていきます。
ビザンチン帝国全体にキリスト教が浸透します。
そうなると、ペトラには主教区に指定され、かつての信仰の場は、現在あるウルンの墓と呼ばれている教会に改修されました。
最近の発掘では更に3つの教会が見つかり、色モザイクで覆われた新しい教会も建てられています。

廃墟と化し忘れ去られるペトラ

ローマ帝国は地中海のほぼ全域を支配し、実質的に交易権を握りました。
イランやカスピ海の地を支配していたパルティアとローマ帝国の対立が激しくなります。
この二つの帝国の間にあるシリア中央部のパルミラが交易の中心になりました。
これによりローマ帝国の支配を受けたペトラですが、価値がなくなり衰退の一途を辿ります。
更に363年に大地震がペトラを襲い、多くの建物が崩壊し見るも無残な姿になりペトラは壊滅。
6世紀にはほとんど人も住まなくなりました。

その後7世紀にイスラム軍が、12世紀には十字軍が要塞を築きわずかながら歴史に名を登場させました。
13~15世紀にはキャラバンの立ち寄り場所として再度ペトラが使用されたことを示す遺跡も発見されています。
しかし、このペトラが日の目を見ることはなく、ベドウィン族たちが閉鎖的に暮らす地域となり、忘れ去られてしまいます。

自然と人がつくり出した大いなる遺跡ペトラの発見

1812年にダマスカスからカイロまでの途中に、ペトラ遺跡の話を聞きつけたスイスの探検家ヨハン・ルードヴィッヒ・ブルックハルトが、イスラムの巡礼者に変装してこの地を訪れました。
ペトラは、その後も地震、砂嵐、洪水に見舞われ、75%砂の下に埋もれ廃墟と化していました。
彼は、この地域の住人達ベドウィンと出会い、これがペトラ遺跡との事実を確認しました。
彼が世界に向けて遺跡の存在を配信したことで、現在の観光地として日の目を見ることになりました。

シークを進み視界が開けると映画の舞台になったバラ色に染まる宝物庫エル・ハネズが見えます。
ここだけはエオド・ディルなどとはデザインや建築物の様子が異なり、古代ギリシャに関わる人物が造ったものだとの説があります。
ここは宝物庫といわれていますが、寺院や王の墓との説もあり未だ謎のままです。
ただ、痛々しいのがベドウィンによって撃ち込まれた銃弾の跡が今でもはっきりと壁面に残っています。
味わい深く謎に包まれたペトラ遺跡。
ヨルダンが世界に誇る、貴重な宝といえるペトラの壮大なる遺跡。
1世紀頃に造られたのにもかかわらず、高度な文明や技術を見ることができ、命の営みの深い歴史と壮大なロマンを感じとることができます。